マスタープランとプラン

 

今日はマスタープランについて書いてみます。マスタープランは日本語では次のような意味があります。主に都市計画などで使われることが多いようですが、「基本となる計画、基本設計」を意味するようです。英語では次のような意味がありました。「an organized set of decisions made by one person or a team of people about how to do something in the future」(未来においてどのように物事を行うかに関してチームあるいは一人の人によって形成された決定の束)。二つのニュアンスは異なると思うのですが、どちらかといえば英語の意味に近いマスタープランについて述べてみます。

 

都市計画や企業経営において計画の枠組みがあると思いますが、ある程度年齢を重ねて振り返ってみたときに、人生にも(個々人の人生であれ、社会の趨勢に関係するものであれ、広く歴史に関係するものであれ)何らかの筋書きのようなものがあったと感じることがあります。それを人生におけるマスタープランであるととらえてみましょう。多分サイババは「The 'Master' has a 'Master plan'.(主人MasterにはマスタープランMaster plan)があります。)といっていたと思うのですが、私のような運命論者はそのようなマスタープランを生きてきたと思うほかないわけです。マスターのなした計画、歴史をえがくものと同じお方が個々人の運命の細部までなされた計画があるわけです。しかし人間はマスターのなされた計画を人間のレベルでのカテゴリー、つまりマインド(思考)のレベルで受け取ってしまいます。


たとえば次のような言葉があります。「Stop Thinking ; Start Chanting ; Solve Everything...」(考えるのをやめなさい。(御名を)唱えなさい。すべてが解決されます。)人間は考えます。chanting(称名)という霊的行為は人間のレベルより上を希求する行為です。プランは人間のレベルです。霊的な行為はプランよりもマスタープランに近いものです。

 

次のような言葉もあります。「Love is wiser than wisdom. If you have to choose between being kind and being right, choose being kind and you will always be right.」(愛は英知よりも賢いものです。もしあなたが親切であることと正しくあることのどちらかを選ばなければならないとしたら、親切であることを選びなさい。そうすればあなたはいつも正しくあるでしょう。)この二つの英文は元は別々の言葉です。しかしつなげて考えると納得のいくことがあります。一般に賢くありたい人は英知を求めます。しかし愛の道を歩む方が英知の人より賢いというのが前半の文の意味するところです。後半の文はその具体例と受け取ることができます。賢くあろうとすることは人間的です。しかし愛は神的です。賢くあろうとすることはせいぜい人間のプランですが、愛はマスタープランです。

 

Masterは主のことです。主の御意志や計画は普通の人間にはわかるものではありません。しかしもし御名を唱えるような霊的行為や、愛のような価値を実践することをマスタープランととらえてたとしても、それほど主の御意志から外れたものではないと思うのです。川は両岸の堤防の範囲内であるならば、どこを流れても構いません。それは自由です。両岸の堤防がマスタープランです。人間はその範囲内で自由にプランを立てて生きることができます。牛は柵に囲まれた範囲内では自由に草を食むことができます。柵はマスタープランです。その範囲内で自由に生きることはプランです。人間とは体や感覚、心、知性などの構成要素が一つに有機的に構成されたものですが、人間的価値とはそれらの制限内でそれらを適切な目的に向けて活用することです。たとえば愛や真実や正しい行いのことです。これらはマスタープランです。自らが置かれている状況においてこれらの価値を個別に適用するやり方はある程度自由であるかもしれません。サーダナやヨーガのような霊的規律もマスタープランです。同じサーダナを行うにしても、個々人の進歩の度合いによってその効果はさまざまかもしれません。これら一連に関することはプランです。

 

マスタープランとプランの二つの概念は、運命と自由に関係しているように思えます。人間は自分は自由であると強力に主張するかもしれませんが、しかしながらマスタープランという概念に意識が向けば、少しは運命論について理解が進むかもしれません。そして運命論を受け入れることができるようにならば、単に考えたことに振り回されるのではなくさまざまな価値(人間的価値や霊的価値、倫理的価値など)に目が向くようになると思うのです。