八正道2

 

もう過ぎてしまいましたが、4月8日は花祭りであり、お釈迦様について考える機会がありましたので、今日はその中心となる御教えの八正道について書いてみます。八正道についてはかつて書いたことがありますが、少し視点の異なるものです。

 

仏教では仏(ほとけ)といわれます。厳密さは欠いていますが、少なくない人は仏(ほとけ)様を神様と似たようなニュアンスでとらえています。仏教はぶっきょうと読みますが、仏は「ぶつ」とも読みます。なぜならばお釈迦様はブッディを備え体現されていた方だったので仏陀と呼ばれた、と私は当たり前に受け取っています。ブッディはインドの言葉で識別、知性などの意味です。プラグニャーナ(般若)と受け取ってもいいかもしれません。ブッダムシャラナムガッチャーミ(仏陀に帰依し奉る)といいますが、ブッダをお釈迦様ご本人と理解することもできれば、(自らに備わっている)ブッディを避け所とします、という宣言でもあります。

 

ブッディとはその人の存在であるアートマと肉体(とそれに付随する頭脳マインド)をつなげるものです。ブッディがあるから肉体そして頭脳はアートマからエネルギーを引き出して機能することができます。電化製品のコンセントを差し込めば電化製品が機能するように、ブッディは人間という機械が機能するためのスイッチです。ブッディはアートマから生じアートマと肉体をつなげます。

 

このブッディの開発が八正道なのだと思っています。海から蒸発した水は雲となり、雲は大地に雨をもたらします。大地に降った雨は小川となり川となりもとの大海を目指します。川は大地を流れますが、日本の農村地帯を見ればわかるように、川の水は各田畑へとひかれており、水路は大地に張り巡らされています。ブッディは川のようです。大地=肉体への恵みとしてあります。

 

ブッディは知性として受け取られることが多いのですが、それ自体がアートマと肉体との間に通じる道でもあります。それは知識というよりは歩かれるべき道であり、その道こそを八正道と受け取ってもいいのではないでしょうか? ブッダムシャラナムガッチャーミとは、ブッダム=ブッディをシャラナム=避け所と受け取りガッチャーミー=その道を歩みます、という意味です。つまり私流の解釈では、ブッダムシャラナムガッチャーミーとは、八正道の道を歩んで、最終的に正定(瞑想の境地、ニルヴァーナ)に向かいますという宣言です。

 

正見、正思、正語、正業などのように感覚器官や思いと言葉と行動の浄化がまずはあります。それらの調和が正命であり、正精進(サーダナ)、正念(目的地を正しく思い描くこと)、正定が続きます。正は正しいと受け取ることはできますがサンスクリット語ではサムヤクという語であり、清らかな、適切なというような意味でしょう。サムヤクドリシュティのドリシュティは視覚という意味で、合わせて正見と訳されます。

 

常々感じていますが、賢くありたいと思っている人があまりに多いと思います。それはそれでいいのですが、肉体の機能は人さまざまで誰もがオリンピック選手になれるわけでもなく、肉体の特定の機能を競いあう必要性が特にあるわけではありません。同様に知能の機能も人さまざまで誰もが学者になれるわけではありません。知能には個性があります。大切なのは知能の個性を活かすことです。Purity is enlightment.(純粋性が悟り、開眼である。)といわれますが、大切なのは知能にこびりついた油汚れのようなものを取り除いて、知能が当たり前に機能するようにすることが大切なわけです。オリンピック選手並みの運動能力がなくても生活できるように、知能がとびぬけていなくても人間として問題はないわけです。少なくとも私は難しい言葉や概念を用いなくてもやっていけています。正見とは汚れを取り除いた時の見え方のことで、正思、正語、正業はエゴがない状態での思いと言葉と行動のことです。自由になろうと努力するのではなく、束縛を取り除くようにすべきだといわれますが、同じように、正しくあろうとするのではなく汚れを取り除くようにすべきだということです。これが果たされたときにアートマは肉体に完全に反映される=正定というわけです。これがブッディでしょう。

 

インドには九つの帰依の道やアシュタンガヨガ(八つのヨガ)の道があり、多くの人がそれを実践しています。それに類するものとして八正道はとらえられるべきもので、特に仏教徒はそうでしょう。宗派に関係なく一般の人が日常生活で八正道を実践していいですし、一般の人にわかりやすい八正道の解説書が巷にあふれていてもいいように思います。私は常に念頭にあったわけではありませんが、振り返って八正道を実践してきた面はあると思います。アートマの実現(atma realization)という目的をかなえてくれるものでもあります。そしてこれこそが仏教です。

マスタープランとプラン

 

今日はマスタープランについて書いてみます。マスタープランは日本語では次のような意味があります。主に都市計画などで使われることが多いようですが、「基本となる計画、基本設計」を意味するようです。英語では次のような意味がありました。「an organized set of decisions made by one person or a team of people about how to do something in the future」(未来においてどのように物事を行うかに関してチームあるいは一人の人によって形成された決定の束)。二つのニュアンスは異なると思うのですが、どちらかといえば英語の意味に近いマスタープランについて述べてみます。

 

都市計画や企業経営において計画の枠組みがあると思いますが、ある程度年齢を重ねて振り返ってみたときに、人生にも(個々人の人生であれ、社会の趨勢に関係するものであれ、広く歴史に関係するものであれ)何らかの筋書きのようなものがあったと感じることがあります。それを人生におけるマスタープランであるととらえてみましょう。多分サイババは「The 'Master' has a 'Master plan'.(主人MasterにはマスタープランMaster plan)があります。)といっていたと思うのですが、私のような運命論者はそのようなマスタープランを生きてきたと思うほかないわけです。マスターのなした計画、歴史をえがくものと同じお方が個々人の運命の細部までなされた計画があるわけです。しかし人間はマスターのなされた計画を人間のレベルでのカテゴリー、つまりマインド(思考)のレベルで受け取ってしまいます。


たとえば次のような言葉があります。「Stop Thinking ; Start Chanting ; Solve Everything...」(考えるのをやめなさい。(御名を)唱えなさい。すべてが解決されます。)人間は考えます。chanting(称名)という霊的行為は人間のレベルより上を希求する行為です。プランは人間のレベルです。霊的な行為はプランよりもマスタープランに近いものです。

 

次のような言葉もあります。「Love is wiser than wisdom. If you have to choose between being kind and being right, choose being kind and you will always be right.」(愛は英知よりも賢いものです。もしあなたが親切であることと正しくあることのどちらかを選ばなければならないとしたら、親切であることを選びなさい。そうすればあなたはいつも正しくあるでしょう。)この二つの英文は元は別々の言葉です。しかしつなげて考えると納得のいくことがあります。一般に賢くありたい人は英知を求めます。しかし愛の道を歩む方が英知の人より賢いというのが前半の文の意味するところです。後半の文はその具体例と受け取ることができます。賢くあろうとすることは人間的です。しかし愛は神的です。賢くあろうとすることはせいぜい人間のプランですが、愛はマスタープランです。

 

Masterは主のことです。主の御意志や計画は普通の人間にはわかるものではありません。しかしもし御名を唱えるような霊的行為や、愛のような価値を実践することをマスタープランととらえてたとしても、それほど主の御意志から外れたものではないと思うのです。川は両岸の堤防の範囲内であるならば、どこを流れても構いません。それは自由です。両岸の堤防がマスタープランです。人間はその範囲内で自由にプランを立てて生きることができます。牛は柵に囲まれた範囲内では自由に草を食むことができます。柵はマスタープランです。その範囲内で自由に生きることはプランです。人間とは体や感覚、心、知性などの構成要素が一つに有機的に構成されたものですが、人間的価値とはそれらの制限内でそれらを適切な目的に向けて活用することです。たとえば愛や真実や正しい行いのことです。これらはマスタープランです。自らが置かれている状況においてこれらの価値を個別に適用するやり方はある程度自由であるかもしれません。サーダナやヨーガのような霊的規律もマスタープランです。同じサーダナを行うにしても、個々人の進歩の度合いによってその効果はさまざまかもしれません。これら一連に関することはプランです。

 

マスタープランとプランの二つの概念は、運命と自由に関係しているように思えます。人間は自分は自由であると強力に主張するかもしれませんが、しかしながらマスタープランという概念に意識が向けば、少しは運命論について理解が進むかもしれません。そして運命論を受け入れることができるようにならば、単に考えたことに振り回されるのではなくさまざまな価値(人間的価値や霊的価値、倫理的価値など)に目が向くようになると思うのです。

シヴァマントラについて

 

毎年この頃の新月前日はバーラタ(インド)においてマハーシヴァラートリーが行われます。マハーは「偉大なる」という意味で、シヴァはシヴァ神のことでラートリーは夜という意味です。簡単にいえばシヴァを思いながら夜を過ごす日のことです。シヴァラートリーは新月ごとにありますが、その中で最も重要なのがマハーシヴァラートリーだとされます。今年は3月9日がマハーシヴァラートリーだったと思います。今日はそれに関連して、私が憶念することの多いシヴァに関するマントラについて触れてみます。一つはオーム ナマ シヴァーヤで、もう一つはシヴォーハムです。

 

まずはオーム ナマ シヴァーヤです。ナマはナモー(帰命する)という意味で、シヴァーヤはシヴァ神にという意味です。オームはこのナマシヴァーヤというマントラに力を与えます。まとめて「シヴァ神に帰命いたします。」という意味になります。シヴァ神はバーラタでは創造維持破壊のうち破壊をつかさどる神様だとされているようです。この世のものをよく観察してみれば、すべてのものが最終的に無(認識の枠外)に帰していきます。最後はもと来たところに帰るのです。この世は循環によって成り立っています。その最初と最後をつなげる神様がシヴァ神です。私はわかりやすくシヴァ神は片付けの神様だと思っています。

 

片付けを肉体・物質レベル、心のレベル、存在・魂のレベルで考えてみます。肉体・物質のレベルでいえば、私たちは日々肉体の清潔を保ったり、さまざまな場所の掃除や片づけをしています。ある程度肉体や住む環境などがきれいになっていないと生活がうまくいきません。そういうレベルの清潔を保ち、創造的な活動の準備をします。心のレベルの清浄に関しては、肉体・物質レベルよりはわかりにくいかもしれません。心がきれいとか汚れているということに日本の教育はほとんど配慮していません。実際の生活やメディアではさまざまに不必要なことが表現され、そういうものの印象が記憶に積み重なっていきます。印象が積み重なるということは自然現象なので仕方ありませんが、部屋にホコリが積み重なって汚れるように、心もそうやって汚れていきます。心が汚れているかどうかは、よこしまな思いがわいてくることが多いかどうかを観察してみればわかるかもしれません。よくない思いについつい浸ってしまうのも心の汚れの印です。心が汚れてしまった場合、どうすればそれが浄化されるのか、日本人の99%は知らないかもしれません。臭いものにふたをしても、汚れが取り除かれるわけではありません。心の掃除の仕方というものがあります。それはつまりサーダナ(霊性修行)です。御名を唱えたり、瞑想したり、礼拝したり、奉仕をしたり、祈りを捧げそれに従って生きる努力をしたりなどなどの行のことです。これらによって、少しずつですが心の汚れは取り除かれていきます。それでは存在・魂のレベルの汚れとは何でしょうか? ヴァサナ(過去生から受け継いだ潜在的傾向)ともいわれますが、今日は過去生から引き継いだカルマ(業)のことを取り上げておきましょう。人間として生まれてくるのは、過去生の善悪の行為の結果だとされます。悪い行いの結果だけでなく、善い行いの結果が残っていても生まれてくるようです。このレベルの清浄つまりカルマを取り除くにはどうすればいいのでしょうか? 私は義務と犠牲だと思っています。自らのカルマにふさわしい人とこの世において縁があることが多いでしょう。特定の人との間にカルマの負債があったりするのです。ならばその人との間のカルマを清算するには義務を果たすことが適切だと思うのです。また犠牲とは、エゴや憎悪、プライドなどを出さずに自らが受けた何らかの害を身をもって受け止めるということ、行為の結果に執着せず必要な状況において手放すものを手放すということです。許しや無執着の類です。このような三つのレベルの汚れを取り除くのを助けて下さるのがシヴァ神です。私はシヴァ神は片付けの神様だと思ってオーム ナマ シヴァーヤというマントラを唱えたり書いたりすることがあります。

 

次にシヴォーハムというマントラについてです。シヴァである私(アハム)、つまり「私はシヴァである」という意味のマントラです。アハム ブラフマースミ(私はブラフマンである)と趣旨は同じです。シヴァ神と私という二元性ではなく、シヴァと私は一つという一元性について触れています。川が上流から流れていき河口において海と最終的に合流するその姿のことです。私とシヴァ神の区別がなくなります。私がシヴァ神に融合するのは、シヴァ神の御教えを実践してシヴァ神の性質を自らに取り入れる努力によってなされるでしょう。一方シヴァ神の側からの私(人間)をシヴァ自らと一つにさせようという作用もあります。たとえば私が食物を口にしてそれを噛み胃に送れば、それは消化されて体の隅々にまで食物のエッセンスは届けられます。それと同じように、シヴァ神は私たちを「食べて」います。自然界には食物連鎖というものがありますが、進化の頂点にある人間はシヴァ神によって食べられます。それは人生で出会うさまざまな苦痛のことです。普通に生きていて、何で自分がこんな目に合うのかと思うことはあるでしょうが、それはシヴァ神が私たち(のエゴ)を食べているのだと受け止めています。そしてそれを通じて私たちをシヴァご自身の一部にしようとしている、そういうこともあると思っています。この世のことは時間が解決してくれます。苦痛はいつかは過ぎ去ると思って耐え、喜びはそれによってこの世への執着を増すことのないように注意し、つまりはバガヴァドギーターにあるように苦楽を等しく見て平穏の内に生きるのがいいでしょう。

 

私は移り気なのかもしれませんが、さまざまなマントラを唱えたり書いたりしています。オーム ナマ シヴァーヤやシヴォーハムを唱えるとき、たとえば今回書いたようなことを思いながら唱えているわけです。これはやってみたことのない人にはわからないかもしれませんが、深い満足を与えてくれるサーダナの一つです。マントラをどう理解すればいいか最初はわからないかもしれませんが、マントラへの信仰がありさえすれば、マントラ自体がその意味を開示してくれるといわれています。自分に開示された意味が、自分の人生にとって最も有益な意味であり得ます。普通の言葉と比べて、マントラは唱えるさまざまな人に適した意味を開示してくれるからこそマントラなのです。

神道について2

 

前々回のブログの記事の中で「サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。」と書きました。これは私の偽らざる気持ちです。ここに、「いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。」とあります。伝統芸能ですとその多くは決まりきった様式や形式を踏襲しているのですが、人生というのは活きものですので、時代の風潮やかかわる人が変わってくると、それに応じた振る舞いを多少なりとも調整しなくてはなりません。「日々是新なれば日々是好日なり…」(松下幸之助)という言葉があるようですが、これは日々元旦のように新しい日であるならば、それはおめでたい一日だという理解ができるようです。日々新たであるならば、それに応じた新たな人生を心がけようともいえます。それを新たなダンスのステップと私は表現したわけです。

 

さて私は今年の正月に広島に行き神楽を初めてみてきました。かつて島根県を旅行した時に神楽の存在が身近であることを知り、最近になって広島県も同様に神楽が盛んであり、また伝統芸能にしては比較的手ごろな料金で楽しめることがわかったので、広島に行ってきました。私は一通り日本の伝統芸能のことを知っておきたいと思っており、歌舞伎や文楽を見に行ったことがあります。能・狂言はテレビでしか見たことがありません。能・狂言はその身体所作に感じるものはありますが、歌舞伎、文楽とともにある程度の知識もない私は、ただ見ただけでは理解できませんでした。しかしながら神楽は違いました。神楽は基本的に歌舞つまり歌(音楽)と舞です。現代のように物語に中毒するほど物語が氾濫している時代にあって、神楽のストーリー、物語性は極めてシンプルです。会場に入場する時に渡されたチラシに書かれていることを読んだだけで十分でした。45分くらいの公演における筋書きはほんの100字程度かもしれません。あとは音楽と舞を楽しむことに注がれました。これほどまでに物語性の負担を感じない芸能は初めてでした。新鮮な驚きです。そうであって、音楽と舞で十二分に楽しめます。私だけでなく、私の近くにいた、多分初めて見ただろう人の口からも「すごいな」という言葉がこぼれていました。

 

一説によると神楽は、岩戸に隠れたアマテラスオオミカミに岩戸から出てきてもらうようアメノウズメが舞った舞が起源だとのことです。それによって世界に光が再び差し救われたとされます。神楽は神道に関係があるといえます。神楽といえば宮崎の高千穂も有名ですし、島根県の岩見神楽も出雲から遠くはありません。さて、私はかつて「神道に教義はありません。ただ踊るだけです。」と神職の方が述べていたのを読んだことがあり、それがずいぶん心に残っていました。神道からすれば仏教や儒教は理屈が多いのでしょう。神道はあれやこれやと理屈はいわないという風にも理解できますが、しかしここで「踊る」というのがキーワードになってきます。先に私は日々新たなダンスのステップを習っているようだという言葉を取り上げましたが、結局のところ「ただ踊るだけです」というのはそういうことでもあると思うのです。神道といえば初詣ですが、新年を迎えた時のように清らかな心で新たな舞を習う、舞うということが肝要なのでしょう。

 

私にとっては、新たなダンスのステップを習うというのは全託と関係します。慣れていない初めての世界に飛び込むわけです。これこそが人生であるとはいえます。また、この世は神様が自ら芝居を演出し、自らが出演し、自らが見て楽しんでいる巨大な芝居だという意見もあります。ただ演じるだけ。それも神道でしょう。こう書くと底が浅い宗教のようではありますが、一生にわたってそれが可能であるためには、それなりの修練が求められるような気はします。かなりの程度の心の清らかさです。神道においてそれがどのようにして確保されているのかは知りませんが、「ただ踊るだけです」という指摘に忠実であろうとすれば、それなりに大変なところがあるように思えます。

神道について1

 

今日は神道について書いてみます。私のブログを神道で検索すればいくつかの記事は出てきますが、まともに神道について触れたのは約11年前のアマテラスや二宮尊徳を取り上げた記事だけかもしれません。日本における主な宗教は仏教と神道で、多くの人はともになじみがあるでしょうが、私は傾向として仏教系のところがあり、神道に強い関心はもってきませんでした。それでも日本で暮らしていますと、神道について考える機会は時にあります。今日はそれらについて簡単にまとめてみたいと思います。

 

多くの人はそうなのかもしれませんが、私は初参りの神社の氏子です。地方ではありますが都市部の神社でして、氏子ではありますが、氏子であることを実感したことはこれまで一度もありません。初詣などで通うことはありましたが、その程度です。後に農村部に住むことになり、そこで暮らしてみると、地域の方々が氏神様と強い関係があることを知りました。氏子であるということは、人によって程度は異なるかもしれませんが、生活にそれなりの影響をもたらしているように見受けられます。そもそも古代日本においては稲のもみを配ることによって朝廷は日本を支配したという意見を読んだことがありますが、米の生産と神社との間にはそれなりの関係があるのでしょう。農村部では今も神社が人々の生活により関係しています。

 

神社といえば神道であり、神道古事記などの神話と関係しています。古事記に出てくる神様と関係する神社は多いですが、一方で私の地方に多い八幡宮は外来文化とも関係があるように聞きます。人から聞いた話ですが、古代大陸の文化が九州北部にやってきた際に、古代日本の人はそれをどう受容するかという問題に直面しました。その問題に立ち向かった一つの拠点が英彦山だとされます。博多や北九州と英彦山は平地だけでなく山を通じてもつながっており、修験の地でありました。この英彦山で咀嚼されたものが花開いたのが、県境を越えた大分の宇佐や国東半島であったと聞きます。宇佐八幡宮八幡宮の総本山です。国東半島にはまだ行ったことはありませんが、古い時代の独特な文化が残っているようです。私は比較的英彦山に近いところに住んでいますので、英彦山や宇佐、国東半島の文化に関して今後少しでも学べたらと思っています。大陸との関係の深さは、もしかしたら出雲あたりも大きいでしょうし、しかしそちらに関してはほとんど知りません。

 

英彦山について触れましたが、神道山岳信仰の関係は重要な切り口だと思います。私は山歩きをしますので、山の中に神社があったり、小さな祠があるのをよく知っています。今はすたれていますが、50年前には信仰を生きる人たちが山にかかわっていたのを感じさせる遺構もあります。町中や農村部における神社に比べて、山の中では自然信仰の印象を一層受けます。私は山を歩いているときに感じる自然信仰にはかなりの共感があります。町における神道、農村部における神道、山における神道をみれば、神道が多くのものを包摂してきた歴史を感じます。神道は受容・包摂の宗教であるでしょう。

 

神社におけるご神体はさまざまでしょうが、よく見かけるのは鏡です。三種の神器の一つです。私は思うのですが、神道は鏡の宗教でもあると思います。神社に参ってお祈りをする際、私たちは鏡に向かって祈りを捧げています。鏡は私たちのその祈る姿を映し出します。鏡は私たちの姿と思いと言葉をそのまま私たちに示しているといえます。私たちが何かを祈ると、鏡はそのとおりでありますようにと応えているのかもしれません。私たちの心が清らかであれば、私たちはその清らかさの影響を受けるでしょうし、心が邪であるならば、また私たちはその影響を受けるでしょう。私たちの祈りが真摯なものであるならば、おそらく私たちはその祈りに沿った努力をなすと思います。祈りと異なる努力をなすならば、やはりそれにふさわしい結果になります。鏡はすべてを映し出します。祈ることで私たちは自分を知ることができますし、人生において何をなすべきかが明確になります。西洋では土地や金銭を資本としましたが、日本においては祈りこそが第一の資本です。

 

私はお寺にはかかわっているのですが、神社にはかかわっていません。神道には教義がないとも聞きますが、神社にかかわっていないので、多くを語ることはできません。神道の実際に関して語ることはできないにしろ、実はもう少し思うことはありますが、少し長くなるかもしれませんので、次回に続きを書きたいと思っています。

サイババのカースト

 

私はよく知りませんが、インドにはカーストというものがあります。それとは別にジャーティというものもあるようです。私が大雑把に知っているのは、カーストとは僧侶階級とか為政者階級とかそういうもので、ジャーティとは細かく分かれた職業集団のようなものだろうということです。インドには慣習としてそういうものが残っているのでしょうが、実際のところ世界中にそういうものがあります。日本もです。僧侶階級の人は多分僧侶階級どうして結婚することがまああるようですし、政治家の家系同士の結婚もあります。豊かなものは一般に豊かなものと結婚する傾向がありますし、庶民は庶民と結婚しています。政略結婚の場合当事者はどう思っているのかはわかりませんが、そもそも互いの文化を理解しあえる人を望むのは一般的なことです。職業集団に関しても、特定の職人さん同士は情報交換などで関わることが多いでしょうし、経営者たちの団体というのもあります。社会制度として厳密であるかどうかは別として、カーストやジャーティというものはおおむね世界中で見られます。生まれによる差別は望ましくありませんが、私は何らかの文化集団が文化を維持したり、文化を尊重すること自体は肯定できます。

 

さて今日のタイトルは「サイババカースト」です。サティヤサイババは肉体的なカーストクシャトリヤ階級(為政者の階級)だったようです。私はそういうことに大きな関心があるわけではありません。私が今サイババカーストというとき、それはブラーミン(僧侶階級)、クシャトリヤ(為政者階級)、ヴァイシャ(ビジネス階級)、シュードラ(一般人)のカーストとはまったく異なるものを指しています。ブラーミンなどのカーストは世俗、肉体に関係するものですが、サイババカーストを世俗とは離れた、つまり出世のありようとしてとらえたいのです。サイババの帰依者にはインド人だけでなく、世界各国の人たちがいます。大富豪もいれば著名な政治家もいますし、多くの聖者たちもサイババの帰依者です。もちろん数多くの一般人が彼に帰依しています。そういう意味で、サイババの帰依者集団はカーストを超えているのですが、一方でサイババの帰依者には共通する特徴というものもあります。たとえば毎日瞑想をしているというのも一つでしょう。人の目につくかどうかは別として霊的努力を日々重ねているというのも一つでしょう。長年帰依している人というのはほとんどの人が人当たりが柔らかいものです。不安を抱えておらず明るくポジティブな人が多いという特徴もあります。それはその人の肉体的属性、つまりカーストや国籍、性別、知的レベル、障がいの有無、宗教などに関係しません。

 

カーストは一つ、それは人類というカーストです。
言葉は一つ、それはハートの言葉です。
宗教は一つ、それは愛の宗教です。
神は一つ、それは遍在の神です。

 

というようなことをサイババはよくおっしゃいますが、このような特徴によって記述される社会集団がサイババカーストといえるものです。

 

インドのモディ首相はサイババの帰依者としてよく知られている方です。サイババになじみのない方にはピンときにくいかもしれませんが、サイババの帰依者がモディ氏の言葉を読んでいると特徴的な用語にピンとくることがあります。特に秘密にして隠しているわけではありません。ただどういう文脈でそれが語られているのか伝わってくるわけです。そういう意味では、私にとっては日本の有力者の言葉よりもモディ氏の言葉の方がより深く伝わることがあります。私はモディ氏とは直接的な関係はまったくありませんが、しかしそれでも伝わるものがある、それがいわゆるサイババカーストと呼びたいものです。

 

サイババカーストに属する人ならば、時につらさを感じることがあるにしろ、世間とサイババのはざまで選択を迫られたとき、サイババを選ぶものです。サイババを選ぶとはサイババの御教えを選ぶ、その存在に必死にしがみつくということです。サイババカーストに属する人は、サイババの仕事をします。家業を営んでいる家族の一員はその家業を手伝うようなものです。サイババの仕事とは会社の就業規則で明示されているようなものではありませんが、世俗の風向きとは関係なく、義務に携わり社会奉仕を行うということです。それが身についている人には体験的に理解できるものです。

 

サイババカーストに属する人はサイババが示す人生の目的を理解しており、それを念頭に日々生きています。少し困難ではあるにしろ、サイババを思いながら日々過ごし、すべての行為を捧げています。サイババカーストは僧侶階級のように人々を言葉で導いたり、社会に政治的効果をもたらしたり、富の拡大を第一義とはしていませんが、強いていえば愛を地球上に満たすような働きをもっているといえます。

 

サイババカーストに属する人が世界中にどのくらいいるのか私は知りません。いわゆるサイオーガニゼーションのメンバーとは異なると私は思っており、たとえば日本に数千人くらいいるかもしれず、あるいはほんの10人に少しばかりの程度かもしれません。誰がサイババカーストに属しているかを厳密に知っているのはサイババだけです。サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンスでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。

神の遺伝子

 

ここ最近、少し思うことがありました。全託に関連してですが、そもそも親鸞聖人も親鸞聖人なりに全託について語っているとも受け取れますから、真宗にも関係してきます。真宗といえば最近は新しい領解文が話題です。しかし私は新しい領解文に関してはよく思っていません。蓮如上人の領解文こそが真宗の領解文だと今でも思っていますので、領解文そのものに関連してではありませんが、蓮如上人の領解文から一部引用して今日は書きたいと思っています。私なりにアイデアが膨らんだものでして、蓮如上人のお考えの解釈というわけではありません。

 

―もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。

 

これは蓮如上人の領解文の前半です。ここにおいて「たのむ一念」という言葉が出てきます。人によりけりでしょうが、私は非常な苦しみあるいは困苦を経験してきましたので、何はさておき「たのむ」という言葉がもつ意味がそれとなく伝わってきます。もうあなたしかたのむ相手はいないと困窮極まった時の「たのむ」です。真宗ではこの「たのむ一念」のとき往生が定まるとされます。

 

真宗では阿弥陀様をたのみます。別に阿弥陀様でなくてもかまいません。経文類があるからそれをもとに真宗では阿弥陀様にたよるのが正当だとしているわけで、経文類がなくても、人は自分が最も愛するお方、御名をたのむことがあります。その場合でも理屈は同じだと思います。神仏は自らをたのむものを決して見捨てたりはしないでしょう。

 

さて私の場合ですと、にっちもさっちもいかなくなり、自分は病で普通並みの力がなく、どうにもならない状況にあったわけです。そこで私は私の愛するお方をたのむわけです。私がたよったお方は助けてくださいました。今も助けてくださっているでしょう。私がたより続けていくならば、今後も未来永劫にわたって助け面倒を見て下さるでしょう。私にはさまざまに欠けている部分が今もあるわけです。普通の人並みにやっていくにはかなりの困難を伴うわけです。しかしながらなぜだか何とか生活していくことができています。私に欠けている部分を私の愛するお方は補ってくださっている。そういう実感があります。欠けた部分がある私の存在とそれを補ってくださるお方との相互作用により、私の愛するお方の一部が私の一部になったわけです。つまり今現在の私は、ただの欠損のある私ではなく、私の愛するお方からある種臓器移植を受けたかのような、あるいは一種の生殖に似て愛するお方の遺伝子の一部が私の一部になったかのような状態にたとえることができます。

 

人は無機物から植物へ、植物から動物へ、動物から人間へと進化してきました。そして最後に人間は神仏に等しいものへと進化してその進化の旅を終えるといいます。人間から超越者(神仏)への進化の道はさまざまでありましょう。しかしながら、私のような何かが欠けた人間が進化を求めるならば、ただ「たのむ」「たよる」しか他にありません。私がたのんだ時、慈悲の御手が差し出され、その恩寵をありがたく受け取り、その恩寵を真に活かしたならば、私に欠けた部分は超越者の一部で補われ、私は彼の遺伝子を自らの内に取り入れることができます。これが帰依全託の道です。まったく正統ではありませんが、私なりの真宗理解の一解釈ともなりえましょう。

 

遺伝子が自らの一部となるとき、それは血のつながりがあるといいますが、そのように近しい関係を心の内に感じていなければなりません。人の中には、超越者とそのような関係があると感じている人が少しはいます。私の経験からいえば、それは真にたのんだ人こそが実感できるものです。もちろん先ほども述べたように他の道もあるわけですが、私には私のたどった道しか語りえないので、今日は参考までにそのことについて触れてみました。もし仮に私の遺伝子が彼のものですべて置き換わることがあるならば、それもモクシャ(解放)、融合とされるものでしょうが、人はこの道を検討してみる価値はあると思います。

明けましておめでとうございます2024

 

新年明けましておめでとうございます。読んで下さる方々にとって今年1年がさまざまに実り多い年でありますように。健康と平安の1年でありますように。私は今年もこのブログを少しずつ(2週間に1度)書き続けていくつもりでいます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

新年1番最初ですので、今年の目標を掲げたいと思います。が昨年やそれ以前から目標を掲げるのに1年は長すぎるような気がすることがあり、今年は半年毎に目標を考えてみたいと思います。今年前半の目標ですが、「マインドセットを定めるためにマントラの憶念を徹底する」にしました。今年前半と後半で憶念するマントラを変えるだけになるかもしれませんが、今日は今年前半に憶念するマントラについて書いてみます。

 

ところでマインドセットmindsetという言葉を私は数年前から目にしていました。インターネットを探せば複数のマインドセットの定義が出てきますが、例えば次のような定義があります。「ある人や集団の中で確立している思考様式,態度,価値観などのこと。」(Oxford languages)思考様式は人によってさまざまでしょうが、各人においては自分なりの思考のありようがほどほどにでも確かなものである方が好ましいはずです。いつも迷っている人、悩んでいる人というのはマインドセットが確かではない可能性があります。なぜならマインドセットが確かなら、ある事象や命題に対して肯定的か否定的かあるいはどちらともいえない微妙さがあるかはある程度短時間で判別できるだろうからです。さらに微妙なものとされるものも生活に支障をきたすほど多すぎないだろうからです。マインドの領域がある程度定型化されているということです。私はマインドセットが確かなものである方が好ましいと思います。それは私が最近関心をもっているエートスにも関係しますし、あるいは最近耳にしだしたライフスタンスという言葉にも関連がありそうだからです。肉体がある程度堅固であった方が好ましいように、マインドの型=マインドセットもほどほどにでも確かなものの方がよさそうです。

 

さてこのマインドセットですが、1度固まればもう変化しないかといえば、そういうこともないような気がしています。私には私のマインドセットがありますが、少しばかりそれに変化を加えてみたいという意味も今年の目標に含まれています。そのためにマントラの憶念に時間を注ぎます。マントラとは何かという問題はありますが、現時点で私にとって正統なマントラヴェーダマントラサイババの御言葉と定義しておきます。他にも定義は可能です。すべての言葉がマントラであると受け取ることもできます。それをマントラとして扱いさえすれば。マントラはマン=マナス=頭脳をトラ=保護するもののことです。もし自分にとってある言葉がそういうたぐいのものであるならば、それはその人にとってマントラなのかもしれません。特定の宗教の信者であるならば、その宗教の聖典の言葉もマントラになりうるでしょう。

 

さて、今年前半はどのようなマントラを憶念しようかと考えましたが、今年前半は次の3つを意識的に時間をかけて憶念しようと思います。
1.「働きなさい。なぜならあなたは働くことを愛しているからです。」
2.「time waste is life waste. energy waste is life waste.(時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。エネルギーを無駄にすることは人生を無駄にすることです。)」
3.「サーダナ(霊性修行)をしなさい。」
この3つです。1と3は厳密にサイババの言葉ですが、2は前半はサイババの言葉ですが、後半は定かではありません。ただ趣旨としてはサイババがいわれていることです。

 

私が選んだマントラはかなりシンプルですが、マントラはこういうものでいいと思うのです。このようにシンプルなものであっても、憶念していればいくつもの意味の流れがそこから湧き出てきます。だからこそマントラなのですが。私がほんの少しでも創造的であるとしたならば、こういうマントラを中途半端にでもこれまで唱えてきたからです。バーラタにはヴェーダに命を懸けている人がたくさんいます。ガヤトリーマントラのみを頼って生きている霊的な集団があると聞いたことがあります。マントラというのはとても奥深いものです。

 

私はこの記事を年が明けてから書いていますが、もうすでに少しばかりこれらのマントラを唱えることを始めています。できるだけ誠実に唱え続け、そして半年後にどのようなことを感じているか、機会があればこのブログで書きたいと思います。

 

どうぞ皆様も霊的な人生を成就に向かって歩まれますように。

今年2023年の振り返り

 

これが今年最後のブログ記事になります。ですので、1年を振り返りたいと思います。ただその前にこれを公開する12月25日はクリスマスですので、それに関連したことを少し書いておきたいと思います。クリスマスはイエスが生まれた日です。イエスユダヤ人だったようですが、生まれたのはパレスチナの地だったのでしょう。今現在紛争が起こっている地域です。イエスユダヤ人ではありますが、ユダヤ人たちに殺されました。イスラエルユダヤ人たちの国であり、そしてパレスチナ人たちはその発端が彼らの一部の人のテロであったのは確かであれ、少なくとも数においてはユダヤ人たちにより多く殺されています。そういう意味でどことなく今起こっている紛争はイエスを思い起こさせるのです。クリスマスには世界中の何十億人もの人たちがイエスの降誕をお祝いするでしょう。しかしもし真にお祝いするのであれば、イエスの愛や犠牲を思わなければなりません。日本人の多くはクリスチャンではないでしょう。なので宗教心を伴ってクリスマスを迎えてはいないのはそれでいいのですが、イエスはほんの一人の人間の命すら大切にされた方ですので、今の世界の現状はイエスの理想から遠く離れていることの自覚は必要です。本来はクリスチャンたちがこのことを深く理解しなければならないでしょうが、世界の一市民として、宗教から離れた立場ではありますが、日本人も遠い他国のこととしてでなく、同じ人間である虐げられた方々を思っていい日だと思います。遠い地から少しばかり祈ることしかできないのかもしれませんが。

 

さて、今年の振り返りです。今年の年頭に立てた目標は「恩寵を生きる」でした。2つの意味がありました。一つは今与えられている恩寵を大切にすること。もう一つは恩寵を祈り求めて人生を切り開いていくということでした。正直に書きますと、この1年この目標がいつも頭にあったわけではありませんが、振り返ってみますに、おおむね目標に沿った1年だったかなと思います。健康や富、食料、時間などをそれほどは無駄にすることなく、多少なりとも価値のある活動に携わることができたでしょうし、恩寵を無駄にしてしまったという後悔の念がわいてくることもありません。また人生を新たに切り開いていけるような恩寵を強く求めたかといえば、そうではなかったかもしれませんが、それでもこの1年を経たおかげで少なくとも今後5年くらいの見通しが得られてきましたので、今後も前進し続けることができそうだという感触はあります。これもひとえにご守護お導きを与えてくださっているお方のおかげです。感謝申し上げます。

 

今年も残りあと1週間ほどですが、最低限の掃除などをやってしまい、新たな年を迎えたいと思っております。このブログの一部でも読んで下さった方々にも感謝申し上げます。また皆様方が平穏な良い年末年始を迎えられますことを願っています。来年以降もブログは続けるつもりでおります。2週間に1度の更新で、今は月曜日に記事を公開しておりますが、来年は木曜日に公開しようかと思っております。次回は1月4日木曜日に公開の予定です。皆様が健康でお幸せでありますように。

2人に影響を与え10人を助ける

 

人によってはサイババの著書や御講和を読んでいると気づまりを感じることがあるかもしれません。高尚なことがたくさん書いてあるし、どの一つであっても生活に取り入れるのが難しく感じてしまいます。かつての私がそうでしたから。どの御言葉も誠実に受け入れなければならないのですが、実際に取り入れることのできるものはほんの少しで精一杯です。今は私は日々の義務を誠実に果たすことがサイババの御教えの95%くらいを占めているように感じています。義務を実践する上での障害を取り除いたり、どのような態度で義務を果たせばいいのかを参照するのに御言葉などに目を通しています。当たり前のことを当たり前に果たすということです。その生活の質を上げていけば人生はいいのでしょうが、それとは別にサイババにまつわる特有の使命に関係したいというのであるならば、それは奉仕ということになります。奉仕自体は人間の義務に含まれていますが、サイババは奉仕を単なる義務以上のものとしてさまざまに解説してくださっています。

 

1993年のsanathana sarathiに「帰依者一人ひとりが、それぞれ二人の人に影響を与えることができたなら、すぐに全世界が改善されるでしょう。」(『サイの理想』171p)とあります。この言葉とは別に、どこで読んだかは忘れましたが、「私は10人の人を助けよう、と決意しなさい」というようなニュアンスのことをおっしゃっていたような気がします。私は何かを読むときにブログで何かを書くことを前提として読んでいませんので、気になる言葉があってもそれを出典とともにメモしたりすることがありません。私の記憶に保存されるだけで、その記憶も時間とともに変容を被っている可能性は否定できません。それは承知しておいていただけたらと思います。今日書きたいのは、2人の人に影響を与え、10人の人を助けるということについてです。

 

まずは2人の人に影響を与えるということに関してです。一般的にはあの本がおもしろかったと人に紹介し、その人がその本を買って読んだとしたならば、わずかながらでもその人に影響を与えたといえなくもありません。自分の何らかの働きかけがその人に何らかの行動を促したのです。ならば、帰依者が人に影響を与えるとはどういうことでしょうか? ある人が何かあるいは誰かに帰依していて、その帰依の姿やありようが他の人を感化するということです。たとえばその帰依者の生きざまが、それを見る人にとって理想のようなものに映り、その生き方を手本にしようと思い、実際にその人の行動に変容が生じていたならば、帰依者が他の人に影響を与えたといえるかもしれません。私は30年ほど前に青山圭秀氏の本を読んでサイババのことを知りました。それによって私の人生は変わりました。私は青山氏に感謝しています。彼が自分をどう思っているかは知りませんが、しかし少なくとも私から見て彼がサイババあるいは何かの帰依者であるかはわかりません。特にその後の彼の著書を見ているとです。なので私は彼が帰依者として私に影響を与えたのかはわからないといえます。他にもその人が誰かあるいは何かの帰依者であるとは限らず、10人はいないとしても私に影響を与えた人はいます。帰依者が誰か他の人に影響を与えるということがどういうことなのかわかりにくいところはありますが、私は自分が帰依するお方の御教えをできる限り生活に取り入れることによって、そのこと自体が誰かに影響を与えることがあればいいなとは思っています。人生80年としてその間に2人の人に影響を与えればいいのですから焦ることはありませんが、しかしそう簡単なことではないことも分かっています。

 

次に10人の人を助けることに関してです。私はこれまで気持ち程度といっていいものですがホームレスの方に食事を捧げたことはあります。延べ人数は何百人かはいるかもしれません。そのホームレスの人が1日の飢えを満たす助けはしたといえるかもしれませんが、この程度の助けは何らかの形で多くの人が行っているものです。親は子の養育を20年近くはします。20年間の世話によって子は自立した人間になるかもしれません。それは明らかに助けといっていいものでしょう。子が老親に気を配り、その老親が安らかな死を迎えることができたとしたら、親から受けた恩はなかなか返せるものではありませんが、それでも何らかの助けであったといえるかもしれません。少なくとも助けというとき、その程度のことは念頭に置いておきたいと私個人は思うのですが、その程度の助けを10人の人に行うことができるかといえば、できるかもしれないし、結構難しいものといえるかもしれません。医師という職業についている幸運な方は、その医術によって多くの人を助けることができるかもしれません。ふさわしい教師も、その何十年にもわたるキャリアの中で何十人かの人に対して十分な程度生きる準備を与え助けたといえそうです。特別優れた技能がない一般の人にとっては、誠実な職業生活が自らが属する組織を支え、その組織を通じて社会に善をもたらすこともできるでしょう。

 

私は重い病気を少なくとも二つは経験しているので最低二人の医師に助けられてはいます。幼いころに小さな路地の交差点に飛び出してもう少しで車にひかれる危険な状況がありましたが、運転手の方の誠実な運転のおかげで命拾いをしました。特定の一人の名前を挙げることはできませんが、毎日食料を購入し食事を得られているのも誰かの助けのおかげです。私は少しばかり行政の制度を利用していますが、それもこれまでの政治家や行政関係者の方々のおかげです。もちろん親にも恩を受けています。他にも思い起こせば多くの人に助けられていることがわかると思います。そういう程度に私は人を助けることができているだろうか?と自問するならば、10人の人を助けることは一生の仕事といえます。

 

サイババの御教えに限らず、ほとんどの宗教の御教えというのは、当たり前の生活を日々送りなさい、そして時間やお金に余裕があるならば少しばかり他の人を助けなさい、というところに集約されると思うのです。もちろん人生の究極の目的は忘れてはいけませんが、日常生活においてはこのことを頭に入れておけばほぼ十分な気はします。私は「2人の人に影響を与え、10人の人を助けること」がかねてから頭にあったので、それ以上のことをあまり目指すことはありませんでした。若いころは少し頭が肥大していましたが、それも今の年齢となってはかなりの程度落ち着いています。ありがたいことです。

ヤグニャの場としての身体

今日は少しばかりマニアックなことを書くかもしれません。日本の護摩に似ているヤグニャというものがインドで行われます。私も詳しいことは知りませんが、火に捧げものを捧げ繁栄や平和などを祈る儀式のようなものです。火に捧げられたものは火によって焼かれ、そのエッセンスが火の神アグニによって適切なところに運ばれます。アグニは郵便配達人のような存在だそうです。私たち人間の肉眼では見えませんが、神々の世界における何らかのやり取りに関係する儀式です。

 

さて話は少し変わりますが、生きている人間は健康であるならば、体の枠組みがある程度カチッと保たれており、意識も心(マインド)も堅固であるものです。健康が奪われたり死期が近づくと体がもろく感じられるようになり、意識がもうろうとしてきたりもしますが、基本的に体や心の枠組みはそれを超越することはほぼ無理と思えるほど固く定められたものです。私はこの体と心の枠組みはある種の護摩壇のようなものではないかと思うのです。

 

プルシャスークタムというヴェーダマントラがありますが、それはプルシャが自らを護摩壇への捧げものとしてささげ、この世界を創造したというような内容です。その中に、地球ができた後にプルシャが捧げものとなったとあります。人によって思うことは異なるかもしれませんが、私はこれを「地球はヤグニャのための星」であると理解しました。この広大な宇宙において地球は特異な存在ですが、その特異性はヤグニャによって象徴されるのではないかと。もしそうであるならば、地球に存在するものにとってなすべきことはプルシャを見習ってヤグニャをなすことです。つまり犠牲を払うことです。人間の体と心の枠組みが強固であることはこのためであろうと思うのです。

 

人間にとってヤグニャとは何でしょうか? 私は食事の際にギータの詩節を唱えます。「ブランマールパナム ブランマーハヴィール ブランマーグノー ブランマナフタム ブランマイヴァテーナガンタヴィヤム ブランマカルマサマーディナー」(捧げる行為はブラフマンであり、捧げもの自体もブラフマンです。ブラフマンによってブラフマンである火に捧げられます。フラフマンに捧げものを捧げ続けるものはついにフラフマンに到達するでしょう。)という内容です。これは食物を口から摂取しますが、その食物を胃に運びそこにある消化の火に捧げものを捧げているという意味になります。つまり食事はヤグニャなのです。私はそうして摂取した食物のエネルギーによって行われる日々の活動自体もヤグニャだと理解して、すべての行動を最終的に神に捧げるようにしています。

 

いわゆる食物だけでなく、目や耳などから受け取るものも五感が受け取る食物です。それらは主に心(マインド)によって咀嚼され理解され、行動器官(手足など)による活動へ導かれます。これもヤグニャでしょう。頭脳は大きなエネルギーを消費すると聞きます。例えば知恵熱という言葉がありますが、感覚器官を通じてとり入れられたものは火に注がれるに似ています。つまりは人間の活動というものはすべてがヤグニャであるとみなすことができるわけです。

 

インドにおけるヤグニャのみならず、日本において行われる護摩のことも私はよく理解していません。しかし何かを火に捧げる際には清らかなものが捧げられるでしょうし、それが燃やされていきつく先はどこであれ尊い理想をもって念じられる場所のはずです。人間の心身の枠組みは堅固ですが、それは一生をヤグニャに捧げるためのもののはず。心身は常に火で焼かれており、若いときはなかなか気づきにくくはありますが、少しずつ弱り老化していきます。最終的にわずかばかりの灰=ヴィブーティ(英知、恩寵)が得られれば、それが人生のすべてです。灰以外のものは、世界によって活用されればそれで十分なのだと思います。

 

今はなかなか焚火をする機会はありませんが、火を燃やすとき一度にたくさんのものをくべれば火は消えてしまいます。少しずつ薪を加えていけば長く火を焚くことができます。人生も体と心に浸透する火を消さないようにゆっくり歩むのがいいと思います。体と心に火が燃え盛っているとき、その人は若さを保ち輝いて見えるでしょう。インドにはtejas(輝き、活力)という言葉がありますが、時に存在の輝きが光って見える人に出くわすものです。そういう方々は、ヤグニャの場としての身体をその目的に沿って上手に活用されているのだろう、つまりは犠牲の人生を歩んでいる方であろうと思うのです。