結婚について

 

私がこのブログにおいて「結婚」を表題として記事を書くのは初めてのようです。結婚という文字を含む記事はありますが、結婚というものを中心テーマとして書くのは初めてだということです。多分私が結婚していないからこれまで書いてこなかったのだと思います。結婚していようともしないでいようとも、多分一人残らずある程度の年齢になれば結婚に関して真剣に考えたことがあると思います。私はどちらかといえば若いころから結婚を望んでいたところはありますが、しかし主に健康面、経済面での事情で結婚することはありませんでした。結婚に関する本を数冊読んだことがあります。日本語で発売されているものとしては『霊性と結婚』です。英語のものとしては『Sai's Teacings on Marriage』があります。人間は体と心とアートマ(魂)が組み合わさったものですが、結婚はこの三つの側面のどれとも関係します。肉体の結合や考えの調和はしばしば語られますが、アートマ(魂)が一つになることに関しては日本ではほぼ語られません。これら三つのレベルにおける調和があってこそ、結婚生活はうまくいくのでしょうが。

 

結婚についてはさまざまな側面から語ることができるでしょうが、今日はダルマという面に関して触れてみます。
「人は行為をしてエネルギーと時間を無駄にし、それが人を物質的な欲望という罠(わな)にはめ、さらに動かなくさせています。この種の行為はモーハ カルマ〔妄執の行為〕と呼ばれるもので、妄執から流れ出し、人をさらなる妄執へと至らせます。人はこの癖から脱却し、ダルマ カルマ〔ダルマにかなった行為〕、すなわち、道徳的な行為、理想的な行為、低次の本能と衝動を昇華して一つひとつの行為を献進へと変容させる行為へと、方向転換しなければいけません。
この姿勢が固まって定まると、あらゆる行為はブラフマ カルマ〔神の行為〕(献身的な行為)となります。すると、人は普遍なる者に帰融し、抑制された個別性を失います。これが、アートマが切望し、大いに好む行為です。」(1974年7月4日 サティヤサイババ

 

モーハカルマとダルマカルマとブラフマカルマがあります。私の表現では、モーハカルマとは主に動物的な行為のことです。食べて、寝て、飲んで、交わって、テレビを見てなどなどのことです。仕事中に与えられた仕事をせずにぶらぶら時間を無駄に過ごしているのもモーハカルマの類でしょう。少なくない人がこのモーハカルマの強い影響を受けています。ダルマカルマは基本的に義務に関係する行為です。人の知性が多少なりとも働いているならば義務の感覚があると思います。親子の間の義務、夫婦間の義務、雇用主雇用者の間の義務、地域住民としての義務などなどです。多くの恩を誰かからうけたときに感謝の気持ちをもってその人に接することもそうです。これらの義務は必ずしも法的なものではなく、人間として生まれ、役割を与えられたときに、その役割を適切に果たすことに関係します。ダルマカルマは人間としての行為です。ブラフマカルマは神の御教えに沿った行為、自らを神と同一視してエゴのない神聖な行為に携わることなどです。

 

次のような言葉があります。
「異性の魅力に惹きつけられる反応は、「幻想」、「陶酔」、あるいは、「モーハ」(妄執)と描写するのが一番です。」(1974年7月4日 サティヤサイババ

 

モーハとは主に男女の間に関係する妄想、幻想の類のようです。時に霊性の妨げとなるものに異性とお金が取り上げられることがあります。私の個人的な感覚では、霊性の妨げとなるものの2分の1は異性に関係するもので、4分の1はお金に関係するものです。異性やお金がいけないのではなく、人間は強くそれらのものに惑わされる危険が高いということです。性やお金には注意深く対処しなくてはならないということです。ただし私は結婚していた人やそれなりに富を所有していた人の中でモクシャ(解放、自由)を勝ち得た人がいるだろうことは知っています。なので絶対悪とはいいませんが、注意が必要だということです。

 

そもそも性に関する迷妄がない人がこの世に生まれてくる可能性はかなり低いと思います。子どものころは性に関する迷妄がないように見えても、思春期を経れば影響を受けます。それは仕方がないといえるほどです。私は、結婚生活とはモーハカルマとダルマカルマとブラフマカルマの組み合わせであって、モーハカルマを必ずしも排除しなくていいと思っています。子孫の繁栄のために必要な人間の機能の一部です。人間が体と心とアートマ(魂)の組み合わせであるのと同じです。結婚して若いころはモーハカルマの比重が高いでしょうが、結婚生活を重ねるごとにダルマカルマの比重が増え、そして子育てを終え老年期に差し掛かろうとする頃にはブラフマカルマに目を向けそれに関係する行為を意識的に増やすのがいいでしょう。結婚は一生にわたるものだとされます。しかしその相は年齢によって変わってきます。この多相性は結婚の魅力の一つであるでしょう。水にも固体と液体と気体という相があります。結婚生活における愛にも相の変化があっていいわけです。

 

私自身は結婚していませんが、私は若い人にどちらかといえば結婚を勧めます。誰が自分に合った相手かというのはなかなかわからないでしょうが、一人でも多くの人がふさわしい相手に巡り合えることを祈っています。肉体的な魅力、経済的な魅力だけでなく、老年期をどう過ごしているだろうかということも含めて人生のパートナー探しをしてみることをお勧めします。

次人間に生まれてくるかどうかわからない

 

ウィキペディアによれば、世界の人口が80億人に達したのは2022年11月15日だそうです。それからすでに1年半以上が経っています。今は81億人を越えているようです。ちなみに私が生まれたころは35億人と少しだったようです。1年間に約1億人ずつ人口が増えているような感じです。今後も増加傾向が続くようですが、少し古い国連広報センターの報告書によれば、2050年に97億人に達した後、2100年ごろに110億人で頭打ちになるようです。未来予測は必ずしも当たるかどうかはわかりません。出生率が少し違えば予測は少なからず変わるようですし、また人口増加の要因で大きいのは平均年齢が上昇するからだともいわれています。ただ少しばかり検索してみれば、人口が110億前後で頭打ちになるような印象は受けます。

 

さて、もし仮に出生率が少しでも低下するならば、世界人口が110億人くらいで維持されることもなく、2100年以降人口は少しずつ減っていくでしょう。これは何を意味するかということです。私が生まれたころの世界人口は35億人で今は80億人ですが、これは何を意味しているかということです。私は輪廻転生を信じていますので、それを前提に書きますが、35億人が皆死んだ後に人間に生まれ変わったとしても、それに加えて45億人がさらに人間に生まれたということです。人類誕生からこれまでに1000億人が生まれたという説がありますが、この45億人の中には一度人間に生まれたがその後動物に生まれ変わりそして再び人間に生まれたという人もいるでしょう。またこれまでに人間に生まれたことは一度もなく、そういう存在が初めて人間に生まれたという人もいるでしょう。そのあたりのことがどういう風になっているか私は正確なところを知りません。しかしながら、世界人口が2100年ごろに頭打ちになるならば、さらには人口が少しずつでも減る気配があるならば、今人間である人が死んで次にまた人間に生まれ変わる確率は多分減っていくでしょう。つまり今人間であって次に動物や植物に生まれ変わる人もいるだろうということです。

 

そんなの別に構わないよ、という人もいるでしょうが、せっかく人間に生まれてきて次に動物や植物に後退してしまうのは私はとても残念なことに思います。今人間であるならば可能なら次も人間として生まれてこれるようにありたいし、できるならばこの人生で輪廻を終えたいものです。私の勝手な思い込みですが、人間として生まれて動物のような生き方をしている人は、人間に生まれる必然性は小さく動物に生まれても問題ないでしょう。人間としての生き方、動物としての生き方がどういうものかは今は詳しく問わないことにします。輪廻を終えるためには、それにふさわしい生き方が必要であるとも思います。少なくとも私はそこに到達できるかどうかは別にして、お釈迦さまのような聖者方の模範を仰ぎ努力することが必要に思います。勝手な解釈ですが、今回初めて人間に生まれた人も何100回と人間を経験してきた人であろうとも、この今の人生を十二分に活用すれば輪廻から逃れることができるのではないかと思うのですが、少なくともそれにふさわしい努力が必要ではないでしょうか?

 

私は自分のこの人生で心掛けていることが(表現はいかようにもできますが)1つあり、それに本当に忠実でありさえすれば、最低限人間として生きた、結果はどうであれ人間のさらに上を目指す努力をしたといいえると思っています。人はどう思うかわかりませんが、私はできればもう生まれ変わりたくありません。輪廻から抜け出れないにしろ、次再び人間に生まれ変わることが100%保証されている人はほとんどいないと思います。この人生だけがチャンスです。末法あるいはカリユガといわれる現代は解脱に最も適した時代だとされます。現代は苦悩、苦痛の多い時代です。現世の誘惑がいかに強いにしろ、それにまして苦悩、苦痛があるならば、輪廻を脱したいと思う気持ちが最も起きやすそうな時代ではあります。

 

無機物、植物、動物、人間と進化してきて、さらに進化したいならば、たとえば動物的な性質の影響を可能な限り遠ざけていいでしょう。人間にエゴはあっていいとしても、可能な限り自己中心的でなく、「私たち」あるいは「彼=神」の精神を育むのがいいでしょう。私は少なくともサイババに出会ってからはそう努力してきたつもりです。かつて書いたことがありますが、何万回か生まれ変わってきて、その内ただの1度でも聖なる御教えに人生を捧げてもいいのではないでしょうか? そしてこの今の人生がそういうものであるように思念して。

 

幸いなことに私は人生の3分の2を終えたと思っています。残り時間はそれほど長くはありません。残りは80年ではなく、多分長くて30年前後です。80年耐えるより、まだ30年は耐えやすいかもしれません。人生何が起こるかわかりませんので、今後の人生に関して確言はできませんが、油断せずに生きていきたいと思っています。死ぬときには今よりも少しは向上していたいと願っています。

今年前半の振り返りと後半の目標

 

6月も終わりに近づき、今年も半年が終わろうとしています。この半年間私個人には大きな出来事はありませんでしたが、半年前を思い起こしてみるにずいぶん昔のような気がします。時間が過ぎるのはあっという間ではありますが、ほんの半年間の間でも私なりに変化があり、その変化の度合いは思春期の頃に比べてそうは違わないくらいのものはあります。今年の年頭に目標を掲げました。今年は半年ごとに目標を設定するということでしたので、その目標について振り返り、また後半の目標を新たに掲げるつもりでいます。


今年前半の目標は「マインドセットを定めるためにマントラの憶念を徹底する」でした。そしてどのようなマントラを憶念するかに関しては以下の3つを目標にしました。
1.「働きなさい。なぜならあなたは働くことを愛しているからです。」
2.「time waste is life waste. energy waste is life waste.(時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。エネルギーを無駄にすることは人生を無駄にすることです。)」
3.「サーダナ(霊性修行)をしなさい。」
まずはこれについて振り返ってみます。

 

常時これらのマントラを唱えていたわけではありませんが、少なくとも必要な時にこれらのマントラを念頭に置いて唱えながら過ごすことができたと思います。1.「働きなさい。なぜならあなたは働くことを愛しているからです。」に関してですが、概ね身体はなすべきことを前にして動くのですが、時にストレスがかかるようなことや慣れないことに取り組む際に気持ちが億劫になることがあります。そういう時に気持ちを高めるためにこのマントラを唱えながら仕事をしていました。やらなければならないことをやり終えてしまえば満足はありますが、私は自分があらゆる仕事を愛しているかどうかはわからないにしても、少なくとも仕事を通じて前進することは愛しているという実感はあります。考えてばかりいてもこういう満足は得られません。行為こそが与えてくれる満足があり、今後もそれを大切にしていくつもりです。

 

次は2.「time waste is life waste. energy waste is life waste.(時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。エネルギーを無駄にすることは人生を無駄にすることです。)」に関してです。多分私が最も時間とエネルギーを無駄にしているのはスマホを見ているときです。その時間のすべてが無駄とはいえませんが、無駄が自覚できる程度に無駄です。主にSNSやゲームや関心の赴くままの検索です。必要性だけを考えれば、そこに費やす時間やエネルギーの何分の1かは減らしてもまったく問題はないでしょう。wasteというのは英語ではcareなしにとかpurposeなしにという意味のようで、つまりは注意して用いていない、目的なしに用いているということです。効率的な考え方や最適化というのとはあまり関係ありません。若い時分はやたらがむしゃらなところのあった私は、その点年をとって無駄が減った人生を歩んではいます。

 

最後に3.「サーダナ(霊性修行)をしなさい。」に関してです。時間のある時にサーダナをする習慣は身についていて、このマントラを唱えつつ、実際にサーダナに取り組むことはできました。これは問題ありませんでした。主に日々の瞑想やリキタジャパム(御名やマントラを繰り返し書くこと)、御名の憶念などです。

 

四六時中目標に掲げた3つのマントラを唱えてはいませんでしたが、これらのマントラを目標に掲げていたことによって、新たな気づきがあったり、生活のリズムがより良いものであったことは確かです。

 

さて次は今年後半の目標です。後半は次の2つを念頭に置いて過ごしたいです。
1.purity, patience, perseverance
2. 中道(The middle way)
です。1.はサイババの御言葉・御教えです。2.はお釈迦様の御教えです。サイババによれば、成功を勝ち得たり、若さを維持するのに必要なものは1.にあるこの3つのPだそうです。purityは純粋性です。Purity is enlightment.(純粋性が卓越・啓発です。)といわれます。このブログでもこの点に関しては何度か書いたことがあります。patienceは忍耐です。私は日本人にしては忍耐強いと思いますが、もう少しばかり忍耐を身につけたいと思うことがあり、しっかり意識して取り組むつもりでいます。あまりに俗事ではありますが、私は少しだけ株を買っていて、株というのはあまり売り買いするとほとんどもうからないものです。短期的な値動きに一喜一憂するのではなく長期的に保有してこそ資産形成ができるといわれています。一応自分なりに選んだ銘柄なので、それを少なくとも3年は動かさずに保有したいなと思っていて、そこで忍耐が必要なわけです。必ずしも富の拡大だけをもくろんでいるわけでなく、私がしたいと思っている奉仕活動に気持ちわずかばかり富を必要とするのでそちらに活用できたらなと思っています。資産形成ができなければ私の奉仕活動のアイデアの方を修正するつもりです。perseveranceは根気強さのような意味です。困難や課題が山のようにあっても最後まで粘り強くやり通す態度のことをいいます。何事も最後までやり通してこそ何らかの結果、果実が得られるものです。今取り組んでいることは満足が得られるまでやり通すつもりでいます。

 

中道とは何かといえば、「快楽主義でもなく、苦行主義でもなく」ということです。これはお釈迦様の成道までの半生を見てみればわかるでしょう。健康管理と人生の確かな前進のためにこの御教えを念頭に置くつもりです。

 

purity, patience, perseveranceはマントラのように繰り返し唱えるつもりでいます。中道はマントラでもありお釈迦様の一生を憶念することでもあるでしょう。この2つの課題を胸に今年後半も頑張っていきたいと思います。

ヴィヴェーカーナンダについて

 

今日は近代インドの聖者であるヴィヴェーカーナンダについて書いてみます。これまでこのブログで何回か彼に触れていますが、改めて彼について書いてみる気になりました。というのも、昨年の秋に私は小倉駅の古本市で彼に関する本を2冊手に入れ、そして少し前にそれを読み終えたからです。その2冊とは日本ヴェーダーンタ協会から出ている『シカゴ講演集』と『立ち上がれ 目覚めよ』(Arise Awake)です。だいぶ前から関心のあった本ですが、古本市で見かけて思わず手に取り買ってしまいました。

 

1893年にヴィヴェーカーナンダはシカゴで開かれた世界宗教会議で講演を行い、たちまちその名が世界にとどろくこととなりました。その時の講演集が『シカゴ講演集』です。ヴィヴェーカーナンダは特にインドでは霊性の獅子(ライオン)(spiritual lion)といわれますが、まさにライオンが吠えるかのような講演内容になっています。その中の言葉をいくつか取り上げてみたいと思います。

 

「(この事実は、)意識は心という大海のほんの表面であるにすぎず、その奥底には、我々の経験のすべてが蓄積されているのだ、ということを示しています。努力してご覧なさい。それらは現れてきて、あなた方は自分の過去世までも思い出すでしょう。」(p22)
インドではどう受け取られるのかはわかりませんが、私にはとてもユニークな見解に思います。なぜなら、私は自分の過去世を信じてはいますが、それを思い出そうという意欲はほぼないからです。なので過去世を思い出そうという努力をしようという思い自体を抱いたことがありません。ところがヴィヴェーカーナンダは努力すれば過去世は思い出せるといいます。私は意欲がわいてこないので今後もそちらの方面の努力はしないのではないかと思いますが、しかし自らの過去世に非常に強い関心がある方ならば、それは不可能ではないようなので、努力してみるのもいいでしょう。ヴィヴェーカーナンダはそれを励ましてくれます。

 

「多様の中の単一、というのが自然の計画でありまして、ヒンドゥはそれを認識しています。他のあらゆる宗教は特定の教条をもうけ、それを採用することを社会に強要します。」(p41)
ここで多様の中の単一というのはunity in diversityのことでしょう。ヴィヴェーカーナンダの文脈では、特定の教条をもうけ、それを社会に強要することはunity in diversityではありません。多様の中の単一(unity in diversity)ということに関しては大きな誤解があります。私にとっては、外部は多様であって内部は一つであるということです。ハートが一つで肉体は多数ということです。私を内から動機づけているのと同じお方が他の人を内から動機づけているということです。あるいは人は世の中の多様性に長い間もまれながら、いつかは内在する神性に気づかなければならないという命題を言い換えたものととらえることもできるでしょう。必ずしも同一の考えをすることや同じ倫理規範に従うことが多様の中の単一なのではありません。多様なものの中で生きることを通じて一つであるものに気づいていくということです。一定の教条を多数の人がまとうことはたんにその集団がカルトであることを意味しているのではないでしょうか? 誤解する人がいるかもしれませんが、ある組織の規律は規律です。規律を通じて各人がどのような見解に導かれるかは人それぞれでしょう。

 

「シャカ・ムニは、一つも新しいものを説こうとしてきたのではありませんでした。彼もまた、イエスと同様に、完成するために来たのであって、破壊するために来たのではなかったのです。ただ、イエスの場合には彼を理解しなかったのは古い人びと、ユダヤ人であったのに、ブッダの場合には、彼の教えの意味を悟らなかったのは彼自身の信奉者たちでした。ユダヤ教徒旧約聖書の完成を理解しなかったのと同様に、仏教徒は、ヒンドゥの宗教の完成を理解しなかったのでした。」(p52~53)
非常にユニークな見解だと思います。私はこの個所を読むまでこのようなことを語っていた人をただの一人も知りませんでした。日本の密教ヒンドゥー教だといっていた人は知っていますが、仏教がヒンドゥー教の完成だというのは思いもかけない見解でした。このような見方をするならば、仏教の歴史的意義はまったく書き換えられなければなりませんし、しかし日本の仏教関係者たちがこれを認めることが困難であることも理解できます。私はほんのわずかばかりのさわり程度ですが、日本人はあまりにもヒンドゥー教を知りません。

 

ヴィヴェーカーナンダがシカゴで講演をしたのは1893年9月だったようです。そのちょうど100年後の1993年にサティヤサイババの御名が大々的に日本に伝わってきました。今のアメリカの現状を見るにつけ、ヴィヴェーカーナンダの訪米は、彼の御名を高めはしたものの、アメリカ人たちは彼の語ることを理解できなかったように思われます。一方日本ではサイババの御名が日本に伝わってきて30年が経ちましたが、非常にゆっくりではあるにせよ、彼の神性に関して着実な広がりがみられるようではあります。ヴィヴェーカーナンダは訪問する国を間違えたのかもしれません。

 

もう1冊の本『立ち上がれ 目覚めよ』について触れることができませんでした。こちらも啓発的な内容でいっぱいです。宗教に関してまたインドの霊性に関して理解を深めるのに、彼の書物は非常に役立つことでしょう。関心のある方は手に取ってみるのがいいと思います。

大乗仏典に関連して

 

このブログを公開する2024年5月23日はブッダプールニマです。お釈迦様が生まれた日として世界中で祝われているのがこの季節の満月の日です。プッダプールニマは陰暦(月の暦)で日にちが決まりますが、日本は太陽暦なので概ねプッダプールニマを祝うことはありません。4月8日に固定されています。今日はお釈迦様に関連する日ですので、仏教に関して私が思っていることの一つを取り上げます。それは大乗仏典に関してです。主に上部座仏教圏がブッダプールニマに関りが深いとされますが、日本は大乗仏教圏です。親の読み残していた大乗仏典に関する書物を見ていて、いろいろ思うことがありました。その書物とは『お経の話』(渡辺照宏)です。

 

他の古い書物で見かけたことがありますし、今の学説では否定されているのかもしれませんが、大乗仏典偽教説というのがあります。大乗仏典はお釈迦様の直接の御教えではないという説です。また私が読んだ『お経の話』という本も1967年出版でそれなりに古い本です。ただし渡辺照宏氏は確かな仏教学者です。この『お経の話』という本の中に次のような一節があります。

 

「大乗以外の経典―便宜上、小乗経典とよぶことにしよう―はだいたいにおいて出家教団のために説かれたものであるが、一応、現実の描写を立て前とし、常識の世界からあまりかけ離れていない。その教義は教訓的であり実際的である。神秘や奇跡の要素もないわけではないが、だいたい日常経験の場に統一されている。瞑想(禅定、三昧)を説くが、その霊的体験の内容はあまり語られていない。
大乗経典はさまざまな聴衆を予想しているが、その根本的特質は瞑想の体験の描写であるということができよう。日常経験を超越した世界の体験を生き生きとした具体的な形象によって表現する。たとえば一座の指導者である仏陀が瞑想に入ると、その瞑想中の体験―十方の無数の世界にいる無数の仏陀やボサツやその他の生きものの行動や言語など―を列席者がすべて具体的な形象として把握する。そこには距離や時間やその他の制約はもはや存在しない。したがって瞑想中の仏陀が一言もいわなくても聴衆はさまざまな教えを受けとる。瞑想からさめた仏陀と聴衆との問答はただ補足的な意味を持つにすぎないこともある。」(p120~121)

 

これをどう受け取るかということです。渡辺氏の言葉を見る限り、大乗仏典の内容はお釈迦様の在世中に分かち合われていたような印象を受けます。ただ歴史学者によれば、大乗仏典が編纂されたのはずっと後のことですし、龍樹菩薩がその創始者であるという説があります。ウィキペディアによれば、中村元氏は大乗仏教は諸法の実相を説くことを目的としているといっていたようです。実相とは無形のことのようですし、形のないものを瞑想的表現で表したものが大乗仏典なのだということなのかもしれません。

 

以前このブログで書いたことがあるかもしれませんが、私の性質からすれば大乗仏典の荒唐無稽さ(!?)はあまり好みではありません。私などは大乗仏典はお釈迦様の瞑想の内容ではなく、弟子たちがお釈迦様の御教えを瞑想した上でのお釈迦様の御教えの解釈のような印象を受けさえします。私はお釈迦様とお釈迦様の御教えに価値を置いているのであって、大乗仏典への疑義は払拭しきれていません。

 

たとえば私はサイババの御教えを自分なりに理解して実践し、そこから何らかの果実を得てきましたが、私がこのブログで書くことはサイババの御教えであると主張することはまったくできません。私は多くの時間をサイババの御教えや諸マントラの瞑想に費やしてきましたが、それは私の個人的体験です。サイババサイババ、私は私です。私がサイババに向き合ったことは確かな事実であり、私がサイババに多大な影響を受けたことも事実ですが、サイババの御教えと私の書いていることを混同してはなりません。それと同じように大乗仏典とお釈迦様の御教えは異なる可能性があるのではないかとの思いは消えません。方便という意味で大乗仏典にお釈迦様の御教えが含まれているのは確かかもしれませんが、それ以上のことはよくわかりません。約2500年間にわたり、あるいは日本に伝わってきて1500年近くでしょうが、さまざまな文化を育んできたその価値は尊んでいますが、私は盲目的にあるいは断定的に大乗仏典とお釈迦様を同一視していないでしょう。

 

お釈迦様の御教えをバーラタ(インド)の文化の中で育った方が瞑想授受した場合と、他の文化の中で育った方が瞑想した場合とでは、その記述は異なることでしょう。そのこと自体を理解していれば害はありません。それらはともに立派な仏教といえます。ただそれがお釈迦様の御言葉そのものかといえば、また別です。他の人の信仰を否定するつもりはまったくないのですが、私の性質が大乗仏典を以上のように受け止めるというだけのことです。

 

日本人にはどこか空想的なところがあります。大乗仏教が栄えた地である朝鮮半島(私が知っているのは韓国ですが)の人も文学が好きで空想に淫するのは日本に少し似ています。物語好きな点が共通しています。世界各地のことは知りませんが、日本と朝鮮半島に大乗仏典が与えた影響はありそうです。

 

もしかしたら、最新の学説に従えば、大乗仏典に関してまた別の考え方をするかもしれません。今日書いたことは一つの観点の提示と受け取っていただければ幸いです。

歴史について

 

今日は歴史について思うことを書いてみます。読んでいただけるとわかると思いますが、私は比較的歴史を意識した人生を歩んできましたし、またそこから多くを学んできました。歴史は私の生活に非常になじみのあるものです。霊性を私の人生の表テーマといえば、歴史はもしかしたら裏テーマといえるくらいかもしれません。必ずしも歴史に関して造詣が深いわけではないのですが、さまざまに私の人生を規定してきました。

 

私は本州最西端の下関に縁があります。ある種の人は東京と地方というような言い方で地方をひとくくりにするような乱暴な考えをもっていますが、メディアの影響で少しばかりは画一化された面はあるにしろ、しかし土地土地の個性は実にさまざまです。そして私が縁がある下関もそうです。下関は日本の歴史の転換期にほぼ必ず顔を出します。古事記にはこの地に都が一時的に置かれていたことが書かれていますし、源氏が平家を滅ぼし全国の支配層が総入れ替えになりましたが、平家が滅んだのは関門海峡の地です。平家に関係する伝承が下関にはかなりあります。室町から江戸時代に移る時期においては、豊臣秀吉朝鮮出兵巌流島の戦いなどのエピソードがあります。幕末期には各地の維新の志士たちがこの地をさまざまに行き来しました。また大陸と近いことから朝鮮半島や中国大陸との行き来が今もあります。これらは日本人の多くの人たちが知っている歴史的事実ですが、小さなエピソードに関しましてはこの何倍もの歴史的遺産があります。今では人口が30万人をだいぶ切る中規模の都市ですが、規模に比べてその歴史的遺産の量は世界的なものといえるかもしれません。それら一々に関して書くならば、かなりの量になるので今日は書きませんが、下関の街を歩いたり、住んだりしてみれば、日常的に意識は何百年の時間や国境を越えていきます。

 

さて日本に限らず世界は物語であふれています。いや中毒するほどに危険なほどです。しかしながら私はあまり物語に関心をもたない人間であったので、その影響をあまり受けていないでしょう。しかし歴史history=His story(彼=超越者の物語)は別です。人間が作る物語は底が知れるものです。しかし事実は小説より奇なりといわれるように、実際に起こったことは人によってさまざまな受け取り方が可能です。歴史は西洋の哲学用語である「物自体」であるという人もいます。物自体とは存在に近い意味です。それは記号ではなく記号以前です。自然科学に似て実証的な面が強いです。歴史というものは底深いもので、それはまさにHis story(神の物語)(サイババ)といわれるゆえんです。

 

私はこれまでの人生で特に数学の歴史、黒船来航以来の日本の精神史に関心があったといえます。他にも日本通史やコーヒーの歴史、仏教史などの本も読んできました。今は市場(マーケット)をどう受け取るかという経済思想史に少し関心があります。ただ本を読んできただけではありません。それらが人生に大きな変化をもたらしてきました。歴史には実践的な要素が多分にあります。

 

たとえば仏教には末法という言葉があり、バーラタ(インド)にはカリユガ(闘争の時代)という言葉があります。似た意味の言葉です。今はカリユガの転換点だとされます。人間は皆アヴァター(神の化身)だというのがバーラタの思想ですが、その中で特にユガアヴァターという存在がいます。ユガアヴァターとはその存在がユガ(時代)を区切るという意味です。クリシュナはユガアヴァターとされます。彼が肉体を脱いだ(死んだ)年にカリユガが始まったとされます。約5000年前です。そしてサイババもユガアヴァターだとされます。いろいろな説がありますが、私が理解している範囲では、サイババの登場した現代はカリユガの折り返し地点です。最悪の時代は過ぎ去って、小さな変動はあるにしろこれから少しずつ時代はよくなっていき、約5000年後に黄金時代(クリタユガ)が到来すると私は受け止めています。バーラタについて全く知らない人にとっては奇妙な珍説かもしれませんが。こういう歴史観が私の人生に大きな影響を与えることは間違いありません。

 

歴史は単に過去のことではなく、未来への展望をもたらします。歴史は過去において何が起こったかを示しますが、それはただ何が起こったかだけでなく、何が実現されていないかも示します。つまりそこには未来への可能性が見て取れるのです。私の好きな歴史学者の一人に加藤陽子氏がいますが、彼女は「歴史の醍醐味と役割は、過去を正確に描きながらも、未来を作り出す力があるところだと思います。」との言葉を残されているようです。歴史は可能性の一つが実現されたものです。未来は不確かです。歴史を学ぶことで不確かで可能性がいかようにもある未来がうかがえます。私の人生はそのような人生でもありました。


私は自然に歴史になじんでいましたが、これを読む人にも何らかの歴史に関心をもってもらえたらと少しばかり思います。何の歴史でも構いません。地域の歴史、家の歴史、お茶の歴史、建築の歴史、関心のある国の歴史、ゲームの歴史などなんでも関心のあるものでいいと思います。アマゾンで検索すれば、新書でもさまざまな歴史について書かれたものがあることがわかります。人は社会の歯車であります(どの人もその人がいないと社会が正常に機能しないという意味)が、また過去を未来につなげる歴史の歯車でもあると思うのです。自分や親世代の文化を子どもたちに伝えることは実際にそういうことを意味します。私ほどには歴史に関心のない人が多いかもしれませんが、私は歴史から多くを引き出し人生を豊かにしてきたのは間違いありません。何らかの参考になればと思います。

人生の意味2

 

約1年ほど前に人生の意味について書きました。

aitasaka.hatenablog.com

そちらに書いてある通りなのですが、少しばかり補足的なことを今日は書いておきます。

 

前回の記事の中に次のような引用があります。
"Perfect freedom is not given to any men on earth because the very meaning of mortal life is a relationship with and dependence on another."
(完全な自由は地上の誰にも与えられていません。なぜなら、この世における人生の意味自体が、他者と互いに関わり合い、依存し合うことにあるからです。)(1979.10.20)(『プレマダーラ 愛の流れ』p62)

 

基本的にこの通りなのだと思います。人間はある意味不完全だということです。つまりは人間は皆ある種の障害者なのです。科学技術は障害者のためにも有用ですが、そもそも人間皆が障害者なのですから、自然に自然に反する人間存在にとって科学技術はある種とても人間的です。私は若いころ科学技術に対して反感をもっていて、人間は自然に還るべきだというような考えを強くもっていましたが、年を取って、また私が健康を害しある種障害を自覚するするようになって科学技術と折り合いをつけることができるようになりました。私はサイババを敬愛していますが、サイババは最後の8年間ほど車いすの生活を送ることが多く、それは私には障害者としての生き方、障害者への慈しみを示しているように感じたものです。不完全さに関しましては、私はゲーテルの不完全性定理に大いに関心をもってきましたが、それは論理学の不完全さ、理性(reasoning)の限界を示唆するものですが、それに加え人間は存在の不完全さにも思いをはせるべきです。ジグソーパズルは一つ一つのピースに出っ張っているところと凹んでいるところがあり、それらが互いに補い合いながら一つの絵を作りますが、人間社会もそれに似て個々の人間が何らかの形で補いあいながら形成されるものです。

 

さてさらに付け加えますと、似た言葉にoperation(操作)とcooperation(協力)があります。依存関係にある人間に求められることは、基本的にcooperation(協力)の方です。operation(操作)とは何らかの形での権力の行使といえるでしょう。現代社会が生きがたく感じるのは、社会にoperationが満ちていて、cooperationが欠けているからです。SNSを見ているとしばしば見かける言葉ですが、DVとかマウントとかというのはoperationつまり自分の好きなように人を操作しようとすることです。もちろん特に大きな社会集団になると政治的決断をせざるを得ないことはあり、往々にして政治的決断にはそれで利益を得る人と一時的に損失を被る人がいて、それもoperationの一種といえますが、しかし私は現状最低限の政治的判断は人間社会に必要だと思っていますので、定められた手続きに沿った形での政治は尊重しています。私は政治家とかかわりをもっていませんし、また特定の政治活動をしているつもりもなく、例えば国会で法律が定められたら基本的にそれに対して協力的(cooperative)な態度でいたいと思っています。大切なのはあらゆる場における協力的な態度でしょう。自分で自分の面倒を見ることから始まって、家族、地域社会、職場などなどでできる範囲で補いあうということです。operationではなくcooperationがより広がれば、世の中はもっと住みやすくなるはずです。少人数の手本からそれは広まっていくのかもしれません。

 

1年ほど前に書いた記事に関連して、諸関係からの解放ということがあります。人間関係の網の目からどのようにして解放されるのかということです。一つの考え方として全託というものがあります。全託は超越者にすべてを委ねることというような意味ですが、つまりその場合関係は自分と超越者との関係だけになります。全託はたやすいものではありませんが、物事をシンプルにしたい人にとっては全託に挑戦することは一つの選択です。一生をかけて取り組むだけの価値はあるでしょう。私は未だに十分な理解と実践ができていません。

 

人生の意味に関連して、生きがいという言葉があります。世の中にはこの生きがいという言葉を好む人がいるのを私は知っています。生きがいという言葉が広まったのは神谷美恵子氏によるところが多いでしょうが、私は神谷氏の著書を読んだことはありますが、生きがいという言葉は私にはしっくりこない、あるいはあまりピンとこない言葉、概念です。何かに携わっていることに人生をかける甲斐があるというようなことでしょうが、その携わることに霊的な理解や観点がなければあまり意味がないと思うのです。実際のところ、私にはこれが生きがいであるというようなものはありません。

 

人生の意味について人は深く悩むのかもしれません。たとえば大きな困難や苦痛に直面した際、困難や苦痛自体よりも、それらに何の意味があるのかわからないことがより苦しいと感じるかもしれません。私は今人生の意味について迷うことはほぼありませんが、私の書くものによって、読む人の悩みが少しでも軽減されればうれしく思います。

八正道2

 

もう過ぎてしまいましたが、4月8日は花祭りであり、お釈迦様について考える機会がありましたので、今日はその中心となる御教えの八正道について書いてみます。八正道についてはかつて書いたことがありますが、少し視点の異なるものです。

 

仏教では仏(ほとけ)といわれます。厳密さは欠いていますが、少なくない人は仏(ほとけ)様を神様と似たようなニュアンスでとらえています。仏教はぶっきょうと読みますが、仏は「ぶつ」とも読みます。なぜならばお釈迦様はブッディを備え体現されていた方だったので仏陀と呼ばれた、と私は当たり前に受け取っています。ブッディはインドの言葉で識別、知性などの意味です。プラグニャーナ(般若)と受け取ってもいいかもしれません。ブッダムシャラナムガッチャーミ(仏陀に帰依し奉る)といいますが、ブッダをお釈迦様ご本人と理解することもできれば、(自らに備わっている)ブッディを避け所とします、という宣言でもあります。

 

ブッディとはその人の存在であるアートマと肉体(とそれに付随する頭脳マインド)をつなげるものです。ブッディがあるから肉体そして頭脳はアートマからエネルギーを引き出して機能することができます。電化製品のコンセントを差し込めば電化製品が機能するように、ブッディは人間という機械が機能するためのスイッチです。ブッディはアートマから生じアートマと肉体をつなげます。

 

このブッディの開発が八正道なのだと思っています。海から蒸発した水は雲となり、雲は大地に雨をもたらします。大地に降った雨は小川となり川となりもとの大海を目指します。川は大地を流れますが、日本の農村地帯を見ればわかるように、川の水は各田畑へとひかれており、水路は大地に張り巡らされています。ブッディは川のようです。大地=肉体への恵みとしてあります。

 

ブッディは知性として受け取られることが多いのですが、それ自体がアートマと肉体との間に通じる道でもあります。それは知識というよりは歩かれるべき道であり、その道こそを八正道と受け取ってもいいのではないでしょうか? ブッダムシャラナムガッチャーミとは、ブッダム=ブッディをシャラナム=避け所と受け取りガッチャーミー=その道を歩みます、という意味です。つまり私流の解釈では、ブッダムシャラナムガッチャーミーとは、八正道の道を歩んで、最終的に正定(瞑想の境地、ニルヴァーナ)に向かいますという宣言です。

 

正見、正思、正語、正業などのように感覚器官や思いと言葉と行動の浄化がまずはあります。それらの調和が正命であり、正精進(サーダナ)、正念(目的地を正しく思い描くこと)、正定が続きます。正は正しいと受け取ることはできますがサンスクリット語ではサムヤクという語であり、清らかな、適切なというような意味でしょう。サムヤクドリシュティのドリシュティは視覚という意味で、合わせて正見と訳されます。

 

常々感じていますが、賢くありたいと思っている人があまりに多いと思います。それはそれでいいのですが、肉体の機能は人さまざまで誰もがオリンピック選手になれるわけでもなく、肉体の特定の機能を競いあう必要性が特にあるわけではありません。同様に知能の機能も人さまざまで誰もが学者になれるわけではありません。知能には個性があります。大切なのは知能の個性を活かすことです。Purity is enlightment.(純粋性が悟り、開眼である。)といわれますが、大切なのは知能にこびりついた油汚れのようなものを取り除いて、知能が当たり前に機能するようにすることが大切なわけです。オリンピック選手並みの運動能力がなくても生活できるように、知能がとびぬけていなくても人間として問題はないわけです。少なくとも私は難しい言葉や概念を用いなくてもやっていけています。正見とは汚れを取り除いた時の見え方のことで、正思、正語、正業はエゴがない状態での思いと言葉と行動のことです。自由になろうと努力するのではなく、束縛を取り除くようにすべきだといわれますが、同じように、正しくあろうとするのではなく汚れを取り除くようにすべきだということです。これが果たされたときにアートマは肉体に完全に反映される=正定というわけです。これがブッディでしょう。

 

インドには九つの帰依の道やアシュタンガヨガ(八つのヨガ)の道があり、多くの人がそれを実践しています。それに類するものとして八正道はとらえられるべきもので、特に仏教徒はそうでしょう。宗派に関係なく一般の人が日常生活で八正道を実践していいですし、一般の人にわかりやすい八正道の解説書が巷にあふれていてもいいように思います。私は常に念頭にあったわけではありませんが、振り返って八正道を実践してきた面はあると思います。アートマの実現(atma realization)という目的をかなえてくれるものでもあります。そしてこれこそが仏教です。

マスタープランとプラン

 

今日はマスタープランについて書いてみます。マスタープランは日本語では次のような意味があります。主に都市計画などで使われることが多いようですが、「基本となる計画、基本設計」を意味するようです。英語では次のような意味がありました。「an organized set of decisions made by one person or a team of people about how to do something in the future」(未来においてどのように物事を行うかに関してチームあるいは一人の人によって形成された決定の束)。二つのニュアンスは異なると思うのですが、どちらかといえば英語の意味に近いマスタープランについて述べてみます。

 

都市計画や企業経営において計画の枠組みがあると思いますが、ある程度年齢を重ねて振り返ってみたときに、人生にも(個々人の人生であれ、社会の趨勢に関係するものであれ、広く歴史に関係するものであれ)何らかの筋書きのようなものがあったと感じることがあります。それを人生におけるマスタープランであるととらえてみましょう。多分サイババは「The 'Master' has a 'Master plan'.(主人MasterにはマスタープランMaster plan)があります。)といっていたと思うのですが、私のような運命論者はそのようなマスタープランを生きてきたと思うほかないわけです。マスターのなした計画、歴史をえがくものと同じお方が個々人の運命の細部までなされた計画があるわけです。しかし人間はマスターのなされた計画を人間のレベルでのカテゴリー、つまりマインド(思考)のレベルで受け取ってしまいます。


たとえば次のような言葉があります。「Stop Thinking ; Start Chanting ; Solve Everything...」(考えるのをやめなさい。(御名を)唱えなさい。すべてが解決されます。)人間は考えます。chanting(称名)という霊的行為は人間のレベルより上を希求する行為です。プランは人間のレベルです。霊的な行為はプランよりもマスタープランに近いものです。

 

次のような言葉もあります。「Love is wiser than wisdom. If you have to choose between being kind and being right, choose being kind and you will always be right.」(愛は英知よりも賢いものです。もしあなたが親切であることと正しくあることのどちらかを選ばなければならないとしたら、親切であることを選びなさい。そうすればあなたはいつも正しくあるでしょう。)この二つの英文は元は別々の言葉です。しかしつなげて考えると納得のいくことがあります。一般に賢くありたい人は英知を求めます。しかし愛の道を歩む方が英知の人より賢いというのが前半の文の意味するところです。後半の文はその具体例と受け取ることができます。賢くあろうとすることは人間的です。しかし愛は神的です。賢くあろうとすることはせいぜい人間のプランですが、愛はマスタープランです。

 

Masterは主のことです。主の御意志や計画は普通の人間にはわかるものではありません。しかしもし御名を唱えるような霊的行為や、愛のような価値を実践することをマスタープランととらえてたとしても、それほど主の御意志から外れたものではないと思うのです。川は両岸の堤防の範囲内であるならば、どこを流れても構いません。それは自由です。両岸の堤防がマスタープランです。人間はその範囲内で自由にプランを立てて生きることができます。牛は柵に囲まれた範囲内では自由に草を食むことができます。柵はマスタープランです。その範囲内で自由に生きることはプランです。人間とは体や感覚、心、知性などの構成要素が一つに有機的に構成されたものですが、人間的価値とはそれらの制限内でそれらを適切な目的に向けて活用することです。たとえば愛や真実や正しい行いのことです。これらはマスタープランです。自らが置かれている状況においてこれらの価値を個別に適用するやり方はある程度自由であるかもしれません。サーダナやヨーガのような霊的規律もマスタープランです。同じサーダナを行うにしても、個々人の進歩の度合いによってその効果はさまざまかもしれません。これら一連に関することはプランです。

 

マスタープランとプランの二つの概念は、運命と自由に関係しているように思えます。人間は自分は自由であると強力に主張するかもしれませんが、しかしながらマスタープランという概念に意識が向けば、少しは運命論について理解が進むかもしれません。そして運命論を受け入れることができるようにならば、単に考えたことに振り回されるのではなくさまざまな価値(人間的価値や霊的価値、倫理的価値など)に目が向くようになると思うのです。

シヴァマントラについて

 

毎年この頃の新月前日はバーラタ(インド)においてマハーシヴァラートリーが行われます。マハーは「偉大なる」という意味で、シヴァはシヴァ神のことでラートリーは夜という意味です。簡単にいえばシヴァを思いながら夜を過ごす日のことです。シヴァラートリーは新月ごとにありますが、その中で最も重要なのがマハーシヴァラートリーだとされます。今年は3月9日がマハーシヴァラートリーだったと思います。今日はそれに関連して、私が憶念することの多いシヴァに関するマントラについて触れてみます。一つはオーム ナマ シヴァーヤで、もう一つはシヴォーハムです。

 

まずはオーム ナマ シヴァーヤです。ナマはナモー(帰命する)という意味で、シヴァーヤはシヴァ神にという意味です。オームはこのナマシヴァーヤというマントラに力を与えます。まとめて「シヴァ神に帰命いたします。」という意味になります。シヴァ神はバーラタでは創造維持破壊のうち破壊をつかさどる神様だとされているようです。この世のものをよく観察してみれば、すべてのものが最終的に無(認識の枠外)に帰していきます。最後はもと来たところに帰るのです。この世は循環によって成り立っています。その最初と最後をつなげる神様がシヴァ神です。私はわかりやすくシヴァ神は片付けの神様だと思っています。

 

片付けを肉体・物質レベル、心のレベル、存在・魂のレベルで考えてみます。肉体・物質のレベルでいえば、私たちは日々肉体の清潔を保ったり、さまざまな場所の掃除や片づけをしています。ある程度肉体や住む環境などがきれいになっていないと生活がうまくいきません。そういうレベルの清潔を保ち、創造的な活動の準備をします。心のレベルの清浄に関しては、肉体・物質レベルよりはわかりにくいかもしれません。心がきれいとか汚れているということに日本の教育はほとんど配慮していません。実際の生活やメディアではさまざまに不必要なことが表現され、そういうものの印象が記憶に積み重なっていきます。印象が積み重なるということは自然現象なので仕方ありませんが、部屋にホコリが積み重なって汚れるように、心もそうやって汚れていきます。心が汚れているかどうかは、よこしまな思いがわいてくることが多いかどうかを観察してみればわかるかもしれません。よくない思いについつい浸ってしまうのも心の汚れの印です。心が汚れてしまった場合、どうすればそれが浄化されるのか、日本人の99%は知らないかもしれません。臭いものにふたをしても、汚れが取り除かれるわけではありません。心の掃除の仕方というものがあります。それはつまりサーダナ(霊性修行)です。御名を唱えたり、瞑想したり、礼拝したり、奉仕をしたり、祈りを捧げそれに従って生きる努力をしたりなどなどの行のことです。これらによって、少しずつですが心の汚れは取り除かれていきます。それでは存在・魂のレベルの汚れとは何でしょうか? ヴァサナ(過去生から受け継いだ潜在的傾向)ともいわれますが、今日は過去生から引き継いだカルマ(業)のことを取り上げておきましょう。人間として生まれてくるのは、過去生の善悪の行為の結果だとされます。悪い行いの結果だけでなく、善い行いの結果が残っていても生まれてくるようです。このレベルの清浄つまりカルマを取り除くにはどうすればいいのでしょうか? 私は義務と犠牲だと思っています。自らのカルマにふさわしい人とこの世において縁があることが多いでしょう。特定の人との間にカルマの負債があったりするのです。ならばその人との間のカルマを清算するには義務を果たすことが適切だと思うのです。また犠牲とは、エゴや憎悪、プライドなどを出さずに自らが受けた何らかの害を身をもって受け止めるということ、行為の結果に執着せず必要な状況において手放すものを手放すということです。許しや無執着の類です。このような三つのレベルの汚れを取り除くのを助けて下さるのがシヴァ神です。私はシヴァ神は片付けの神様だと思ってオーム ナマ シヴァーヤというマントラを唱えたり書いたりすることがあります。

 

次にシヴォーハムというマントラについてです。シヴァである私(アハム)、つまり「私はシヴァである」という意味のマントラです。アハム ブラフマースミ(私はブラフマンである)と趣旨は同じです。シヴァ神と私という二元性ではなく、シヴァと私は一つという一元性について触れています。川が上流から流れていき河口において海と最終的に合流するその姿のことです。私とシヴァ神の区別がなくなります。私がシヴァ神に融合するのは、シヴァ神の御教えを実践してシヴァ神の性質を自らに取り入れる努力によってなされるでしょう。一方シヴァ神の側からの私(人間)をシヴァ自らと一つにさせようという作用もあります。たとえば私が食物を口にしてそれを噛み胃に送れば、それは消化されて体の隅々にまで食物のエッセンスは届けられます。それと同じように、シヴァ神は私たちを「食べて」います。自然界には食物連鎖というものがありますが、進化の頂点にある人間はシヴァ神によって食べられます。それは人生で出会うさまざまな苦痛のことです。普通に生きていて、何で自分がこんな目に合うのかと思うことはあるでしょうが、それはシヴァ神が私たち(のエゴ)を食べているのだと受け止めています。そしてそれを通じて私たちをシヴァご自身の一部にしようとしている、そういうこともあると思っています。この世のことは時間が解決してくれます。苦痛はいつかは過ぎ去ると思って耐え、喜びはそれによってこの世への執着を増すことのないように注意し、つまりはバガヴァドギーターにあるように苦楽を等しく見て平穏の内に生きるのがいいでしょう。

 

私は移り気なのかもしれませんが、さまざまなマントラを唱えたり書いたりしています。オーム ナマ シヴァーヤやシヴォーハムを唱えるとき、たとえば今回書いたようなことを思いながら唱えているわけです。これはやってみたことのない人にはわからないかもしれませんが、深い満足を与えてくれるサーダナの一つです。マントラをどう理解すればいいか最初はわからないかもしれませんが、マントラへの信仰がありさえすれば、マントラ自体がその意味を開示してくれるといわれています。自分に開示された意味が、自分の人生にとって最も有益な意味であり得ます。普通の言葉と比べて、マントラは唱えるさまざまな人に適した意味を開示してくれるからこそマントラなのです。

神道について2

 

前々回のブログの記事の中で「サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。」と書きました。これは私の偽らざる気持ちです。ここに、「いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。」とあります。伝統芸能ですとその多くは決まりきった様式や形式を踏襲しているのですが、人生というのは活きものですので、時代の風潮やかかわる人が変わってくると、それに応じた振る舞いを多少なりとも調整しなくてはなりません。「日々是新なれば日々是好日なり…」(松下幸之助)という言葉があるようですが、これは日々元旦のように新しい日であるならば、それはおめでたい一日だという理解ができるようです。日々新たであるならば、それに応じた新たな人生を心がけようともいえます。それを新たなダンスのステップと私は表現したわけです。

 

さて私は今年の正月に広島に行き神楽を初めてみてきました。かつて島根県を旅行した時に神楽の存在が身近であることを知り、最近になって広島県も同様に神楽が盛んであり、また伝統芸能にしては比較的手ごろな料金で楽しめることがわかったので、広島に行ってきました。私は一通り日本の伝統芸能のことを知っておきたいと思っており、歌舞伎や文楽を見に行ったことがあります。能・狂言はテレビでしか見たことがありません。能・狂言はその身体所作に感じるものはありますが、歌舞伎、文楽とともにある程度の知識もない私は、ただ見ただけでは理解できませんでした。しかしながら神楽は違いました。神楽は基本的に歌舞つまり歌(音楽)と舞です。現代のように物語に中毒するほど物語が氾濫している時代にあって、神楽のストーリー、物語性は極めてシンプルです。会場に入場する時に渡されたチラシに書かれていることを読んだだけで十分でした。45分くらいの公演における筋書きはほんの100字程度かもしれません。あとは音楽と舞を楽しむことに注がれました。これほどまでに物語性の負担を感じない芸能は初めてでした。新鮮な驚きです。そうであって、音楽と舞で十二分に楽しめます。私だけでなく、私の近くにいた、多分初めて見ただろう人の口からも「すごいな」という言葉がこぼれていました。

 

一説によると神楽は、岩戸に隠れたアマテラスオオミカミに岩戸から出てきてもらうようアメノウズメが舞った舞が起源だとのことです。それによって世界に光が再び差し救われたとされます。神楽は神道に関係があるといえます。神楽といえば宮崎の高千穂も有名ですし、島根県の岩見神楽も出雲から遠くはありません。さて、私はかつて「神道に教義はありません。ただ踊るだけです。」と神職の方が述べていたのを読んだことがあり、それがずいぶん心に残っていました。神道からすれば仏教や儒教は理屈が多いのでしょう。神道はあれやこれやと理屈はいわないという風にも理解できますが、しかしここで「踊る」というのがキーワードになってきます。先に私は日々新たなダンスのステップを習っているようだという言葉を取り上げましたが、結局のところ「ただ踊るだけです」というのはそういうことでもあると思うのです。神道といえば初詣ですが、新年を迎えた時のように清らかな心で新たな舞を習う、舞うということが肝要なのでしょう。

 

私にとっては、新たなダンスのステップを習うというのは全託と関係します。慣れていない初めての世界に飛び込むわけです。これこそが人生であるとはいえます。また、この世は神様が自ら芝居を演出し、自らが出演し、自らが見て楽しんでいる巨大な芝居だという意見もあります。ただ演じるだけ。それも神道でしょう。こう書くと底が浅い宗教のようではありますが、一生にわたってそれが可能であるためには、それなりの修練が求められるような気はします。かなりの程度の心の清らかさです。神道においてそれがどのようにして確保されているのかは知りませんが、「ただ踊るだけです」という指摘に忠実であろうとすれば、それなりに大変なところがあるように思えます。