条件付不二一元論

 インド哲学における分類に二元論、条件付不二一元論、不二一元論があります。二元論とはまったくの多様性です。善悪二元論もこの範疇です。不二一元論は唯一つのものが存在し、外界に見る多様性は幻だというものです。ただ一つのものしか存在しないときに他者は存在しません。二元論と不二一元論の中間に条件付不二一元論があります。正確に条件付不二一元論を定義することは私には難しいのですが、私なりの受け止めを書いてみます。

 私にとって条件付不二一元論とは、私と神だけがいる状態のことです。私と神が存在するので不二一元論ではありません。また私と神しかいないので、多様性を見るのとは異なります。私以外はすべて神なのですから。

 私は条件付不二一元論を生きるように心がけています。不二一元論を生きるのは今の私には少し難しいからです。私の知っている人に、すべては一つすべては一つと高尚な哲学を語る人がいたのですが、実際にその人の振る舞いを見るとその辺の俗な人とまったく変わらなく、またそういう不二一元論を説きたがる人が結構多くいるのをときどきに知って、バカバカしく感じてきました。

 条件付不二一元論を生きるように心がけていると書きましたが、具体的には、先程書いたように認識的には、私と神だけが存在していて私以外は皆神であるという受け取り方になります。時間の過ごし方としては、24時間365日神を思いながら過ごすように心がけているのですが、外界で起こることのすべてを神のご意志と受け止めて、状況というものに適応しながら生きることが含まれます。

 実際のところ、生活しているとさまざまな人との人間関係が生じますが、私は個別の関係にこだわらないようにしています。神との関係がきちんと保たれてさえいれば、他の人間関係は自動的に調整されるという主張を信じていて、少なくとも朝晩に静かに神を思う時間をとって神との関係を毎日確認しています。そうすると、他の人間関係が相対的に気にならなくなるし、気にならなくなってその関係にこだわらなくなれば、いつの間にか種々の人間関係がなめらかなものになっています。ある意味では私は人間関係が面倒くさいので、疎遠になっているともいえるのですが。

 神の御名を唱えることにも効用があるとされます。神の御名を唱えるときは、その御名の意味するところを思い浮かべることが望ましいのですが、そのようにして御名を唱えるだけで、人生のありとあらゆる問題が自動的に調整されるといわれています。

 要するに、私は神との関係をきちんとしたものにしたり、神の御名を唱えることで、諸関係や諸問題を神に丸投げして調整してもらっているわけです。

 人間の知性には限界があります。外界で起こることは自分にとって最善なことであるとされますが、人間の知性ではそう思えないことが多々あるのはご承知のとおりです。外界で起こっていることは、私よりも優れた知性をもつお方が私の最善を思ってなされていることだという信仰がなければ、人生の諸問題に悩まされるのは必至です。

 至高の存在があり、目で見えたり耳で聞こえたりするいわゆる世界はその神の衣服のようなものです。

 私は自分が条件付不二一元論を生きるように心がけていると書きましたが、それは以上のような態度でこの10年近く生きているということを意味しています。この態度を今後も何十年か続けていたならば、もしかしたら完全なる不二一元論の境地に近づけるかもしれませんが、今のところはそういう期待をもたないようにしています。今でも他の人に比べて十二分に幸せを実感しながら生きていますから。もし仮に私が不二一元論の境地に達したならば、ブログを書いたり、ツイッターをしたりすることもなくなっているでしょうし。