無属性なるもの

 

もう4年半ほど前になりますが、「I am I.(私は私)」という題で記事を書いたことがあります。

aitasaka.hatenablog.com


私Iとは本来属性が与えられる以前の無属性のものであるということについてです。今もこの通りだと思っています。今日はさらにこの見解に少しばかり付け加えたいと思っています。

 

愛という言葉があります。この「愛」は人を引き付ける言葉で、多くの人がある種の感情をそう呼んでいるのかも知れません。仏教では愛は愛着を意味するものとしてむしろ慈悲という言葉の方が好まれます。世界には愛について考えるグループがたくさんあるでしょう。キリスト教徒であるならば、愛が何かわからなければそもそも教義が理解できないのかも知れません。私個人はこれまでそれほどこの言葉に強くひきつけられてきたわけではありませんが、それでも少しばかり愛について考えてきました。そして今思うのですが、この愛もI(私)と同じく無属性のものを指し示す言葉なのではないかという気がしています。

 

愛とはこういうものであると愛の属性が指し示されることは、愛に制限を与えることです。たとえば愛とは人間に向けられるものであるとするならば、時に愛は肉体という制限が与えられるものとみなされます。それは更にいえば親子の愛や性愛にまで制限されるかも知れません。つまり愛に属性が与えられたならば、愛の対象が制限される一方愛の対象から外れるものも出てくる可能性があります。愛が対象を制限するならば、それはむしろ愛とはいい難いものです。つまり愛が普遍的であるためには愛は無属性でなければならないのではないかと思うのです。無属性のものは無機質であると受け止められるかも知れませんが、あくまでも私の体験の範囲内の話ですが、そうとはいえないような気がしています。無属性の愛は他の言葉で言い換えれば思考に汚される以前の純粋な意識に似ていて、ただポジティブなものです。無属性な愛は太陽の光のようにただ周囲を照らしているようなところがあります。

 

もう一つ無属性だろうものを取り上げます。アートマ(真の自己)です。もしアートマとはこういうものであるといえるならば、アートマは人間にとって認識の対象となり、つまり自分と離れたものになります。それはアートマの定義に反するものです。アートマは認識の対象ではなく認識の主体といった方が近いものです。「アートマはこういうものである」とはいえないのです。つまりアートマも属性のないものです。これはI(私)の議論とほぼ同じで、おそらくアートマが肉体と結びついた時に、つまり姿のないアートマが人間の姿をまとった時に自らを表象する仮のものとしてI(私)という言葉があるのです。

 

今日はI(私)と愛とアートマの3つを取り上げましたが、もしかしたら他にも本来的に無属性のものはあるでしょう。I(私)と愛とアートマがどれも無属性のものを表す言葉であるならば、これらはつまりは等しいといえそうです。I(私)は愛であって、愛はアートマであって、アートマは愛であって、アートマ(存在)は自らをI(私)と呼ぶのです。

 

無属性のものを自覚することができるでしょうか?私は自らの内に無属性のものを自覚できています。それは愛なのです。純粋なるものであって、それがすべてをささえています。それは人生を創造しています。自らを浄化すること(サーダナ)が人生を生きる重要なテクニックであるならば人はそこに帰融する運命でもあるでしょう。無属性なるものは創造・維持・破壊であり、ヒンズー教ではこの3つの属性をもつものは神であるとされます。いえ、神という言葉は今はおいておきましょう。無属性のものを自覚することがまずは大切だと思うのです。