人生の目的2

 

私のブログを検索していただければわかりますが、私は部分的にですが「人生の目的」について何度も書いてきました。ただ「人生の目的」の表題のもとブログを書くのはちょうど10年ぶりです。ちょうど10年前の2012年5月30日に記事を掲載したようです。

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人生の目的について特に新たに付け加えることはないのですが、少しばかり今までとは異なった観点から人生の目的の必要性について考察してみたいと思いました。

 

私のツイートですが、最近次のようなツイートをしました。
「戦略の欠如を戦術で補うことはできない、と誰かがいっていたけど、人生に目的がないということは戦略の欠如で、一生懸命何かに取り組むということは戦術であって、つまり一生懸命何かに取り組んでも人生の目的がなければ不完全だということがいえます。」
「戦略の欠如を戦術で補うことはできない」との言葉は誰のものかはっきり記憶がないのですが、これは戦前の日本軍の分析をもとに述べられたコメントだったような気がしています。旧日本軍は太平洋戦争において適切な戦略もないまま多くの日本人と他国の人を犠牲にしましたが、それへの反省がもとにあります。この言葉はもしかしたら上野千鶴子氏が紹介していたのを目にしたのかもしれませんが、まったく確かかどうかわかりません。戦前の日本軍に限らず、失われた30年ともいえそうなこの30年間、バブル崩壊によって国の目標、目的を見失い、もしかしたら戦術といえるものはあったかもしれませんが、確かな国家戦略なしに過ごした30年間だったのではないかという気もします。この2年間のコロナ対策にしても、何をゴールと政府がみなしているのか私にはまったく伝わってきません。戦略の欠如は他の何ものによっても補うことができないもので、太平洋戦争時もそうでしたが、国民の多くのリソース(資源)が適切に活用されてこなかった、努力が正しい方向へと向けられなかったという気がしています。それほどに戦略というものは重要です。

 

私なりの見解ですが、ここで少し戦略と戦術というものについて説明しておきましょう。私の一般的な理解ですが、戦略、戦術という言葉は戦争において用いられるだけでなく、今では企業経営においてもよく用いられているようです。しかし企業経営だけに限りません。戦略は一般にある目的を達成するために、あらかじめさまざまな問題点や課題を抽出し、それらをどう乗り越えていくかというようなことを描いた全体の見取り図、計画のことです。戦術とは、戦略の実行においてさまざまな局面に直面しますが、その個々の局面において具体的にどう課題を解決していくかということです。私の知人が戦略と戦術の違いについて、大雑把ですが、戦略は目的に関係することで、戦術は手段に関係することだと述べていました。

 

私は「人生に目的がないということは戦略の欠如で、一生懸命何かに取り組むということは戦術であって、つまり一生懸命何かに取り組んでも人生の目的がなければ不完全だということがいえます。」と書きましたが、では人生の目的は何だろうかということです。少し前に『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)という本が話題に上がりました。この本は古くから読まれているもので、長年にわたって人生の目的について人々が悩んでいることがうかがえます。私はこの本を読んだ記憶がないのですが、この本を読む人の気持ちはわかります。

 

私が受け入れている人生の目的はインドでいわれてきているように、「ダルマ(正しい倫理的行動)、アルタ(富を求めること)、カーマ(欲望、特に子孫をもうけること)、モクシャ(解脱)」です。人間が人間の名に値するものとして、人間的行動であるダルマは必要です。富を否定する人もいますが、社会や家庭、個人が適切に機能するために富を得ることは必要です。子孫を残すことに関してもそれを人生の目的に含めて問題ないと思っています。最後が解脱です。解脱に限らず、一般に諸宗教が提示する理想的な最高のありようを目指すことといっていいでしょう。あまり深く考えることなく、私はこの4つを受け入れることができます。他にも人によっては「愛」のように少しバリエーションの異なる目的をもつこともできるます。誰にも語っていませんが、私には固有の人生の目的があります。

 

低い目的・目標は罪であるといわれますが、人生の目的を掲げるなら、一生をかけるに値する実際達成できるかどうかわからない高い目的を掲げるのがいいと思います。私はすべての人が解脱を目的に掲げてもいいと思っています。適切な手段というものがあろうかと思いますが、どんな人でもそれは達成しうると思います。まずは人生の目的を掲げて、その上で人生の諸段階において何をなせばいいのか細部を詰めるのをおすすめしたいです。

一元(一体性、unity)の印

 

先週は「唯一者のみが存在する」と題して書きました。たぶんに私の経験の伴わない哲学が中心でした。私は知っていますが、体験のない哲学を延々と語る人はまあいます。できるだけそれは避けるように心がけてはいますが、たまにはそういうこともあります。二元論から一元論への一つの道筋を知ることだけでも意義は少しあるでしょう。

 

さて、今日は自分が一元論に立脚できているかどうかの一つのリトマス紙、テストについて語ります。
Sri Sathya Sai Baba Officialの4月20日のツイートに次のような言葉がありました。
The absence of harmony in thought, word and deed in each individual, is reflected in the lack of unity among different individuals. -  #SriSathyaSai
(思いと言葉と行為が各個人において調和を欠いているとき、それは異なる個人間の一体性(unity)の欠如を反映しています。(サティヤ・サイ・ババ

 

唯一者のみが存在するとき、その唯一者を神と呼ぼうと自分と理解しようとそれはどちらでもいいわけです。一つのものであって、ただ呼び名がたくさんあるだけです。唯一者しかないとき、人が恐怖を感じることはありません。恐怖は通常自分とは異なる何かに対して感じるものだからです。なので、恐怖のあるなしは一元論に立脚できているかどうかの簡単なテストです。

 

もう少し詳しく述べれば、ある人が完全に一元論に立脚しているとき、その人は嘘は言わないでしょう。言う必要がないわけです。さらにはその人の思いと言葉と行動には完全な調和があるはずです。思う通りに語ることを妨げるものはないし、語ることを行為に移すことに躊躇する理由はないわけです。しかしもしある人の思いと言葉と行為に調和がない場合、それは何を意味しているでしょうか?

 

私は完全には一元論に立脚できてないのでわかります。たとえば私は思ったことを語らなかったり、適当な言葉でごまかすことがあります。このブログでは思ったことを書いていますが、普段日常的に顔を合わせる人にこのブログで書いていることをペラペラ喋っているわけではありません。日常生活では何かを語るとき文脈を大切にしているからですが、しかし日常生活においてこのブログに書いてあるようなことをいっても理解してくれる人はあまりいそうにないからです。このブログを読んでくださっている方々は多少なりともこのブログが扱っていることに関心があるのでいいのですが、世間一般の人は必ずしもそうではありません。まったくの嘘をつくというより、思っていることを相手に伝える適切な言葉がすぐに見つからないときにごまかすということです。可能な限り思っていることを適切な言葉に表そうとはしていますが、努力しているものの、十分な能力が私にないわけです。ある意味、私は人に対して異なることをいっていることになります。それは私の周囲において社会が分断されているともいえます。私にとって社会が等しいものであるならば誰に対しても同じことを言えるでしょうし、しかしそれができないとき、私は分断化された世界に生きているといえます。

 

私の例のように、思いと言葉と行為の間に時と場合によって調和がないならば、それはその人が一元論に立脚していないということを示しています。逆に言えば、ある人が二元論から一元論へと進みたい場合、それはある種の苦行といえるものでしょうが、思いと言葉と行為をいつも誰に対しても調和させるようにすればいいわけです。この意味で、「一元論=思いと言葉と行為の一致」なる等式が成り立ちます。一元論は価値ある目標になります。またこれなら一元論は単なる哲学ではなく、実践的な生き方ということができます。

 

そもそも論なのですが、唯一者しかいないならば人はそれほど多くを語らないように思います。多分二元論の人に比べれば、一元論の人の言葉数は少ないでしょうし、口に出す言葉だけでなく心の中のおしゃべりも少ないものと思われます。

唯一者のみが存在する

 

少し前のブログで霊性の特性として「すべては内在する」、「出発点に戻る」を挙げましたが、今日はもう一つそれに付け加えます。それは「唯一者のみが存在する」です。これに関しては私の体験が追いついていないので半ば信念といっていいでしょう。しかし哲学としては太古から主張されていることです。

 

「誰が、一なる者(エーカム)からこのあらゆる多様性を創ったのでしょう? その答えは、「多様性はまったく存在していないので、この質問は成り立たない」というものです。この「多」は、人が作ったものでもなければ、力や衝動、連鎖、状況、偶然が作ったものでもありません。 「多」は存在しません! 「一」は「一」のままです。あなた方が、それを「多」と間違えているのです。誤りはあなた方にあります。あなたの見方を正しなさい。あなたの迷妄を取り除きなさい。」(サティヤ・サイ・ババ 1962.11.24)

 

サイババによれば、私たちが見る多様性は存在していないようです。それはただ多様性に満ちているようにみえるだけのようです。つまりこの世界(宇宙)が存在する以前、それは自らが生まれる前の母の姿を想像するようでもありますが、私は神あるいは絶対者としかいいようのない存在があったと感覚します。あくまでも私の抱く概念としてはそれは唯一の存在でした。そして科学ではビックバンと呼ばれるような状況が生じ、世界(宇宙)が現れました。それは見える限りでは今もそうであるように多様なのでしょうが、しかし見えるという属性(そしてそれによって惑わされること)が加わっただけで唯一であることは変わってない、そういうことなのだと思います。宇宙が誕生する前は単なる白いスクリーンで、宇宙が誕生した後は光が当たり映画が上映されているスクリーンに当たるでしょう。映画が上映されていない白いスクリーンも、映画が上映中の色のついたスクリーンも変わりはない、つまり「一」は「一」のままであるということです。

 

多様性と一体性(一つであること)に関して、次のような話を聞いたことがあります。「帽子が革でできていて、ベルトが革でできていて、靴が革でできています。帽子とベルトと靴は異なるものつまり多様ですが、革は一つです。この世のありとあらゆるものは異なって見えますが、すべては同じものです。ただ、同じ革でできているといっても帽子を履き、靴を頭に載せる人はいません。この世のすべては同じものですが、見た目や形、性質によって扱いが異なることはあります。」

 

例えば次のように考えることもできるでしょう。私は人間として一つ(一人)の存在です。しかし私の体は何十兆もの細胞でできています。細胞は多様ですが、多様であってもすべては一つです。私はその時の精神状態によって、世界が自分の体のように感じることがあります。そのときすべては一つであるという実感に近いのでしょう。そういう精神状態において他者をどのように捉えればいいかということですが、世界という一つの体の中の一つの細胞と捉えることがあります。受け止め方によっては、世界には70億人がいて、私は70億の細胞で構成されている一つの体だと思うことは可能です。

 

あるいは多様性または他者に関しては次のように考えることもできるでしょう。それは唯一者を映し出す鏡にすぎないと。家族は社会を映し出す鏡であるという言葉を聞いたことがあります。祖父母、父母、子どもの家族において、互いは互いを通して社会の一面を見ることができるでしょう。それと同じように、この世にある多様性とはそれぞれ唯一者を映し出す鏡であると受け止めることはできます。多様性があるコミュニティで不調和を示すならば、それはその多様性を入れる容器としてそのコミュニティが小さすぎるだけなのかもしれません。

 

上に少しばかり論じたように、哲学としては「唯一者のみが存在すること」は受け入れることができます。これを実体験として受け入れるには、私は世界が自分の体のように感じることを土台にしていきたいと思っています。一元論それも不二一元論が何の役に立つのかという批判は多く聞かれます。それは言葉遊びなのではないかと、社会の役には立たないのではないかと。今の時点で私はこれに対して大きな反論はできませんが、例えば世界を自分の体のように感じ、その上で自分が整えば、あるいは自己コントロールができるならば、それは漢方薬に似て、世界全体をととのえるのに役立つのではないかという思いがあります。現時点ではそれは信念のようなものではありますけれども。サイババはかつて、「自分自身でいなさい。それが奉仕です」といっていたような気がします。それは真実であるという気はするのです。

法句経

 

私は仏教徒真宗門徒ですので、仏教に関しては普段真宗関係の文献を読むことがほとんどです。若い頃は仏教でもさまざまなことに関心をもってはいたものの、あまりにも広大な領域なので、結局自分の家の宗教に関する文献中心になりました。真宗の文献を読んでいて気づきを与えられることが多いのでそれで満足しています。真宗に関しては少しばかりこのブログで触れたことはあります。おそらく他のどんな宗派でも同じように何らかの学ぶべきことがあっておもしろいのでしょう。

 

さて買ったときのことを覚えていないのですが、書棚に岩波文庫の『ブッダの真理のことば 感興のことば』がおいてあって、しばらく前から時々手にとって読んでいます。「真理のことば」はダンマパダの中村元氏による日本語訳で一般的には法句経の名の方が知られているのではないかと思います。26章423の詩句からなるお経です。一つ一つの句は短く423といっても岩波文庫で60ページほどです。以前読んだときはそれほど思うことはなかったのですが、最近読んでいると味わい深い句が多いのに気づきます。いくつか挙げてみましょう。

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19 「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。―牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。」 実行の伴わない言葉は怠りにすぎないというわけです。そういう部類の人は霊性の領域にある人ではありません。これを避けるための有効な手段は、行った後にそれを語ることです。
43 「母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。」 それが母や父や親族よりも優れたことをしてくれるならば、正しく向けられた心を確保することは母や父の庇護から自立することも意味します。たとえば人生の目的を理解していて心がそれを保っているならば、あるいは仕事をしていて心が仕事の目的に焦点を合わせているならば、半分はその目的が達せられたといっていいのかもしれません。
145 「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎み深い人々は自己をととのえる。」 自己をととのえる、つまり自己のコントロールは慎み深い人に可能であるようです。日々の生活において自分のやっていることを慎重に振り返る時間は大切なのでしょう。

 

他にもたくさん心に響く詩句があります。お釈迦様が短い言葉で人生に必要なことの要点を示してくださっています。この本の後半は「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)でこれは33章147ページあります。同じように短い詩句からなっています。

 

私はツイッターをするのですが、何となくお釈迦様の短い句、偈はそれに似た印象をもちます。長いお経はそれなりにいいのですが、「真理のことば」や「感興のことば」のように短いものもそれなりのよさがあります。外出時にカバンに入れて少し時間があるときに目を通すなどできます。他にも短い詩句からなる聖典類には、私が読んだことがあるものでは、歎異抄やバガヴァッド・ギーター、菜根譚などがあり、少しばかりニュアンスに違いがあっても、どれも人生を深めるのに役立つものばかりでした。長い文章をたどる学習もいいのですが、短い詩句をさまざまに味わうのもよさがあります。私は若いときは長い文章を読むことが多かったのですが、最近は幾通りもの解釈を許してくれる豊かな意味を含んだ短い詩句を好んでいます。短歌や俳句の文化のある日本では短い詩句を味わう方が好まれそうな気はするのですが、どうなのでしょうか?

満足(contentment)

 

今日は満足についてです。これまで何度か自己満足(self satisfaction)について触れたことはありますが、それに似た目の前、自分を取り巻く状況への満足(contentment、満たされていること)については初めて書くかもしれません。満足は欲望と対比することができます。欲望は、あれが欲しい、これが欲しいという思いです。何か欠けているという思いが背後にあります。満足は欠けているものはないという思いです。私は全託について時々考えるのですが、全託は信仰の対象にすべてを委ねることですが、満足がないつまり欲望がある状態では全託はできません。欲望がある人はこうしたいああしたいという思いを優先し、委ねることができないからです。つまり全託を考えるならば、満足という徳は身につけておかなければなりません。

 

満足について考えさせてくれるいくつかのツイートを拾ってきました。

・初女さんの答えは「〝いまを生きる〟ことでいますので、これも考えていません。なにも考えてない。でも周りがこういうこと言うの。始終『どうなるの?』『どうなるの?』って。で、〝いま〟より確実なものはないから、いまのことが後のことにつながるのだから、わたしは考えていないんだよって」(西村佳哲
・キリストが「明日のことを心配すべきではない」と言うとき、私たちが完全に無責任になるよう提案しているのではない。「明日について心配すべきでない」ことと、「額に汗して生活費を稼ぐ」ことが合体されるべきだ。この2つが合わさると、見事に自然な人生の言葉を得る。(ラメッシ・バルセカール)
・「自分には何も欠けていない」と知ったとき、「世界」は「あなた」と一つとなる。(老子
・生の神秘に気付きたければ、「今の状況にないものは、そもそも必要ないんだ」と理解すること。実現すべきより素晴らしい境地も、状態も、感覚もありはしない。まさに今いる場所で、それとともにある許可を自分に出せばいい。(J・J・マシューズ)

 

私はこれまであまり満足という徳について考えたことがなかったのですが、結構意義深い徳のようです。初女氏の言葉からわかるように、満足している人はよそ事を考えず、いまを生きるのでしょう。確かにいまほど確実なものはありませんし、いまほど自分が世界と深く関与できる時もありません。何も考えずにいられる人は高尚な人だと思います。
キリストのいうように、満足している人は明日のことを心配しないでしょう。私はかつて一日一歩歩めばいいとこのブログで書きましたが、着実にそして誠実な仕事をたとえ一日一歩だとしてもなしている人は、「明日について心配すべきでない」と「額に汗して生活費を稼ぐ」が合体するのと同じで、明日のことを心配する必要はないような気がします。明日、明日一日分必要なものがあればいいのです。
老子の言葉も深さを湛えたことばです。自分には何も欠けていないとは、完全な満足があるということです。今ある状態で十分だということです。老子はその時「世界」と「自分」が一つになるといいますが、私には伝わってくるものがあります。
「今の状況にないものは、そもそも必要ないんだ」と理解すること。今日一日あるいは今後数日か数週間生きるに必要なものがあれば、着実に今日あるいは今後数日、数週間生きることができるわけです。今日一日生きることなく、あれが欲しい、これが欲しいといっていたら人生を生きることができなくなります。

 

若い頃は心配ばかりしていましたが、最近は着実そして誠実に生活していたら、欲しいものの多くは与えられないかもしれないけど必要なもの+αは確実に与えられるという安心感がえられてきました。それなりに確かな生き方をしていたら、自分にどれだけのものが必要かは何となくわかってくるものです。私は日本人としては貧しい方の部類の人間でしょうが、それでも家の中には使わないものがあふれていて少し困っています。私は今後30年ほど生きるとして、もうすでに読むべき文献のほぼ9割は手に入れていますし、自然災害がなければ死ぬまで住める家もありますし、食べるものはそれほど多くはありません。着るものにも無頓着です。快適で豊かな生活はできなくとも、必要なものに満たされた生活はよほどのことがない限りほぼ確実です。先程も書きましたが、その日一日に必要なものだけあればいいわけです。そしてその必要なものの量というのは実際のところほんのわずかです。私はほどほどに貧しいながらも、しかし他者に分け与えるものすらあります。今の日本に生きることは恵まれています。

 

先週の出発点に戻るということに関連していえば、人は生まれてくるとき何ももたずにやってきて、死ぬときも何ももたずに去っていくわけですから、できるだけ溜め込むのではなく、必要十分なもので満足して、他は分かち合うのがいいのだろうと思います。それが私の目標である全託につながるとも思っています。

 

出発点に戻る

 

霊性の特徴の一つは「すべては内にある」ことと何度か触れましたが、今日はもう一つの霊性の特徴について触れたいと思います。それは「出発点に戻る」ということです。アルファベットにOとCがあります。Oを書くときは書き始めと書き終わりが一致します。Cを書くときは書き始めと書き終わりが異なっています。霊性はアルファベットのOに似ています。しかし現代において主流の論理、思想においては論理の出発点とそれから導かれることはほとんど異なっているでしょう。Cは現代社会の特徴を映し出しています。

 

最近知った児童文学者瀬田貞二氏によると、子どもが好む物語の特徴は「行って帰る」(『幼い子の文学』)だそうです。たとえば冒険に出て戻ってくるようなお話です。日常から少し離れるのだけど必ず戻ってくる、そういうお話はなぜか子どもを惹きつけるといいます。細かいことは忘れましたが、私がよく読んだ作家ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』もそういう特徴を備えていました。ドキドキしつつも、最後はもともといた場所に帰ってくる。ときにはその過程を通して主人公が変容しているケースもあります。私はかねてから思っていますが、優れたファンタジー霊性に関することを文学的に表現したものだと受け取っています。ファンタジーに限らず、優れた絵本や物語には多かれ少なかれ霊的な要素がありそうです。

 

オーム(プラナヴァ)に関する記事を今年になって書きましたが、その際にオームは出発点でありかつ最終目的地であると書きました。宇宙はオームという音と同時に生まれ、いつになるのかはわかりませんが宇宙はそれに融合するとされます。人間の意識もそうでしょう。生まれた最初は無垢といっていい状態でしたが、この世にまみれる中で複雑に入り組んでいき、それは最終的に浄化され無垢の状態に戻ったとき、それは涅槃に近いものとされます。解脱というものもそれに似た状態でしょう。

 

タイティリヤウパニシャッドの中のアーナンダヴァリには宇宙の進化の過程が描かれています。ブラフマンからアーカーシャ(空)、ヴァーユ(風)、アグニ(火)、アーパ(水)、プリティヴィ(地)の元素が次々に生まれ、プリティヴィ(地)から植物、植物から食物、食物からすべての生命存在が生まれます。人間もそうやって生まれてきたことになります。人間は探求の過程を経て5つの鞘へとたどり着きます。すなわち食物鞘、生気鞘、心理鞘、理知鞘、至福鞘です。さらに至福は11段階に分かれています。最初の段階はこの世のすべての財産を手にしたものの喜びの段階で、最終段階はブランマーナンダ(ブラフマンの至福)です。つまりブラフマンから万物は生まれて、最終的にブラフマンの至福にたどり着くことで進化の過程は完結します。出発地点に戻るのです。

 

無神論者であっても、あるきっかけで神を探し始める旅に出ることがあります。宗教の世界を探ります。聖地を巡礼します。多くの聖者を訪問します。しかし神は見つかりません。神を探す旅は短いかもしれませんしあるいはとてつもなく長いかもしれませんが、ある時人は気づきます。神は自らの心(ハート)の中におわすと。自らの心に神を求める強い思いが湧いてから、世界中を探し回ったかもしれませんが、しかし最終的に神は神を求める強い思いが湧いたその心にいらしたのです。出発地点と最終地点は同じです。

 

霊性というのは上に挙げたこれらの例のように、Oの字のように円環を描きます。そこから来たところに帰るのです。アインシュタインコスモポリタン(国籍・民族などにとらわれず、世界的視野と行動力とをもつ人)でしたが、最終的にユダヤ人として死ぬことを受け入れました。アインシュタインは霊的なことを理解する人でした。

霊性修行2

 

霊性修行については10回以上このブログで触れたことがあります。インドの言葉でサーダナともいいます。霊性に焦点をあたえた行のことで、瞑想や称名、礼拝、奉仕、祈り、霊的文献の学習などがそれにあたります。いわゆる修行の意味に近いと思います。その目的は心の浄化もっといえば心を取り除くことにあるとされます。サイババによりますと、霊性修行=サーダナの4分の3は探求(自己探求)だそうです。先週は思惟と題してエデュケア(内から引き出すこと)について触れました。思惟は(自己)探求に似ています。そうであるならば、その4分の3が探求であるとされる霊性修行(サーダナ)はかなりの部分思惟と関係するでしょう。当然エデュケアとも関係します。

 

たとえば祈りについて考えてみましょう。祈りは心(ハート)の奥から湧き上がってくる思いを言葉にしたものであるべきです。祈りを捧げるときには、自らの祈りの意味をよく理解した上で口にしなければなりません。ある祈りの言葉があって心の思いがそれに関係していなければ、果たしてその祈りは神仏に届くでしょうか? 意味をよく理解した上で祈りを捧げるとき、さらにはその祈りに沿った形で生活が営まれるときに祈りは聞き届けられるでしょう。祈りを捧げるときに思いがそれにふさわしいならば、それは思惟に似た効果があるのではないでしょうか? 自らの意識を確かに深めます。それは自己探求に関わり、心の奥のより深いものに到達させてくれます。

 

瞑想はどうでしょうか? 瞑想には非常に多くの技法がありますので、今は私が20年近く行っている光明瞑想について述べます。光明瞑想は眉間から光を取り込み、それをハートにおろしてハートに想像した蓮の花の花びらを一つ一つ開いていきます。その後光を手足や目鼻口頭などに移し、それらが光のもとで邪なことにかかわらず正しく用いられることを思います。そして頭頂部から光を外に出し、親や兄弟、親族、友人知人、近所や職場の人、あるいは敵対している人たちをも光で包みます。また社会や自然なども光で包んでいきます。余談ですが、私は最近プーチン氏を愛の光で包むようにしています。最後に私は光の中にあり、光は私の中にある、私は光であると思って静寂に入ります。これらの作業を意識的に継続して日々行うことは思惟に似ていないでしょうか? 光明瞑想は確実に意識の探求をもたらします。

 

御名やマントラを唱えることについても触れておきましょう。日本仏教に限らず、他国の宗派の中にも御名やマントラは意味がわからなくても唱えておけばいいという人がいるかも知れません。しかし意味がわからずに唱えるならばテープレコーダーとまったく変わりません。御名を録音したテープレコーダーを回していれば、テープレコーダーは霊的に向上するのでしょうか? 機械的に唱えても私は意味があるとは思いません。ただ人間はなかなか集中力を保てないので、それらを唱えているときに心がよそへ飛んでしまうことがあることは認めます。私が人に教わったのは、たくさん御名などを唱えるのは、一回でも心を込めて唱えることができるようにするためだということです。何はともあれ、御名やマントラを唱えるとき、その御名やマントラの意味を理解しておかなければなりません。たとえば阿弥陀様の御名を唱えるとき、阿弥陀様の属性や御姿を思い浮かべるのが好ましく、それによって心の汚れが取り除かれ、ひいては心の奥に内在するものに気づくようになります。御名やマントラを唱えることも思惟に似ています。

 

つまり霊性修行(サーダナ)というものは、正しく行われれば自然に意識の探求、自己探求につながるものです。そういう世界中で行われている修行には探求ひいては教育効果(エデュケア)があるものですが、このことは現在一般に理解されていません。これはとても残念なことです。霊性修行(サーダナ)は心の涵養につながります。人間に深みをあたえてくれます。学校教育に宗教を取り入れるのは現状難しい面があるかもしれませんが、家庭においては各人が宗教を生活に取り入れることは比較的容易でしょう。宗教が人の生活にどのような影響をもたらすのか知っている人が少ないのが現状です。

思惟

 

先週はエデュケアつまり内から引き出すことについて触れました。今週は内から引き出すテクニックといっていいのでしょうか、それにまつわることを少し書こうと思います。

 

浄土真宗では正信偈という親鸞聖人が記された詩を拝読することが多くあります。これは親鸞聖人の御教えの要約のようなものにあたり、浄土真宗の御教えを知るには正信偈の内容を知るのが手っ取り早いのではないかと思います。大無量寿経の中にもあるでしょうが、正信偈の中に「五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)」という部分があります。法蔵菩薩が五劫もの長い間思惟を重ね48願を完成させたという意味です。劫はインドの時間の単位で、いろいろ説はあるようですが、その一つに「四十里四方の大きな固い岩があります。その岩の上に三年に一度、天女が舞い降りてきます。その時軽い天女の羽衣と岩がこすれて、岩の表面は減ります。そしてこの四十里四方の岩が、三年に一度の天女の羽衣との摩擦ですべてなくなってしまうまでの期間、それが一劫です。」(「正信偈もの知り帳」参照)という定義があります。ちょっと気が遠くなるような時間の長さです。五劫は劫が五つ集まったもので、それだけの長い期間にわたって法蔵菩薩は思惟し続けてきたということになります。この思惟ですが、多分思考とは意味が異なるものと思われます。私は先週漫然と頭が働いている、頭が対象についてまとわりついていると書きましたが、それは感覚としては思考というより思惟に近いものです。思考の対象をなでているのに似ているからです。

 

思考の対象を契機として意識に内在する知識、純粋な思いなどを引き出すことは、化石を掘り出すのに似て地道な作業です。少しずつ 少しずつ意識を探索します。その一歩一歩は思惟によって導かれているといっても良さそうです。ならば法蔵菩薩は五劫思惟によってエデュケア(内なる真理を引き出すこと)に携わっていたともいえます。


 Have the thaapam (the deliberation, the decision, the discipline) first, that is better than paschaath-thaapam, (regret forthe mistake made). Arjuna had thaapam, he saw the consequences even before the battle beganand wanted Krishna to advise him what to do. But, Dharmaraaja, the eldest brother, had paschaath-thaapam, sorrow after the war was over, repentence after the loss incurred. Reason out and discriminate.(Sathya Sai Baba 1968.02.11)
ターパン(熟慮、決意、規律)を最初に持ちなさい。これはパシチャートターパン(犯した失敗を後悔すること)より好ましいのです。アルジュナはターパンをもっていて、戦いが始まる前にすでに結果を見通しており、クリシュナからどうしたらいいかというアドバイスを欲しました。しかし長兄であるダルマラージャはパシチャートターパンを持っており、戦いが終わった後に悲しみ、損失を被った後に後悔していました。しっかりと思考し識別しなさい。(サティヤ・サイババ 1964.02.11)

 

この引用にターパンという言葉が出てきますが、deliberation熟慮という言葉は思惟という言葉に近いと私は思います。人には行動してから考える人と考えてから行動する人、あるいは行動しながら考える人がいるかと思いますが、私は考えてから行動する傾向の強い人間です。さまざまな用でどこかに行く際にもあらかじめ計画し、大雑把ですがどこで何をするかを決めておいてでかけます。でかけたら計画通りに淡々と行動するだけです。あらかじめ結果はほぼ見えています。結果がわかってから行動するといっていいでしょう。これはターパンといわれるものに近いと思います。法蔵菩薩は五劫も思惟し、人々を救うことが確実になってから阿弥陀仏となりました。

 

このブログで取り上げたことがあると思いますが、日本に梅路見鸞(うめじけんらん)という弓の達人が明治期でしたかいました。聞くところには、彼は矢が的にあたってから弓で矢を放ったようです。矢が的にあたってから矢を放つので百発百中です。実際にそうでした。梅路師の内面で起こっていたのもターパンや思惟に似たプロセスではないかと思います。世の中には未来が決まってから行動する人がいるのです。

 

エデュケアは知識を引き出すだけではありません。霊性の見解では内にすべてがあるのですから、自分の運命や未来もそこにあります。アルジュナや梅路師のように未来を引き出してくること=未来を確実にして行動に移すことも一つのエデュケアです。私はアルジュナや梅路師のような達人ではありませんが、日常的に似たプロセスを通じて日々生きているところがあります。つまりエデュケア=思惟=ターパンの類です。ある種の完全性や完璧性とも関わるのかもしれませんが、こういう生き方はおもしろいと思うので、可能なら試行錯誤しながら試みてみるといいと思います。

エデュケアとエデュケーション

検索していただければわかりますが、エデュケアについてはこのブログで3回ふれたことがあります。エデュケアはサティヤ・サイババが強調した概念です。さまざまな定義ができるのでしょうが、わかりやすくいえば「内から引き出すこと」です。先週書きましたように、意識あるいは心の世界にあるものを言葉(や行動)を媒介として引き出すこともその一つです。一方エデュケーションはいわゆる日本や他国一般で行われている教育のことです。読み書きそろばんのように言語や数学などの扱いに長ずることやさまざまな知識(情報)に関連することです。今日はこのエデュケアとエデュケーションの関係について少し触れます。

 

先週「意識の考古学」と題して、化石を取り出すように知識を得ていると書きました。私は漫然と頭を動くにまかしているところがあり、風が木々にまとわりつくように、水が川底の石をなでるように、頭は何かの対象について思いを巡らせています。特に霊性に関心がありますし、他にも経済や教育、山歩きや地域のことにも関心があります。ニュースアプリで現在起こっていることも大雑把に把握しています。頭が何かの対象について思いを巡らせているとき、大体それらのインプットに応じた思考が行われています。子どもがレゴブロックをいじるような感じで頭は思考対象をいじっています。意識的な目的はほぼありません。そういう時間をある程度確保していたら、そのうち何らかの新しい気付きが得られます。それは私が想像=創造したものというより、見つけたものです。発見とは見が発するということです。何らかのパースペクティブ(視野)が与えられると同時に新たな光で照らされた何かが見えてきます。それはそこにあったものといってもいいでしょう。また発見は英語でdiscover=dis+cover(覆いを取り除く)と書きます。覆いを取り除くことで埋もれていた何かが現れるということです。私にとって思いを巡らすことは、レゴブロックのように何かと何かが思わぬ結びつきを示し何かを見るレンズが形成されることでもありますし、あるいはスコップで土いじりをしているとき、土の中に何かを見つけるような作業にも似ています。それは内にあるものを見つける、そしてそれを言語化することによって少しばかり引き出してくる、つまりエデュケアの過程の一つといえます。

 

霊性のことについて思いを巡らしているときには大抵霊性に関する知見に到達します。経済のことについて思いを巡らしているときには経済に関する知見が得られます。いわゆる知識=情報は教育に関することですが、それらがきっかけとなって内なる探索が行われています。教育=エデュケーションとエデュケア(内から引き出すこと)は私の中でこのように関連しています。私が内から引き出してくることにどれだけの価値があるかは、他の人にとってはあまりどうでもいいことでしょう。実際私がこのブログに書いていることに価値を与える人は相対的に少ないわけです。あくまでも私の人生に関係する価値ということです。

 

まったく学校教育を受けていない人でも、家族や地域などで人と関わることで何らかの知識を得ていますし、まずはそれらを契機としてだれでも内なる探索、探究は可能です。私が大切だと思うのは、学校教育で高度な知識を与えられていようとあるいはそうでなかろうと、自分に今備わっている知識をもとに内なる探究ができるかどうかです。なので私はいわゆる教育と同時にエデュケア(内から引き出す)の訓練が必要だと思いますし、エデュケーションとエデュケアが両輪となって人生を歩むことが人生に実りをもたらすと思っています。

 

サイババの学校ではこのエデュケアの訓練がカリキュラムに組み込まれていますし、内から引き出すことになじんでいる人は、自分のなじみのない分野でも少しばかり時間をかければ物事を理解できます。私が個人的に思うのは、エデュケアの能力を発揮するには、思考の自律性、自立性やさまざまな人生の実体験を重ねていくこと(経験的知識)、あるいは遊びの要素、心の余裕、ある概念に関する手本、先達が身近にいることなどが必要に思います。

 

霊性の世界では外界と内界は対応しているといわれます。外に私たちが見るものはすべて私たちの内にある。なので外にあるものを調べるときには内なる世界を調べなければなりません。外にあるものを外を見て調べるのがエデュケーションであり、外にあるものを内を見て調べるのがエデュケアです。基本的に態度が異なります。付け加えれば、内と外との間に対応関係があると理解していることは英知の特徴の一つでしょう。

意識の考古学

大層な表題を付けてしまいました。私はかつて児童文学あるいはファンタジー文学に興味を持っていた時期があり、よく読んだ作家の一人にミヒャエル・エンデがいます。彼の配偶者は日本人で日本と縁の深かった方です。このエンデの書いた本に『闇の考古学』というものがあります。かなり昔に読んだことはありますが、父のエドガー・エンデを語ったもののようで、今は内容はほとんど忘れています。エドガー・エンデは画家だったのですが、彼がどこから着想を得て絵を描いていたかに関する本だったと思います。エドガー・エンデは一人暗闇の中でじっとしていて、イメージが湧いてくるのを待っていたようです。イメージといってもいわゆる想像作用によるものではありません。私の受け取りとしては、瞑想中に伝わってくるメッセージ性を感じる絵や映像に近いようです。その絵像は化石を掘り起こしたもののようにあらかじめ存在していたものといえます。

 

今日私が書きたい意識の考古学もそれに関してです。若い頃の私は一生懸命に無理して思考するところがありました。ある種何かと格闘するかのようにです。それで何か実のある思考ができたかといえば必ずしもそうではありません。今の私は強いて思考することはほとんどありません。頭が半自動的といっていいように動いています。そして自動計算のように時々何らかの結論を導き出しています。当然ほとんどのアウトプットはかなりの程度インプットに依存しています。私の思考はたとえばぼんやりと編み物をしたり、歩いている際に行われます。思考は内なる世界に浸っていて、それは意識との触覚的な相互作用と言えるかもしれません。思考の多くはとりとめのないものなのですが、ときに思わぬものが思わぬものと結びついて新たな知識が得られます。それは意識という地層から化石を見つけるに似ているといってもそれほどおかしくない作業です。ぼんやりしているとき、私の思考は時空を超えて自由にさまよっていますので、他地域の文化について思考していたり、あるいはずいぶん昔の時代のことを考えていたりします。そういう時間をある程度確保することで少しばかりの知識が得られます。

 

少し話は変わりますが、ヴェーダは別名シュルティ(聞かれたもの)といわれており、極めて意識が純粋な聖者たちによって感得されたもののことです。つまり聖者たちによって聞かれたものをメロディとサンスクリット語によって補完し、保管されたものがヴェーダです。またヴェーダは聖者たちによって霊視されたもののことだといわれることもあります。聞かれたものであれ、霊視されたものであれ、同じことをいっているのでしょうが、人に聴覚人間と視覚人間があるように、多少ニュアンスが異なるのかもしれません。

 

ヴェーダは人間が勝手に考えたものではありません。マホメットは啓示を受けたといわれていますが、それよりももっと純粋なものでしょう。仏教やキリスト教は基本的にお釈迦様やイエス様が語ったことが経典になっています。ヴェーダは神の呼吸だとされます。それはこの世界ができる前から存在し、この世界が消えてなくなった後も存在するとされます。生気が体を隅々まで満たしているように、ヴェーダはこの世界を隅々まで満たしています。おそらくですが、桜のヴェーダとか微生物のヴェーダとかそういうものもあるはずです。

 

私は意識の考古学に携わっているつもりでいますが、それでもかなり粗雑なことしかできていません。日本で可能かどうかはわかりませんが、意識を極めて純化したとき、その状態で意識が開示されたならば、そこにヴェーダが常に存在していることでしょう。その根源状態にあるヴェーダを直接聞いてみたいという好奇心はあるのです。耳を両手で覆えば、ゴーという音(これがプラナヴァ=オームです)が明らかに聞こえてきますが、これと同じ程度に明らかな音としてヴェーダを聞くことはどうすれば可能だろうかと思います。それはおそらくですが、意識の考古学を進めていったその先にもしかしたら可能なのではないかと勘ぐってはいます。

プラナヴァ(オーム)2

1995年3月20日地下鉄サリン事件が起こりました。その日から約27年経ちました。月日が経つのは早いものです。しかしながらこの事件をはじめオーム真理教が残した傷跡はまだ残っています。もちろん被害者の方々の心の傷はなかなかいえるものではないでしょうが、私が個人的に感じているオーム真理教の影響があります。それはインド文化が日本において歪んだ形で記憶されているということです。私はインド文化を尊敬するものですので、インド文化が歪んだ形で日本人に記憶されていることが非常に腹立たしくあります。

 

もう8年近く前になりますが、次のような記事を書きました。

aitasaka.hatenablog.com

ヒンズー教のシンボルであるのはプラナヴァ(オーム)です。今日はこのプラナヴァについてもう少し付け加えたいと思います。

 

私はヴェーダを学んだので、プラナヴァ(オーム)に関して述べる多くのヴェーダの詩節があることを知っています。私はヴェーダの御教えのいくつかは実践したいと思っていますので、これまでたとえば「マトルデーヴォーバヴァ、ピトルデーヴォーバヴァ(母を神としなさい、父を神としなさい)」などを誠実に実行に移そうとしました。他にもいろいろ生活に取り入れるように努めていますが、その一つにプラナヴァ(オーム)を唱えることがあります。私はオーム真理教とは関係なく、当初からまったく関心をもたなかったので、それに関する書籍も読んだことはありません。私がプラナヴァ(オーム)を唱えるのはただヴェーダに基づいてです。

 

たとえばタイティリヤウパニシャッドに次のような詩節があります。

オーミティブランマ オーミティダグンサルヴァム

(オームはブラフマンである。オームはすべてである。)

プラナヴァ(オーム)の唱え方に関してはサイババが教えているので、それに習って唱えますが、唱えるときにその音そしてその音に浸されている私の身をブラフマンであると思うようにしています。あるいはオームの音のうちにすべてがあると思って唱えています。そうたくさんの数を唱えているわけではありませんが、家で時間のあるときに唱えています。オームを唱えることの効果の程は個人的な感覚ではまああると思います。オームは不二一元を示しているといわれており、そのことも含め唱えることでさまざまな気づきが得られています。私がこのブログで書いた記事のいくつかもそのような気づきによるものです。

 

プラナヴァ(オーム)があり、神の御名があり、ガヤトリーマントラがあり、これらからヴェーダのすべてが生じています。最初にあったのはプラナヴァ(オーム)であり、オームを黙想することからありとあらゆる想念や思想の発展があり、神の御名やガヤトリーマントラが派生し、更には膨大な量のヴェーダが生まれました。そしてこのヴェーダが人間がよるべきダルマの道を示しているとされ、それによって人類世界は平和な生活を送ることができるようになります。太古のはるか昔の出発点はプラナヴァ(オーム)でした。プラナヴァはビックバンのときに生じた音であり、それによって宇宙が生じたように。私はヴェーダの復興を願っていますが、もしかしたらひたすらプラナヴァウパーサナ(オームを唱えること)だけしておけばそれは可能なのかもしれないと思ったりもします。プラナヴァは私が思うよりも遥かに価値あるものであり、私はこの価値が日本人に適切に伝わってほしいと願っています。

 

人の最終目的は至高者との融合つまりモクシャ=解脱でありますが、その解脱を象徴するものもプラナヴァです。プラナヴァは小さな個がブラフマンに溶け込んだ状態を示しています。プラナヴァは最終目的地でもあり、人はそこから生まれたところに帰っていく、つまり円環を描いてその旅を終えるわけです。出発地点と最終地点が同じであることが霊性の特徴の一つです。

 

私がプラナヴァに関して考えていることは、インド人に比べればごくごく僅かですが、私の考えは師の言葉とヴェーダをもとに私の中で形成されたものです。誰かが私に教えてくれたものではありません。私の思考が特定の哲学学派の影響のもとにあるとはあまりいえないと思います。私は聖なるインド文化のごく一端でも日本に伝わってほしいと願っていて、それがプラナヴァ(オーム)への信念となっています。適切なことが適切な形で早い時期に伝わっていたならば、オーム真理教はグロテスクな姿を晒すことはなかったのかもしれません。過ぎたことは過ぎたことですが、今後のことを考えれば、他国の素晴らしい文化は適切な形で日本に紹介され続けなければならないと今思っています。