神道について2

 

前々回のブログの記事の中で「サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。」と書きました。これは私の偽らざる気持ちです。ここに、「いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。」とあります。伝統芸能ですとその多くは決まりきった様式や形式を踏襲しているのですが、人生というのは活きものですので、時代の風潮やかかわる人が変わってくると、それに応じた振る舞いを多少なりとも調整しなくてはなりません。「日々是新なれば日々是好日なり…」(松下幸之助)という言葉があるようですが、これは日々元旦のように新しい日であるならば、それはおめでたい一日だという理解ができるようです。日々新たであるならば、それに応じた新たな人生を心がけようともいえます。それを新たなダンスのステップと私は表現したわけです。

 

さて私は今年の正月に広島に行き神楽を初めてみてきました。かつて島根県を旅行した時に神楽の存在が身近であることを知り、最近になって広島県も同様に神楽が盛んであり、また伝統芸能にしては比較的手ごろな料金で楽しめることがわかったので、広島に行ってきました。私は一通り日本の伝統芸能のことを知っておきたいと思っており、歌舞伎や文楽を見に行ったことがあります。能・狂言はテレビでしか見たことがありません。能・狂言はその身体所作に感じるものはありますが、歌舞伎、文楽とともにある程度の知識もない私は、ただ見ただけでは理解できませんでした。しかしながら神楽は違いました。神楽は基本的に歌舞つまり歌(音楽)と舞です。現代のように物語に中毒するほど物語が氾濫している時代にあって、神楽のストーリー、物語性は極めてシンプルです。会場に入場する時に渡されたチラシに書かれていることを読んだだけで十分でした。45分くらいの公演における筋書きはほんの100字程度かもしれません。あとは音楽と舞を楽しむことに注がれました。これほどまでに物語性の負担を感じない芸能は初めてでした。新鮮な驚きです。そうであって、音楽と舞で十二分に楽しめます。私だけでなく、私の近くにいた、多分初めて見ただろう人の口からも「すごいな」という言葉がこぼれていました。

 

一説によると神楽は、岩戸に隠れたアマテラスオオミカミに岩戸から出てきてもらうようアメノウズメが舞った舞が起源だとのことです。それによって世界に光が再び差し救われたとされます。神楽は神道に関係があるといえます。神楽といえば宮崎の高千穂も有名ですし、島根県の岩見神楽も出雲から遠くはありません。さて、私はかつて「神道に教義はありません。ただ踊るだけです。」と神職の方が述べていたのを読んだことがあり、それがずいぶん心に残っていました。神道からすれば仏教や儒教は理屈が多いのでしょう。神道はあれやこれやと理屈はいわないという風にも理解できますが、しかしここで「踊る」というのがキーワードになってきます。先に私は日々新たなダンスのステップを習っているようだという言葉を取り上げましたが、結局のところ「ただ踊るだけです」というのはそういうことでもあると思うのです。神道といえば初詣ですが、新年を迎えた時のように清らかな心で新たな舞を習う、舞うということが肝要なのでしょう。

 

私にとっては、新たなダンスのステップを習うというのは全託と関係します。慣れていない初めての世界に飛び込むわけです。これこそが人生であるとはいえます。また、この世は神様が自ら芝居を演出し、自らが出演し、自らが見て楽しんでいる巨大な芝居だという意見もあります。ただ演じるだけ。それも神道でしょう。こう書くと底が浅い宗教のようではありますが、一生にわたってそれが可能であるためには、それなりの修練が求められるような気はします。かなりの程度の心の清らかさです。神道においてそれがどのようにして確保されているのかは知りませんが、「ただ踊るだけです」という指摘に忠実であろうとすれば、それなりに大変なところがあるように思えます。