愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

すべてを捧げる

 

先週はこれではない、これではないという探求とともに、奉仕や犠牲について触れました。私の中では、これではないという探求、奉仕、犠牲という三つの概念は同じではないにしろかなり重なる部分があって、近い意味として取り上げているのですが、人によっては非常にわかりにくい部分があると思います。このことについて改めて触れてみます。

 

これではないという態度は探求です。奉仕は一般的には困っている人に対する状況と時にかなった手助けですが、これは深い内容を含んでいて他にもさまざまな見方ができます。ただ時間やお金などを使っても報酬を求めないことが多いので、何かを手放すという側面は確かにあります。犠牲も人によって捉え方はさまざまでしょうが、私の受け止め方は、より価値のあるもののためにより低いものを手放す、あるいは自分でいるために自分でないものを手放していくというものです。なので少なくとも手放すという意味を三つの概念は共有しています。

 

これではないという探求、奉仕、犠牲と三つに分けずに、一つの態度としてそれを理解することも可能です。それはすべてを捧げるという態度です。私たちは朝目覚めて夜寝床につくまでさまざまな活動に携わります。洗面をしたり、食事をとったり、家事をしたり、仕事をしたり、娯楽を楽しんだり、何かを読んだり聞いたり、人との会話を楽しんだりなどなどさまざまです。それらのいくつかは習慣として行っているものもあるでしょうし、また別のいくつかは好んで行うこともある一方、嫌々行っていることもあります。行為の結果をまったく気にしていないことも多いでしょうが、行為の結果を念頭に行為しているケースもあります。行為=カルマの理論は深く、私のような人間にはなかなか理解できない部分が多いのですが、とにかく人間は小さなことから大きなことまで多くの行為にいそしんでいます。それらの行為を行う上で大切な態度はすべての行為を捧げることではないかと今は思っています。

 

行為を捧げるとは、一つは行為の結果を求めないということです。一般的には努力をすれば多くの場合その結果が得られると受け止められているでしょうが、実際には努力をしても得られないものがある一方で、努力をほとんどしなくても何かが得られることがあります。何はともあれ、行為の目的は行為そのものにあって、その結果ではないという態度を私は少しずつ育んできました。これが行為を捧げるということの一つの側面です。

 

次に例えば家に仏壇などがある人はわかるかもしれませんが、何かを捧げる際には、できるだけいいものを捧げます。仏壇には収穫の初物を捧げたり、買ってきたばかり、調理したばかりのものを捧げます。古くなったもの、腐ったものや自分が食べた食べ残しを捧げたりはしません。つまり行為を捧げるというとき、その行為が自分の悪い性質を伴わないように、できるだけ質がよく、清らかな行為を捧げます。とはいっても私は完璧な人間ではなく、頑張って98点までは何とかできるにしろ、100点満点の行為を捧げることは非常に困難なことが多いです。しかし時間や能力の制約のもと、できる範囲でできる限りのことを淡々とするよう努めています。

 

私は信仰のある人間ですので、すべてを捧げるという際、信仰の対象である超越者に捧げるのですが、正確にいえば超越者の計画に捧げているといえます。私は自分の生活に必要なものをすべて自分の自力でまかなうことができず、一方超越者は完全であるので私が何かを捧げなくても満ち足りていますから、私が何かを捧げるのはおこがましい気持ちがあります。しかし超越者の計画に捧げるという場合は、私の行為の結果が私に帰ってこなくてもいいですし、他の必要なところに配分されればいいわけです。超越者ご自身が受け取ってくださってもいいです。その逆も真で、誰かの行為の結果を超越者の配分によって私が享受していることもあると思っています。私は自らの行為の結果によってではなく、超越者の配分、超越者の庇護のもとに生きています。

 

このように、すべてを捧げるという態度は、私自身が行為でも行為の結果に縛られるものでもないという探求に似た態度でありますし、可能な限り良質のものを見返りを求めずに行為の受け手に捧げる奉仕でもありますし、結果を手放す以上犠牲でもあります。一日の行為をすべて捧げ物の態度で行えば、夜寝床につく際に安らかな気持ちでいれます。それは私のここ何年にもわたる日常です。(たまには怒りやちょっとした不安などにとらわれることもありますけれども)

Serve all, Be nothing

 

かつて下の詩について約2年前に書いたことがあります。

aitasaka.hatenablog.com


Bear all, do nothing. 
Hear all, say nothing. 
Give all, take nothing. 
Serve all, be nothing. (saibaba)
(すべてに耐え、何もしないでいなさい
 すべてを聞き、何も言わないでいなさい
 すべてを与え、何も受け取らないでいなさい
 すべてに奉仕し、何ものでもない状態でいなさい)
今日はリンクをはった記事に書いてあることとかなり内容が近いのですが、Serve all, Be nothingについて少し考察を付け加えます。Serve all, Be nothingは「すべてに奉仕し、何者でもない状態でいなさい」あるいは「すべてに奉仕し、無名でいなさい」と訳せるでしょう。

 

先週、自己実現とは何かをしないことに関わると述べました。人生の残り時間が少ない者にとっては時間ほど貴重なものはありませんから、時間を大切に使いたいのです。つまり、これではないこれではないという探求と実際に手放すことの繰り返しが自己探求や自己実現につながるというわけです。私の尊敬する一人に河合隼雄氏がいますが、彼は自己探求は玉ねぎの皮をむくのに似ていると語っていました。玉ねぎの皮を一つ一つむいていくとどうなるでしょうか?当たり前のことでしょうが、すべての皮をむいていくと何も残りません。何もないのです。しかしこれは実際のところ自己探求といえるのでしょうか?

 

serve all, be nothing(すべてに奉仕し、何者でもない状態でいなさい[無名でいなさい])も似たようなことを意味しています。serve all(すべての人に奉仕する)とは自分あるいは自分のものの一部を犠牲にして必要としているすべての他者へ捧げることです。奉仕に関しては、かつて欲望の節制(欲望を節して余ったものを奉仕に役立てること)との関連で触れたことがありますが、自分に必要なもの以外のものをそれが不足している方に捧げることが奉仕です。主にお金、食物、エネルギー、時間を活用することが奉仕を構成します。奉仕がエゴや執着を減らすのに役立つことは、それに長年携わってきたものには理解できます。世間の人は富や名声、地位などに関心があるかもしれませんが、奉仕に携わる人は、苦しんでいる人や困っている人、虐げられた人たちが多少なりとも喜びや平安を味わうことに関心があります。奉仕をよい評判を得るために行っている一部の人がいますが、実際のところ奉仕は自分が「貧しくなる」ことが目的です。つまりエゴにおいて貧しく、執着において貧しく、自分が何者でもない存在になるために行っています。

 

玉ねぎをむいても何も残りません。自分が「貧しくなる」ために奉仕を行います。そういうことにどれほどの意義があるかということです。これではない、これではないという生き方にどれだけの人が惹かれるかということです。2つだけその利点をあげておきましょう。

 

私の師であるサイババは、何ももっていない両手を人に見せて、「ここに何がありますか?」と問いました。問われた人は「何もありません」と応じました。サイババは「そうです、何もありません。しかしこれがすべてなのです」と答えました。彼は「何ももたないことは実はすべてを掌握していることを意味する」と示唆したのですが、ほとんどの人はそういわれても意味がわからないでしょうし、また何ももたない状態、そしてすべてを掌握しているだろう状態に耐えれません。アートマ探求が非常に困難なのはここに一つの理由があるでしょう。

 

もう一つの利点は科学と霊性の調和に関することです。私はここ最近意識的にものを考えることはほとんどありません。本やニュースを見ていますが、多少なりとも情報に精通しておくためです。頭は自然に働くにまかせています。私の意見では、思考というものは自らの前提が変われば自然に働くものです。つまり、これではないこれではないという取り除く作業によって、自らの前提にわずかなりとも変化があれば、それに調和するように頭は働くということです。自らの霊性(前提)に応じた科学(頭脳)がそこにあります。霊性の重要性がこのことからもわかります。

 

serve all, be nothingはこれらのことを象徴的に意味しています。

犠牲=浄化の道

 

先週の続きのような内容です。真理を映し出すにはハートが清らかでなければなりません。ハートが清らかであるとは一体どのような状態なのでしょうか? おそらくは悪い想念がない状態のことです。さらには善いものであっても想念は少ないに越したことはありません。想念は太陽の光を妨げる雲に似て真理の光を妨げるからです。悪徳の中で大きなものは「私=エゴ」と「私のもの=執着」です。

 

エゴを取り除く方法はいろいろあるでしょうが、私が最も簡単だろうと思う方法は、いつも「私たち=we」を念頭に考えたり行動することです。私たち=weのことを考えていると、私=Iという感覚つまりエゴが少しずつ無くなっていくのです。英語にはcommon sense(常識)という言葉があります。英語の原義、ニュアンスはよくはわかりませんが、commonという語には公共的な感覚、コミュニティ感覚が含まれていると思います。なのでcommon senseは私たち=we感覚のことだと私は勝手に理解していて、それに関わる知識や振る舞いのことを常識だと英語では言っているのだと思います。また私はヴェーダマントラを唱えていますが、その中にナ、ノなどの語がしばしば出てきます。サンスクリット語の格変化をよく理解してはいませんが、ナやノは「私たちが」とか「私たちを」というweやusに似た言葉です。つまりヴェーダの中には「私たち」を前提としたマントラが多くあるのです。私の利益ではなく、私たちの利益を考えることが大切なわけです。家族の一員として家族全体のことを考える。会社の一員として会社のことを考える。地域の一員として地域のことを考えるなどなど。人は時と場合によってさまざまな集団に属していますが、そのときどきにwe=私たち感覚を持つことが大切に思います。地球市民という感覚も大切ですね。

 

執着に関してはどうでしょうか? 私のお金、私の服、私の家、私の子どもなどなど「私のもの」という感覚は多くの人に染み付いています。よく考えてみればわかりますが、それらは遅かれ早かれ自分のもとを去っていきます。一時的に自分のもののような気がしているだけです。一時的にしか自分のものでないものは本当は自分のものといえないような気がするのですが、どうでしょうか?来ては去るものに強いこだわりをもつことは人間を苦しめるとお釈迦様もいっています。この「私のもの」感覚を取り除くにはどうすればいいのでしょうか? それはその物の管理を一時的に任せられていると受け止め、人の養育を任せられていると受け止める態度を育むことでしょう。会社で働いている時、会社の備品を自分のものと主張することはできません。それは一時的に貸与されていて、それを活用する機会を与えられているだけです。会社を辞めれば、他の人にそれがあてがわれます。自分の子どもは自分の好きなように扱っていいというわけではなく、子どもが適切に発達・発育するよう育てることを任せられていると受け止めれば、なすべきことを行ったあと過度の執着をもつことは減ってくるような気がします。

 

かつてアートマ=真の自己探求においては、これではないこれではないという形でしか探求はできないと述べました。真の自己がこれであると特定できるならば、それは自分の認識の対象であって自分から離れているからです。人生の目的である自己実現=self realizationということを考えた場合、自己=selfにまつわること以外を取り除かなければなりません。私は年を取り、残りの人生が日々少なくなってきているのを実感しているので、時間がとても貴重です。時間を有効に活用するには、何をなすか以上に何をなさないかが大切になってきます。しなくてもいいことに時間を費やすことは時間を無駄にすることだからです。自分が何をなすべきかが明確にわからない状況においては、何をなさないのがいいかということに関して意識的でなければなりません。人生はこれではない、これではない、これではないの連続です。残ったものが価値あるものです。

エジソンは多くの失敗をしました。しかし彼はその一つ一つの失敗が、これではうまく行かないということを教えてくれたので意味があったと述べています。つまり彼の発明は、これではない、これではないの繰り返しの末に生まれたわけです。ならばある意味では失敗こそが人生を生きる上での本質に関わるということです。失敗のない人生とは無意味な人生、探求のない人生だというわけです。浄化や犠牲という言葉が表すのは、このように本質的でないものを取り除くことによって本質にたどりつこうとする態度のことです。そしてこれこそが霊性です。霊性が世俗から距離を取るのはある面確かですが、しかし霊性の内に真の繁栄があることも確かなのです。

真理と真実

 

先週はニュートンアインシュタインを取り上げて科学的認識について触れましたが、それに関連して真理と真実に関して今日は少し書いておきます。真理と真実といっても私の語感に因る部分が多く、単なる文学的な議論に過ぎないという指摘もされそうですが、私の受け取り方を参考に各人が考えるきっかけにすればそれでいいと思っています。

 

私にとって真理とは時間や空間、人によって変わることのないものです。あるいは存在と現象とを考えた際、存在は真理で現象は来ては去るものであるということもできるかもしれません。これに対して、あくまでも私の感じ方ですが、真実は一時期、一地域、一分野において妥当だと認められた正しさのようなものです。先週述べたカントの認識論は真実を扱っていると私は受け取っています。なぜならば一般に科学理論は時間が経てば新たな理論で置き換えられてきましたし、科学以外のさまざまな見解に関してもほぼすべてが時の流れの中でその妥当性を失ってきた面があるからです。真理と真実は言葉は似ていますが、実はかなり隔たりのある概念なのかもしれません。

 

次のような話があります。
「クリシュナに近づいて、目の前に自分のすべての傑作、すべての称号、メダルやトロフィーを並べた、ある有名な画家がいました。その画家はクリシュナの肖像画を描くことを申し出て、それは快く承諾されました。しかし、その絵を見た人たちは、絵の中でポーズをとって座っているクリシュナはどこか違っていると思いました。その画家は、ありがたくもさらに何度か肖像画を描く機会を与えられましたが、その度に絵はどこかがおかしかったのです。なぜなら、誰もが認める御姿は、ポーズをとっているクリシュナの姿ではなかったからです。芸術家のプライドは完全にへし折られ、その画家は恥ずかしさのあまり頭を垂れ、すっかり恥をかかされたその都を後にしました。都の郊外でその画家を見かけたナーラダ仙は、画家の窮状のわけを聞くと、こう言いました。「主は多くの御姿を持っている。実に、すべての姿は神の姿だ。だから、神に一つの姿を定めることはできないし、神を描こうとしても上手くいかない。私がそなたにどうしたらいいか助言しよう」そして、その画家を自分の脇に来させました。
翌日、画家は、額に入れた大きな「絵」を白い布で包み、それを王宮に持って行きました。クリシュナは画家に布を取るようにと言いました。画家が布を取りはらうと、そこにあったのは鏡でした。「主よ、あなたには無数の御姿がおありです。この絵の中では、すべての御姿が、明瞭に、瞬時に描かれます」と画家は言いました。あなたのハートを清めてきれいな鏡にしなさい。そうすれば、そこに主の栄光が映るでしょう。(1966年3月17日サイババ)」

 

たとえとすれば、画家の絵は科学を含めさまざま人のさまざまな理論や見解のことです。それは真理=クリシュナの姿とはいつも少しばかり異なります。一般に人の見解は科学を含めある種のメガネを通して世界を見ているようなものです。それはいつも少しばかり真理と異なっています。一方画家の絵ではなく鏡は常に真理=クリシュナのすべての姿を示します。それはただ映しています。上の話では清らかなハートが真理を映し出す鏡です。画家の絵は科学で、一方清らかなハートは霊性です。

 

科学は真実に関することですが、霊性は真理に関することです。何かを対象として限定し理解しようとする時、それはいつも真実ではあっても真理ではありません。科学はanalyze(分析)し、霊性はrealize(実現)するといいます(サイババ)。それが真実と真理の違いでしょう。思考(頭)に関するものは真実で、ハートに関することはより真理に関わるといえるかもしれません。真実は演繹と帰納によって到達できるでしょうが、真理は犠牲=これではない、これではないという探求=浄化によって到達できそうです。

 

余分な話になりますが、真理と真実の他に事実というものがあります。起こったことのことです。事実は時間の経過とともに人の記憶によって容易に書き換えられるものですから、事実は意外に確定が難しいのですが、それについて触れるのは今はやめておきましょう。私は真理にも真実にも事実にも等しく関心はあります。一般に本当のことを語るというのは事実を語るということに近いですし、それを含めてtruth(真理、真実)という価値に可能な限り忠実でありたいと努めています。

ニュートンとアインシュタイン

 

科学において著名な両者ですが、今現在一般にはアインシュタインの方が人気かもしれません。そしてより優れた業績を残したのはアインシュタイの方だと考えている人もいるでしょう。アインシュタインは天才でかつ叡智の人です。科学者であるということと叡智の人であるということはまれな組み合わせで、それに加えて超一級の業績を残しているのですから、私などがアインシュタインについて触れるのもおこがましいところはあります。しかしながら、ある視点から見ればアインシュタインよりもニュートンのほうが偉大なのです。まずはそれについて書いておきます。これは私が学生の頃つまり30年前にはすでに知られていたことであり、特に目新しい視点ではありません。

 

ニュートンの力学はユークリッド幾何学を前提としており、一方アインシュタイン相対性理論は非ユークリッド幾何学を前提としています。アインシュタインが若い頃、当時の物理学(ニュートン力学を前提とした物理学)は壁にぶち当たっており、それをどう発展的に乗り越えていくかが課題でした。アインシュタインはその課題に取り組んでいたのですが、彼はよくいわれるように思考実験を通して課題をさまざまな角度から検討していました。彼は曲がった空間を想像したり、光の速度で移動する物体を想像したりしましたが、実はその当時曲がった空間を記述する非ユークリッド幾何学は数学者たちがすでに作り上げていました。アインシュタインは数学を理解する能力も優れていましたので、自らの理論を記述するのに非ユークリッド幾何学が適切であると見抜き、それによって相対性理論を作り上げることができました。曲がった空間という概念自体はアインシュタインの創作ではなく彼以前の数学者たちの作り上げた概念でした。

 

一方ニュートンアインシュタインと同じように当時のさまざまな観測結果を元にそれらを統一的に記述できる理論を求めていました。彼も思考実験を繰り返したことでしょう。彼が不確かな点を確かなものにするためにアフリカまで観測をしに行った協力者がいたとも聞きました。彼が引用したので有名になりましたが、「私が彼方を見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。-ニュートン (シャルトルのベルナール)」という言葉は彼の実感がこもった言葉です。多くの人々の支えや先人たちの業績がニュートンの仕事をもたらしました。しかしながら、ニュートンアインシュタインよりも偉大であったのは、アインシュタインは非ユークリッド幾何学を作り出したのではないのに対して、ニュートン微分積分学を自ら作り出し、それを用いてニュートン力学を打ち立てた点です。つまりアインシュタインは物理学における巨人でしたが、ニュートンは数学と物理学の両方において巨人であったのであり、この観点から見た場合、ニュートンのほうがアインシュタインよりも偉大であったのです。さらに付け加えるならば、伝記学者によればアインシュタインよりもニュートンの方が遥かに孤独であったといいます。一般に理解者が少ないほど孤独であると思います。

 

さて話は少し変わります。ギリシャ以降のヨーロッパの認識論に関してです。認識論とは何が真実であるか、人はどのような枠組みで真実を把握するのか等に関する哲学です。近代ヨーロッパ哲学の巨人にカントがいます。彼も認識論を残しています。私は素人なので大雑把なことしか書けませんが、彼の認識論とは想像と概念と現象の一致が真実であるというものです。彼はユークリッド幾何学は妥当なものの見方であると述べているようです。しかし後のアインシュタイン相対性理論のため、つまり空間が曲がっているのが妥当そうであるため、カントの認識論は間違いであり取り上げるに値しないという人々があらわれてきたようです。認識論は再び袋小路に入り込みます。

 

しかしながら時代考証を行った人によれば、カントの時代にすでに非ユークリッド幾何学はできあがっており、カントが認識論を書き上げる時点ですでに彼が非ユークリッド幾何学を知っていた可能性があることがわかってきました。カントは数学を理解する人であったようで、つまり彼がすでに非ユークリッド幾何学ユークリッド幾何学を用いて理論構成されていることを知っていたならば、カントがユークリッド幾何学を妥当だと述べたことは無知や予断によるものではなく確固たる確信であっただろうわけです。ニュートンの世界では世界全体がユークリッド的なのですが、アインシュタイの世界では局所的にはどこでもユークリッド的でしかし全体としては非ユークリッド的であっただけの話です。このあたりの考証を行ったのは私の知る限りでは柄谷行人氏であり、つまりはギリシャ以降のヨーロッパの認識論に決着を付けた、つまりカントの認識論が正しかったと結論づけたのはヨーロッパ人ではなく日本人であったのです。

 

偶然か必然かはわかりませんが、20世紀末以降数学が世界を席巻し今ではSTEM教育について世界中で聞かれるようになってきました。STEMとはScience, Technology, Engineering and Mathematicsの頭文字からきています。カントの認識論と数学の有用性さらには科学的思考は関係が深いのです。プログラミングもそうでしょう。このあたりのことを世界中の国が理解していると思いますが、認識論に日本人が決着を付けただろうにも関わらず、日本はカントの認識論やSTEM教育に関して理解が足りません。それは一つの悲劇でありまた喜劇なのかもしれません。

 

科学とは数学あるいはそれに類した認識形式を通じて世界を見ることであり、そのあたりのことが理解できない限り、アインシュタインが神秘的に思えたりあるいは科学をもたらしたヨーロッパ人に対する無意識の畏怖を取り除くことはできません。現代日本人が科学的思考あるいは思考一般に困難を抱えている原因の一つはここにあるはずです。

日本文化のマントラ化

 

先週「マントラは存在の家」という記事を書きましたが、その中で日本文化をマントラで再編するということに触れました。今日はそれにまつわることです。

 

その前に霊性に関することで一般論を少しばかり書いておきます。私たちの多くは小学校、中学校、高等学校と12年間は日本語のことや数学、科学、社会、家庭や諸実技のことについて学びます。12年間学び続けるというのは考えてみれば結構な長さの時間です。12年間ほど学んで何とか社会に出る準備が整います。人によっては大学や専門学校、大学院などでさらに学び続けます。トータルの学習期間が20年となることもあるでしょう。現代は諸知識が必要なことが多く、皆がそれを当たり前と思っています。さて一方霊性に関してはどのくらいの期間学べばいいのでしょうか? 私の見解では一生です。学校で知識を学ぶのは20才前後までとしても、霊性に関しては同じく幼い時期から学びはじめて、しかし70、80才になっても学び尽くせるものではないとされます。退職して60歳か70歳くらいから学び始めてもどれくらい満足の行く学びができるかわかりません。私が霊性について学び始めたのは約28年前です。霊性の大まかな概略をつかみかけるまで20年近くかかっています。個人的な体験からいえることは、科学や言語の知識を学ぶのと同じ位の時間が、霊性の基礎を学ぶのに必要です。人によっては霊性の領域において特に優れた素質を備えた人がいるかも知れません。そういう人は少し成長が早いこともあるでしょう。急ぐ必要はなく、地道に歩めば必ず納得のいく成長が得られます。それを数年で結果を得ようとすれば、結局の所いわゆるスピリチュアルな上っ面なものしか身につきません。

 

マントラの力はどのようなものでしょうか? 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経は共にマントラです。漢字の字数ですとそれぞれ6字、7字のごく短いマントラです。しかしながら、この短いマントラから一宗派ができあがりました。マントラの偉大さがわかるというものです。ごく短いマントラを他にも紹介すれば、日本語や神の御名ではないのですが、「I am.」「I am I.」「so ham(私はそれ)」「watch(これについては以前このブログで取り上げたことがあると思います)」などがあります(この内いくつかはサイババが人に与えたマントラです)。どれも素晴らしく力を持ったマントラでしょう。

 

特にインドで有名なマントラにガヤトリーマントラがあります。ガヤトリーマントラヴェーダの母といわれているらしく、インドでは8歳だったか9歳ころにガヤトリーマントラを授けられてそれ以後ヴェーダの学習が本格化するようです。今ではガヤトリーマントラは世界中に広まり、多くの人が唱えています。日本人に最も有名なインドのマントラといえばやはりこのガヤトリーマントラなのではないでしょうか? ガヤトリーマントラは唱える人の意識をきよめ、知性と識別心をもたらしてくれます。マントラについての理解を深めようとする人にはヴェーダの母であるガヤトリーマントラは不可欠といってもいいほどです。

 

A pure thought from a pure heart is better than a Mantra.(Baba)(清らかなハートからくる清らかな思いはマントラよりも好ましい。)という言葉がありますが、清らかなハートから湧き出た清らかな思いが厳密に(ヴェーダの)マントラではないとしても、しかし(ヴェーダの)マントラより好ましいというわけです。

 

私たちは日本で生まれ育ち、好む好まざるとに関わらず日本文化に触れながら生きてきました。意識的に日本文化の特定の領域を深く学んだ人もいるかも知れませんし、そういうことのない人も多いでしょう。しかしながら、すべての日本人に程度がさまざまにしても日本文化の蓄積があります。そういう状況において心(ハート)の清らかな人が日本文化に関することで清らかな思いを抱いたとしたならば、それは取りもなおさず日本文化をマントラ化したものだと主張し得ます。意識的に日本文化を学びそして生きてきた人が、心(ハート)の清らかさを維持することにも多大な力を注いでいたならば、その人の語る思いには耳を傾ける大きな価値があります。牛乳をかき混ぜているとバターができあがるように、その人のハートからマントラが生じたのです。

マントラは存在の家

 

「言語は存在の家である」というドイツの哲学者ハイデガーの言葉があります。私はこの言葉を直感的に理解できるのですが、人によっては意味を取りかねる人がいるかも知れません。私は西洋哲学の文脈を詳しく知りませんので素人としての見解ですが、簡単にいえば、人は自らの言語(言葉)によって作り上げた世界の中に住んでいるということです。口から出す音声言語だけでなく内なる声としての言葉によっても、人は解放されたり束縛されたりするわけです。自分を責めるような言葉を多く使う人はいつも生きるのが辛くなるでしょうし、おおらかな言葉を用いるのを習慣にしている人は比較的のびのびしているような気がします。

 

言葉にはいくつかの機能があるでしょう。情報を伝えたり、話し合いを行ったり、あるいは思考したりです。情報を伝えたり、話し合いを行うためには、ある程度明確な言葉を適切な態度で表明すれば多くの場合用が足ります。日常生活に必要な計画を立てるにもそれほどは難しい思考を必要としません。言語は所与のものとしてあり、人はその制限内で精神生活を営んでいます。

 

しかしながら少しばかり特別な人というのがいます。例えば現代日本人が読んだり書いたりしている日本語は江戸時代以前のものとは異なります。それは明治期の夏目漱石森鴎外、その他の文豪たちが記した文章を元にしています。ハングルでは例えば李光洙氏の書いたものがそれに当たるようです。つまり一部の人がその後のその国の言語に大きな影響を与えるケースがあるということです。漱石は西洋と日本との間でさまざまな葛藤を味わい、それを彼なりに調和・解決させる試みとして小説を書いたと聞いたことがあります。異質な複数の存在が一人の人間の中に入り込んだ際、新たな言語というものは生まれ得るでしょう。漱石や鴎外の小説を読んだのは随分前のことですが、現代日本人とそう変わらないことを考えているなと思ったものです。いえ、実際のところは、私たち現代人が知らず知らずに漱石や鴎外のように考えているだけなのかもしれません。言語を生み出すことの影響力はそれほどなのでしょう。自らの内に軋轢を感じることのない人が言語に限らず何か新しいものを産み出すことはほとんど無く、軋轢を感じてもそれから逃げてしまう人も同様です。

 

どうしたら現代の日本人が漱石や鴎外と違ったように考えることができるでしょうか? 言葉といっても私には三種類の言葉があります。一つは話し言葉、一つは書き言葉です。私はこの2つの用い方がかなり異なっているかもしれません。書いたものを読んで私を知った人は私が話すのを聞いても同じ人間とはあまり思えないこともあるようですし、私の話し言葉しか知らない人が私の書いたものを読んで違和感を感じる人もいるでしょう。話し言葉と書き言葉の他に私が日ごろ用いている言葉にマントラがあります。これで3つです。マントラは基本的に変化しません。ただ唱えるばかりです。一般にマントラといえばインドのヴェーダマントラですが、ヴェーダでなくとも構いません。日本では真言がありますし、あるいは江戸時代の寺子屋では論語素読が行われていました。そういう類のものです。マントラを繰り返し繰り返し唱えていると、そのマントラの内容に関するさまざまなことを考えてしまうのですが、それがクモの巣のように一つの知識や信念の体系になっていきます。そして逆にその知識や信念の体系はそのマントラで表象されます。同じマントラを唱えてもそれによって形成される知識や信念の体系が人によって異なっているのが面白いところです。私が他の日本人と異なるのはこのような思考様式を身に着けている点です。

 

マントラによって知識や信念の体系ができあがるということは、つまりは「マントラは存在の家」ということでしょう。マントラ=マン+トラで、マンは心、トラは保護という意味があるようです。それを唱えるものの心を保護するものがマントラです。まさに家です。江戸時代の日本人やヴェーダを唱えるインド人はそういう思考様式と存在形式を備えています。唱えるのにどのようなマントラを選択するかによって、その人の思考の方向づけや内容が変わってきます。

 

インドのヴェーダは何千年、何万年と変化していないようで、それによってインド人の精神文化は幾多の困難を超え太古から引き継がれてきました。インドのヴェーダほどの伝統がなくても、日本の古典にも憶念するに価値のある言葉は多少はあります。古典を探さなくとも、ふと人から聞いた言葉、ふと読んだ言葉がなぜか心に残り、その言葉について長い間考え込んでしまったことは誰でも経験があるのではないでしょうか? 私は多読や多くの会話よりも、そのように深い意味を湛え真実を内包する言葉をいくつか心に忍ばせ、憶念するのを習慣にすることを勧めます。真に優れたマントラは、精神の奈落の底から人を救いますし、人が奈落に沈み込む危険から守ってくれます。日本の文化が「マントラ」によって再編されてもいいのかもしれません。

盗用と剽窃

 

著作権がらみで引用と盗用と剽窃のことが気になったので、少しばかり書いておきます。私は法律や判例のことを知らないので厳密に何が引用で何が盗用で何が剽窃なのかはわかりません。素人ながらに理解しているのは、引用は引用元を示して引用すること、盗用は引用元を示さず引用全体が自分の創作であるとして盗むこと、剽窃は部分的に語句、思想などを自分のものとして盗むことと大雑把に理解しています。

 

私のこのブログは霊性について書いていますが、主に参考にしているのはサイババの著作、宗教関係の著作、その他の書籍ですが、それらがどれくらいの割合で現れているかこれまでチェックしたことはありません。最も多いのはサイババの著作ですが、語句を引用する際、これまでいい加減であったのは免れず、引用元を示したこともあれば、サイババの名前だけを示しただけのことがあれば、そういうことをせずに用いたこともあります。引用元を示さずとも英語の文であれば一般にそれが私の創作であるとは思わないでしょう。曖昧にしてきたのは、このブログを読んでいる人の数が少なく、また私が何らかの利益特に金銭的利益をまったく得ていなかったからです。

 

他にも理由があります。私はサイババの文献を28年前からほぼ毎日といっていいほど読んできて、サイババが繰り返し述べていることはそれがどこに書かれているかなど気にならないくらいに自然に自分の思想の一部になっていました。またたまに気になった表現があったときには、それを個人的にメモすることがしばしばで、時間が経った後にそれがどこに書かれていたか探すのが難しくなっているケースもあります。またある文が心に残った際、その文の内容が原文から離れて時と共に自分勝手な理解へと変容してしまうことがあり、私が記憶しているのが原文なのかどうなのか判断できないケースが多々あるのです。

 

例えば、先週「知識の目的は識別である」と書きました。私が読んできた範囲内ではサイババは「知識の目的は愛である」とはまあ言っています。一方「知識の目的は識別である」はサイババが言っていたかどうかはわからないのですが、サイババが述べた文の中に知識という単語と識別という単語がかつてあって、その2つの単語が私の中で結びつき私のこれまでの体験の実感として「知識の目的は識別である」との私の理解があります。実際に自分なりにその根拠、体験も付け加えて述べています。これが厳密に盗用なのか剽窃なのか私はわかりません。

 

正直にいえばこういうケースは時々あるのですが、私は悪意をもって盗用あるいは剽窃を意図しているわけではなく、サイババには敬意を持ち続けています。もし日本人がサイババに対して好意的であるならば、私はこういう書き方をしておらず、サイババがこう言っていたああ言っていたと淡々と書いていたと思うのですが、日本人の多くがサイババを知らず、あるいは知っていてもあまりいい感情をもっていないのを知っていますので、サイババの名前を積極的に前面に出さずに、しかし何らかのエッセンスが表現できればという気持ちはありました。

 

そもそもサイババのご講話を読んでも、用いている語句はそれほど難しくはなくとも、内容はなかなか理解できない人が大半でしょう。わかるような気がするけれども、でも何かよくはわからないという人は結構いると思います。サイババの言葉を理解するには、その言葉を前にして自らのそれまでの人生の体験を振り返り、それを通じて自己理解を深めない限り困難です。私は30年近くの間にそれを少しばかり行ってきたので、その体験を踏まえ、サイババの言葉を読む人が多少なりとも理解できるように適切な補助線を引いてそれを記事にしてきたわけです。いうならば数学の定理の証明に似た面があります。つまりサイババの言葉が引用されていたとしても、皆さんが読んでいるのは私の心の中の過程なわけです。

 

これはサイババを信じない人には理解できないことですが、長年サイババの言っていることや行っていることに関心を持ってきた私から言わせてもらいますと、サイババが述べていることは今後科学や学問が何十、何百年と探求を重ねた先の結論を述べていることが多々あります。例えば病気の原因や何を食べたらいいかなどはわかり易い例です。結論があって、私の今の立ち位置があって、その2つの間には距離があるのですが、その距離を埋める試みがこのブログの記事でもあります。私が自らの経験をどのような方向性で活用すればいいかを自らに言い聞かせている面があります。

 

最後になりますが、サイババの言葉がきっかけとなって、さまざまな概念、経験、想像などが私の心において化学変化を起こします。化学変化が起こってしまえば、それ以前と以後とでサイババの言葉に対する理解が変わってきます。原文もしばしば忘れさられてしまいます。私の心にある納得があるのみです。私はその納得をこのブログで書きます。

 

サイババの御言葉を厳密に引用するのが好ましく、しかしそれがどこにあったか辿れなかったり、記憶が変わっていたりしてこれまで曖昧にしてきた面があります。このブログの記事の少なくとも3分の1、多ければ3分の2近くは、多少なりともサイババの言葉にインスピレーションを得て書かれたものです。私はこれからも霊性に関してしばらく書き続けることができるのではないかと思いますが、それはサイババの言葉が尽きることのない豊かさを湛えているからです。それは盗用ではなくとも剽窃を疑わせるものなのかもしれません。そのあたりの判断は今の私にはできません。ただ同じサイババの文章を目にしても、私のように考えたり書ける人は多分ほとんどいないだろうと思います。少しは私の独自性はあるはずです。しかし今後は引用に関してこれまでよりも注意したいとは思います。

 

あと私の書いたものを読んで何らかの気付きがあった際、私はそれを他の人に伝えてもらってもまったく構いません。その気づきが肯定的であるのならば、多くの人と共有されることは大切だと思うからです。

 

サティヤ サイババ 御講話集

 

www.sssbpt.info

 

知識の目的は識別

 

どんな知識であろうと、少しばかりは価値を内包しているものです。ある人には価値のない知識であっても、他の人は価値を見出すかもしれません。普遍的な価値もあれば、一時的地域的に価値をもつ知識というものはあるものです。キャンディーは包装紙で包まれていますが、知識は包装紙で包んだキャンディーのようなもので、大切なのはその知識に含まれている価値=キャンディーです。価値とは日常生活に取り入れることができ、それが何らかの体験をもたらすもののことです。

 

ならば知識を獲得していくことは種々多様な価値の標本を手にしていくこと。知識を備えることで、自らの目の前にある現実に対処する選択肢が与えられます。備える知識によって対処が異なってくるということは、知識が判断の拠り所となっている、決断の根拠となっている、つまり識別が知識の基本的な機能であるということです。

 

実は知識の目的は愛であるという言葉もあります。知識は愛を表現するためのものであるという意味です。私たちは教育課程でさまざまなことを学びますが、それは単に学位をとってより良い就職先を得るためのものではなく、可能ならば学んだことのほとんどが多少なりとも生活の役に立つのが好ましいのです。知識は愛の実践のための道具です。

 

私たちが識別を働かす時、最も根本的な識別はそれが普遍的なものなのか一時的・刹那的なものなのかということです。私は年を取り人生の残り時間が少しずつ減ってきているので、できるならば刹那的なことにあまり時間をかけたくなく、普遍的あるいは永遠に属するだろうことを選択したい欲求が高まっています。そして愛とは普遍的であり永遠に属することでしょうから、知識の目的が識別であることと知識の目的が愛であることはかなりの程度意味が重なっています。

 

自分が納得する人生の方向が定まれば悩み事は減ります。悩みの多くは人生の方向が定まらないことに起因しているでしょう。人生の方向が定まればあとはその範囲内で地道に努力を重ねるのみです。船が前に進むには、舵を取ることと櫂(かい)を漕ぐことの2つが必要です。識別とは舵を取ること、定めることです。

 

アマゾンのベゾス氏は退任することになりましたが、彼が社員に要求していたことは適切な決断・判断でした。彼は社員の決断・判断に給料を支払っているといっていました。またアマゾンのサイトで物を売って利益を得ているのではなく、顧客が買い物をする際の判断を助けることで利益を得ているといっていました。アマゾンのECサイトだけではなく、本来知識を提供するとは、それを手にするものの判断を何らかの形で助けるためのものだといえます。

 

識別を働かせる、判断をする、決断をするとは人生そのものです。人生とは判断・決断の束です。自らが主体的に決断するだけでなく、状況に翻弄されながら受け身の形でそれを受け入れるかどうかも決断です。決断をしないという選択をすればどうなるでしょうか? ある面では30年近くも決断を先延ばしにしてきたのが今の日本の姿といえないでしょうか? ならば決断とは足で大地を蹴り前進する意志、生きる意志を示すことなのです。

 

ただ漫然と知識を得ることが何かの役に立つこともあるでしょうが、今のように検索すれば多くの知識を手に入れることのできる時代の教育において大切なのは、知識は識別を助けるためのものであると踏まえることなのかもしれません。実際にアメリカのMBAの教育課程においては、様々な状況においてどう決断するかのケーススタディばかりが行われていると聞きます。

yokichi.com

人生は一片の詩


 
 ツイッターで心惹かれるツイートに出会いました。昨年の終わりです。
「人生は一片の詩篇だが、それを身体で表現しなければならない。(名越康文)」


 確かにそういう面はあります。私は今52歳ですが、一応あと30年くらい生きるとしてまだ人生の途上にいるわけです。人の評価は棺の蓋を閉めた時に定まるように、人生の詩も息を引き取った時に完成するものでしょう。なのでこれが私の人生の詩だといえるものはまだないのかもしれませんが、これまでの人生を貫くそれなりのモチーフはあります。そして各人そのモチーフはいくつか可能性があることでしょう。私のこれまでの人生を貫くモチーフの一つに「真実」があります。それについて少し触れます。

 

 ごまかしを含め多少なりとも人は嘘をつくものです。ごまかしや見たくないものに強引に蓋をすることも嘘に類することです。最も簡単な真実は事実を述べることなのでしょうが、この簡単そうなことも状況次第では困難になります。私の場合、モチーフが「真実」であるとは真実を探求してきたということでもあります。幼少のときからできるだけ嘘をつかないようにしてきたというのはありますが、言葉の使い方次第で嘘か真実かわからないような表現ができることを早くから知っていました。そして時間や空間を超えて変わることのない真実の一つとして、数学に興味が出てきたのです。物理学の歴史を知っている人はわかると思いますが、理論は時間とともに変わります。私にいわせれば、それは真実ではありません。しかし1+1はおそらくいつの時代もどの国でも2でしょう。2進法ならば1+1=10ですが、本質は変わりません。私の見解では物理学と数学とでは雲泥の差ほども真実の程度が異なります。私は若い頃数学と数理哲学、数学の歴史をさまざまに学びました。

 

 後に数学の才能があまりなさそうなことに気づき出すと、若さのせいもあったと思いますが、社会の不正義に腹をたてることが少しずつ多くなりました。それはジャーナリズムに触れてしまったせいなのですが、私は社会のさまざまに悲惨な事実を知ることになります。事実を思想をできるだけ抜きに淡々と表現すること、これはルポルタージュと呼ばれるようですが、そういうものに関心をもち、しかしジャーナリストの仕事は過酷そうでもあり、また自身の適性も考えて科学ジャーナリストになるのはどうだろうかと思うことが増えました。事実を淡々と表現すること、これも真実の一面です。私は病を得たので、この道に進むことはありませんでした。

 

 一時期仕事で管理会計に関わっていました。会計は企業の実態を表現する一つの手段です。これもジャーナリズムに似て、事実の表現に近いものがあります。投資家や銀行などは企業の財務諸表が正確であることを前提に投資したり融資するのですから、それなりに重要な仕事です。これも真実に関係するといっていいでしょう。

 

 さらには私は霊性に深い関心を持つに至ります。霊性存在論かつ実践論です。自らが真実か世界が真実かと問われた時に自らが真実で世界は幻であると主張するのが霊性です。少なくとも存在の程度がより深いのは自らの存在=アートマです。自らが存在しないと受け取る人は、一生の間悲しみの内に生きることになるでしょう。自らが存在すると確信する人は、ゆっくりでも着実に喜びの道を歩むでしょう。自らの存在に比べれば、数学やジャーナリズムや会計は認識論に属するものであって真実味はより薄いものです。真実に関して霊性の右に並ぶものはないと思われます。自らは存在せず神のみが存在するとの立場もありますが、どちらにしろ唯一者が存在し、それが真実なのです。

 

 大雑把に俯瞰すれば、これがこれまでの私の人生です。今後のことはどうなるかわかりませんが、真実を大切にし続けるつもりでいます。少しずつ減ってきましたが、ごまかしを含め嘘を口にすることはあります。信頼できる人には真実を話せても、変に曲解する人を目の前にした時、面倒を避けたくなってごまかすことがあるのです。よくないことだとわかっています。こういうことを減らすために、私は極力人間関係を減らしたいのです。人間関係が減って話すことが減れば嘘を付く機会も減ります。できるだけ言葉少なめに話そうと思います。余計なことをペラペラ話していると悲しいことに話を盛ってしまうことがあるからです。嘘をなくすために人間関係や話をする機会を減らしたいと考える程度には、真実は重要な道徳的価値だと思っています。

 

 他にも人生を貫くモチーフを取り上げることはできるでしょう。一生懸命生きていけば、人生が終わった時に自分の人生がどういうものだったかわかるでしょう。それが私の人生の詩といえるものではありますが、今は一生懸命生きること自体しか念頭にありません。

 

 話は変わりますが、サイババの人生を詩であらわしたならばどうなるでしょうか? 一つ彼自身が歌っている歌を載せておきます。参考までにどうぞ。

 

www.youtube.com

 

Love Is My Form, Truth Is My Breath, Bliss Is My Food

My Life Is My Message Expansion Is My Life

No Reason For Love, No Season For Love, No Birth, No death

Prema Sathya Ananda, Shanti Dharma Ananda

Shirdi Sai, Sathya Sai, Prema Sai Jai Jai

Shirdi Baba, Sathya Baba, Prema Baba Jai Jai

 

文化としての身体感覚

 

「文化とはそれに携わることでこころが浄化される装置である」とどこかで書いたのですが、もう一つ気になる文化の定義があります。それは身体感覚が文化であるという考え方です。

 

私はかつて20年以上前になりますが野口晴哉(はるちか)先生が創始者である整体協会の整体教室に1年前後通ったことがあります。1年程度しか通っていないのですから、整体に関しては門をくぐったともいえないような者でして、多くを語る資格がありません。ただまったく整体について知らない者のような無知な状態ではありません。何となくこんなものかなという、そういう自分なりの体験が少しばかりあるのです。整体協会は体育団体です。医療には関わりません。しかしながら体調不良のものが整体協会に通うことはしばしば見られることでしょう。また整体協会とどのような関係があるかまでは知りませんが、野口裕之ひろゆき)先生が所長を務める身体教育研究所というところがあります。私が通っていた教室は、整体協会と身体教育研究所とが混在していたような感じでして、私は体調不良を何とかしてほしくて通っていましたが、身体教育に関してもごくわずかばかり触れていたことになります。野口裕之先生とも一度だけですが場を共にしたことがあります。

 

その教室に通っている際に『全生』という整体協会発行の雑誌が目に入り、時々借りて読んでいました。何冊か読んだのですが、今記憶に残っていて思い出せるのは野口晴哉先生がクラッシク音楽が好きだったことと、身体感覚が文化ではないだろうかという話です。身体感覚が文化であるということに関しては、そういう考え方もあるのだなと当時思いました。身体教育研究所はそういうものを深く探求しているところでしょうから、詳しいことはそこに問い合わせてみるのが一番でしょう。ただ今日は身体感覚が文化であるということに関して私が考えることを少し書きたくなったのです。

 

私は世界が自分の身体のように感じることがあると書いたことが何度かありますが、そういう身体感覚があったとして、その身体の内部ではいろいろなことが起こっています。痛みや喜び、何かが詰まったような感覚、光で満たされているような感覚、さまざまな映像が映し出されるような感覚などなどです。私はそれらの感覚は世界で起こっていることの一部が私によって感受されたものと受け取っています。世界で起こっていることはテレビの画面を見なくても、意味が曖昧にしろ身体で体験できているわけです。私はそう受け取っていて、おそらくは人それぞれに身体感覚というものがあって、だれもが同じく世界を体験していると想定しています。その感覚はさまざまでしょう。

 

さらに付け加えれば、身体感覚があったときにそれに対してどう振る舞うかという問題があります。日本では侘び寂びの文化といいますが、特定の身体感覚を愛でます。身体感覚が共有されているわけです。しかし共有されていない身体感覚の方が多岐にわたっており、個々人の文化の違いや家庭の文化の違い、地域の文化の違いとして現れます。惰性に従えば、私も自らの身体感覚に対して定型的な反応はできます。しかし私はそうしないこともあります。

 

oneness、unity(一つであること)を司っている神格であるガネーシャ神に関するガヤトリーマントラがあります。
エーカダンターヤヴィドマヘー
ヴァクラトゥンダーヤディーマヒー
タンノーダンティヒプレチョーダーヤート
(私は一本の牙と曲がった鼻を持つ神を瞑想します。どうかこの象の顔をお持ちの神様、私に知識を授け、私を啓発して下さい。)
私は日によって時間によって少しずつ身体感覚が変わりますが、時にこのようなマントラを唱えて、このような感覚をどう受け止めてどのように振る舞えばいいか教えて下さいと祈ることがあります。

 

時には、ある種の身体感覚に対してはそれが過ぎ去るのをじっと待つだけのこともあります。あるいは身体感覚がきっかけとなり自分が抱えていた問題の解決の糸口が得られることもたまにあります。基本的に不快な身体感覚の場合、それを解決する方向で対処を試みます。その多くは奉仕です。目の前に飢えに苦しんでいる人がいれば自分も苦しみ、それを解決する手段は目の前の人に食物を提供することであるのと原理は同じです。

 

つまり身体感覚特に意識されやすい身体感覚は文化でしょうが、それと同時に身体感覚への対処法も文化であるわけです。これが「身体感覚は文化である」ということの私なりの受け取りです。身体文化研究所との関わりは今はまったくありませんが、このようなことを考えている人はおそらく日本に何人もいることでしょう。私がことさら強調することではありませんが、このブログを読んでくださる方の中にはあまりなじみのない考え方なのではないかと思って紹介しました。最終的には感覚は浄化されるのが好ましいと思っています。Purity is enlightment.(純粋さは悟りです。)という言葉もありますから。