一元(一体性、unity)の印

 

先週は「唯一者のみが存在する」と題して書きました。たぶんに私の経験の伴わない哲学が中心でした。私は知っていますが、体験のない哲学を延々と語る人はまあいます。できるだけそれは避けるように心がけてはいますが、たまにはそういうこともあります。二元論から一元論への一つの道筋を知ることだけでも意義は少しあるでしょう。

 

さて、今日は自分が一元論に立脚できているかどうかの一つのリトマス紙、テストについて語ります。
Sri Sathya Sai Baba Officialの4月20日のツイートに次のような言葉がありました。
The absence of harmony in thought, word and deed in each individual, is reflected in the lack of unity among different individuals. -  #SriSathyaSai
(思いと言葉と行為が各個人において調和を欠いているとき、それは異なる個人間の一体性(unity)の欠如を反映しています。(サティヤ・サイ・ババ

 

唯一者のみが存在するとき、その唯一者を神と呼ぼうと自分と理解しようとそれはどちらでもいいわけです。一つのものであって、ただ呼び名がたくさんあるだけです。唯一者しかないとき、人が恐怖を感じることはありません。恐怖は通常自分とは異なる何かに対して感じるものだからです。なので、恐怖のあるなしは一元論に立脚できているかどうかの簡単なテストです。

 

もう少し詳しく述べれば、ある人が完全に一元論に立脚しているとき、その人は嘘は言わないでしょう。言う必要がないわけです。さらにはその人の思いと言葉と行動には完全な調和があるはずです。思う通りに語ることを妨げるものはないし、語ることを行為に移すことに躊躇する理由はないわけです。しかしもしある人の思いと言葉と行為に調和がない場合、それは何を意味しているでしょうか?

 

私は完全には一元論に立脚できてないのでわかります。たとえば私は思ったことを語らなかったり、適当な言葉でごまかすことがあります。このブログでは思ったことを書いていますが、普段日常的に顔を合わせる人にこのブログで書いていることをペラペラ喋っているわけではありません。日常生活では何かを語るとき文脈を大切にしているからですが、しかし日常生活においてこのブログに書いてあるようなことをいっても理解してくれる人はあまりいそうにないからです。このブログを読んでくださっている方々は多少なりともこのブログが扱っていることに関心があるのでいいのですが、世間一般の人は必ずしもそうではありません。まったくの嘘をつくというより、思っていることを相手に伝える適切な言葉がすぐに見つからないときにごまかすということです。可能な限り思っていることを適切な言葉に表そうとはしていますが、努力しているものの、十分な能力が私にないわけです。ある意味、私は人に対して異なることをいっていることになります。それは私の周囲において社会が分断されているともいえます。私にとって社会が等しいものであるならば誰に対しても同じことを言えるでしょうし、しかしそれができないとき、私は分断化された世界に生きているといえます。

 

私の例のように、思いと言葉と行為の間に時と場合によって調和がないならば、それはその人が一元論に立脚していないということを示しています。逆に言えば、ある人が二元論から一元論へと進みたい場合、それはある種の苦行といえるものでしょうが、思いと言葉と行為をいつも誰に対しても調和させるようにすればいいわけです。この意味で、「一元論=思いと言葉と行為の一致」なる等式が成り立ちます。一元論は価値ある目標になります。またこれなら一元論は単なる哲学ではなく、実践的な生き方ということができます。

 

そもそも論なのですが、唯一者しかいないならば人はそれほど多くを語らないように思います。多分二元論の人に比べれば、一元論の人の言葉数は少ないでしょうし、口に出す言葉だけでなく心の中のおしゃべりも少ないものと思われます。