プラナヴァ(オーム)2

1995年3月20日地下鉄サリン事件が起こりました。その日から約27年経ちました。月日が経つのは早いものです。しかしながらこの事件をはじめオーム真理教が残した傷跡はまだ残っています。もちろん被害者の方々の心の傷はなかなかいえるものではないでしょうが、私が個人的に感じているオーム真理教の影響があります。それはインド文化が日本において歪んだ形で記憶されているということです。私はインド文化を尊敬するものですので、インド文化が歪んだ形で日本人に記憶されていることが非常に腹立たしくあります。

 

もう8年近く前になりますが、次のような記事を書きました。

aitasaka.hatenablog.com

ヒンズー教のシンボルであるのはプラナヴァ(オーム)です。今日はこのプラナヴァについてもう少し付け加えたいと思います。

 

私はヴェーダを学んだので、プラナヴァ(オーム)に関して述べる多くのヴェーダの詩節があることを知っています。私はヴェーダの御教えのいくつかは実践したいと思っていますので、これまでたとえば「マトルデーヴォーバヴァ、ピトルデーヴォーバヴァ(母を神としなさい、父を神としなさい)」などを誠実に実行に移そうとしました。他にもいろいろ生活に取り入れるように努めていますが、その一つにプラナヴァ(オーム)を唱えることがあります。私はオーム真理教とは関係なく、当初からまったく関心をもたなかったので、それに関する書籍も読んだことはありません。私がプラナヴァ(オーム)を唱えるのはただヴェーダに基づいてです。

 

たとえばタイティリヤウパニシャッドに次のような詩節があります。

オーミティブランマ オーミティダグンサルヴァム

(オームはブラフマンである。オームはすべてである。)

プラナヴァ(オーム)の唱え方に関してはサイババが教えているので、それに習って唱えますが、唱えるときにその音そしてその音に浸されている私の身をブラフマンであると思うようにしています。あるいはオームの音のうちにすべてがあると思って唱えています。そうたくさんの数を唱えているわけではありませんが、家で時間のあるときに唱えています。オームを唱えることの効果の程は個人的な感覚ではまああると思います。オームは不二一元を示しているといわれており、そのことも含め唱えることでさまざまな気づきが得られています。私がこのブログで書いた記事のいくつかもそのような気づきによるものです。

 

プラナヴァ(オーム)があり、神の御名があり、ガヤトリーマントラがあり、これらからヴェーダのすべてが生じています。最初にあったのはプラナヴァ(オーム)であり、オームを黙想することからありとあらゆる想念や思想の発展があり、神の御名やガヤトリーマントラが派生し、更には膨大な量のヴェーダが生まれました。そしてこのヴェーダが人間がよるべきダルマの道を示しているとされ、それによって人類世界は平和な生活を送ることができるようになります。太古のはるか昔の出発点はプラナヴァ(オーム)でした。プラナヴァはビックバンのときに生じた音であり、それによって宇宙が生じたように。私はヴェーダの復興を願っていますが、もしかしたらひたすらプラナヴァウパーサナ(オームを唱えること)だけしておけばそれは可能なのかもしれないと思ったりもします。プラナヴァは私が思うよりも遥かに価値あるものであり、私はこの価値が日本人に適切に伝わってほしいと願っています。

 

人の最終目的は至高者との融合つまりモクシャ=解脱でありますが、その解脱を象徴するものもプラナヴァです。プラナヴァは小さな個がブラフマンに溶け込んだ状態を示しています。プラナヴァは最終目的地でもあり、人はそこから生まれたところに帰っていく、つまり円環を描いてその旅を終えるわけです。出発地点と最終地点が同じであることが霊性の特徴の一つです。

 

私がプラナヴァに関して考えていることは、インド人に比べればごくごく僅かですが、私の考えは師の言葉とヴェーダをもとに私の中で形成されたものです。誰かが私に教えてくれたものではありません。私の思考が特定の哲学学派の影響のもとにあるとはあまりいえないと思います。私は聖なるインド文化のごく一端でも日本に伝わってほしいと願っていて、それがプラナヴァ(オーム)への信念となっています。適切なことが適切な形で早い時期に伝わっていたならば、オーム真理教はグロテスクな姿を晒すことはなかったのかもしれません。過ぎたことは過ぎたことですが、今後のことを考えれば、他国の素晴らしい文化は適切な形で日本に紹介され続けなければならないと今思っています。