神道について2

 

前々回のブログの記事の中で「サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。」と書きました。これは私の偽らざる気持ちです。ここに、「いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。」とあります。伝統芸能ですとその多くは決まりきった様式や形式を踏襲しているのですが、人生というのは活きものですので、時代の風潮やかかわる人が変わってくると、それに応じた振る舞いを多少なりとも調整しなくてはなりません。「日々是新なれば日々是好日なり…」(松下幸之助)という言葉があるようですが、これは日々元旦のように新しい日であるならば、それはおめでたい一日だという理解ができるようです。日々新たであるならば、それに応じた新たな人生を心がけようともいえます。それを新たなダンスのステップと私は表現したわけです。

 

さて私は今年の正月に広島に行き神楽を初めてみてきました。かつて島根県を旅行した時に神楽の存在が身近であることを知り、最近になって広島県も同様に神楽が盛んであり、また伝統芸能にしては比較的手ごろな料金で楽しめることがわかったので、広島に行ってきました。私は一通り日本の伝統芸能のことを知っておきたいと思っており、歌舞伎や文楽を見に行ったことがあります。能・狂言はテレビでしか見たことがありません。能・狂言はその身体所作に感じるものはありますが、歌舞伎、文楽とともにある程度の知識もない私は、ただ見ただけでは理解できませんでした。しかしながら神楽は違いました。神楽は基本的に歌舞つまり歌(音楽)と舞です。現代のように物語に中毒するほど物語が氾濫している時代にあって、神楽のストーリー、物語性は極めてシンプルです。会場に入場する時に渡されたチラシに書かれていることを読んだだけで十分でした。45分くらいの公演における筋書きはほんの100字程度かもしれません。あとは音楽と舞を楽しむことに注がれました。これほどまでに物語性の負担を感じない芸能は初めてでした。新鮮な驚きです。そうであって、音楽と舞で十二分に楽しめます。私だけでなく、私の近くにいた、多分初めて見ただろう人の口からも「すごいな」という言葉がこぼれていました。

 

一説によると神楽は、岩戸に隠れたアマテラスオオミカミに岩戸から出てきてもらうようアメノウズメが舞った舞が起源だとのことです。それによって世界に光が再び差し救われたとされます。神楽は神道に関係があるといえます。神楽といえば宮崎の高千穂も有名ですし、島根県の岩見神楽も出雲から遠くはありません。さて、私はかつて「神道に教義はありません。ただ踊るだけです。」と神職の方が述べていたのを読んだことがあり、それがずいぶん心に残っていました。神道からすれば仏教や儒教は理屈が多いのでしょう。神道はあれやこれやと理屈はいわないという風にも理解できますが、しかしここで「踊る」というのがキーワードになってきます。先に私は日々新たなダンスのステップを習っているようだという言葉を取り上げましたが、結局のところ「ただ踊るだけです」というのはそういうことでもあると思うのです。神道といえば初詣ですが、新年を迎えた時のように清らかな心で新たな舞を習う、舞うということが肝要なのでしょう。

 

私にとっては、新たなダンスのステップを習うというのは全託と関係します。慣れていない初めての世界に飛び込むわけです。これこそが人生であるとはいえます。また、この世は神様が自ら芝居を演出し、自らが出演し、自らが見て楽しんでいる巨大な芝居だという意見もあります。ただ演じるだけ。それも神道でしょう。こう書くと底が浅い宗教のようではありますが、一生にわたってそれが可能であるためには、それなりの修練が求められるような気はします。かなりの程度の心の清らかさです。神道においてそれがどのようにして確保されているのかは知りませんが、「ただ踊るだけです」という指摘に忠実であろうとすれば、それなりに大変なところがあるように思えます。

神道について1

 

今日は神道について書いてみます。私のブログを神道で検索すればいくつかの記事は出てきますが、まともに神道について触れたのは約11年前のアマテラスや二宮尊徳を取り上げた記事だけかもしれません。日本における主な宗教は仏教と神道で、多くの人はともになじみがあるでしょうが、私は傾向として仏教系のところがあり、神道に強い関心はもってきませんでした。それでも日本で暮らしていますと、神道について考える機会は時にあります。今日はそれらについて簡単にまとめてみたいと思います。

 

多くの人はそうなのかもしれませんが、私は初参りの神社の氏子です。地方ではありますが都市部の神社でして、氏子ではありますが、氏子であることを実感したことはこれまで一度もありません。初詣などで通うことはありましたが、その程度です。後に農村部に住むことになり、そこで暮らしてみると、地域の方々が氏神様と強い関係があることを知りました。氏子であるということは、人によって程度は異なるかもしれませんが、生活にそれなりの影響をもたらしているように見受けられます。そもそも古代日本においては稲のもみを配ることによって朝廷は日本を支配したという意見を読んだことがありますが、米の生産と神社との間にはそれなりの関係があるのでしょう。農村部では今も神社が人々の生活により関係しています。

 

神社といえば神道であり、神道古事記などの神話と関係しています。古事記に出てくる神様と関係する神社は多いですが、一方で私の地方に多い八幡宮は外来文化とも関係があるように聞きます。人から聞いた話ですが、古代大陸の文化が九州北部にやってきた際に、古代日本の人はそれをどう受容するかという問題に直面しました。その問題に立ち向かった一つの拠点が英彦山だとされます。博多や北九州と英彦山は平地だけでなく山を通じてもつながっており、修験の地でありました。この英彦山で咀嚼されたものが花開いたのが、県境を越えた大分の宇佐や国東半島であったと聞きます。宇佐八幡宮八幡宮の総本山です。国東半島にはまだ行ったことはありませんが、古い時代の独特な文化が残っているようです。私は比較的英彦山に近いところに住んでいますので、英彦山や宇佐、国東半島の文化に関して今後少しでも学べたらと思っています。大陸との関係の深さは、もしかしたら出雲あたりも大きいでしょうし、しかしそちらに関してはほとんど知りません。

 

英彦山について触れましたが、神道山岳信仰の関係は重要な切り口だと思います。私は山歩きをしますので、山の中に神社があったり、小さな祠があるのをよく知っています。今はすたれていますが、50年前には信仰を生きる人たちが山にかかわっていたのを感じさせる遺構もあります。町中や農村部における神社に比べて、山の中では自然信仰の印象を一層受けます。私は山を歩いているときに感じる自然信仰にはかなりの共感があります。町における神道、農村部における神道、山における神道をみれば、神道が多くのものを包摂してきた歴史を感じます。神道は受容・包摂の宗教であるでしょう。

 

神社におけるご神体はさまざまでしょうが、よく見かけるのは鏡です。三種の神器の一つです。私は思うのですが、神道は鏡の宗教でもあると思います。神社に参ってお祈りをする際、私たちは鏡に向かって祈りを捧げています。鏡は私たちのその祈る姿を映し出します。鏡は私たちの姿と思いと言葉をそのまま私たちに示しているといえます。私たちが何かを祈ると、鏡はそのとおりでありますようにと応えているのかもしれません。私たちの心が清らかであれば、私たちはその清らかさの影響を受けるでしょうし、心が邪であるならば、また私たちはその影響を受けるでしょう。私たちの祈りが真摯なものであるならば、おそらく私たちはその祈りに沿った努力をなすと思います。祈りと異なる努力をなすならば、やはりそれにふさわしい結果になります。鏡はすべてを映し出します。祈ることで私たちは自分を知ることができますし、人生において何をなすべきかが明確になります。西洋では土地や金銭を資本としましたが、日本においては祈りこそが第一の資本です。

 

私はお寺にはかかわっているのですが、神社にはかかわっていません。神道には教義がないとも聞きますが、神社にかかわっていないので、多くを語ることはできません。神道の実際に関して語ることはできないにしろ、実はもう少し思うことはありますが、少し長くなるかもしれませんので、次回に続きを書きたいと思っています。

サイババのカースト

 

私はよく知りませんが、インドにはカーストというものがあります。それとは別にジャーティというものもあるようです。私が大雑把に知っているのは、カーストとは僧侶階級とか為政者階級とかそういうもので、ジャーティとは細かく分かれた職業集団のようなものだろうということです。インドには慣習としてそういうものが残っているのでしょうが、実際のところ世界中にそういうものがあります。日本もです。僧侶階級の人は多分僧侶階級どうして結婚することがまああるようですし、政治家の家系同士の結婚もあります。豊かなものは一般に豊かなものと結婚する傾向がありますし、庶民は庶民と結婚しています。政略結婚の場合当事者はどう思っているのかはわかりませんが、そもそも互いの文化を理解しあえる人を望むのは一般的なことです。職業集団に関しても、特定の職人さん同士は情報交換などで関わることが多いでしょうし、経営者たちの団体というのもあります。社会制度として厳密であるかどうかは別として、カーストやジャーティというものはおおむね世界中で見られます。生まれによる差別は望ましくありませんが、私は何らかの文化集団が文化を維持したり、文化を尊重すること自体は肯定できます。

 

さて今日のタイトルは「サイババカースト」です。サティヤサイババは肉体的なカーストクシャトリヤ階級(為政者の階級)だったようです。私はそういうことに大きな関心があるわけではありません。私が今サイババカーストというとき、それはブラーミン(僧侶階級)、クシャトリヤ(為政者階級)、ヴァイシャ(ビジネス階級)、シュードラ(一般人)のカーストとはまったく異なるものを指しています。ブラーミンなどのカーストは世俗、肉体に関係するものですが、サイババカーストを世俗とは離れた、つまり出世のありようとしてとらえたいのです。サイババの帰依者にはインド人だけでなく、世界各国の人たちがいます。大富豪もいれば著名な政治家もいますし、多くの聖者たちもサイババの帰依者です。もちろん数多くの一般人が彼に帰依しています。そういう意味で、サイババの帰依者集団はカーストを超えているのですが、一方でサイババの帰依者には共通する特徴というものもあります。たとえば毎日瞑想をしているというのも一つでしょう。人の目につくかどうかは別として霊的努力を日々重ねているというのも一つでしょう。長年帰依している人というのはほとんどの人が人当たりが柔らかいものです。不安を抱えておらず明るくポジティブな人が多いという特徴もあります。それはその人の肉体的属性、つまりカーストや国籍、性別、知的レベル、障がいの有無、宗教などに関係しません。

 

カーストは一つ、それは人類というカーストです。
言葉は一つ、それはハートの言葉です。
宗教は一つ、それは愛の宗教です。
神は一つ、それは遍在の神です。

 

というようなことをサイババはよくおっしゃいますが、このような特徴によって記述される社会集団がサイババカーストといえるものです。

 

インドのモディ首相はサイババの帰依者としてよく知られている方です。サイババになじみのない方にはピンときにくいかもしれませんが、サイババの帰依者がモディ氏の言葉を読んでいると特徴的な用語にピンとくることがあります。特に秘密にして隠しているわけではありません。ただどういう文脈でそれが語られているのか伝わってくるわけです。そういう意味では、私にとっては日本の有力者の言葉よりもモディ氏の言葉の方がより深く伝わることがあります。私はモディ氏とは直接的な関係はまったくありませんが、しかしそれでも伝わるものがある、それがいわゆるサイババカーストと呼びたいものです。

 

サイババカーストに属する人ならば、時につらさを感じることがあるにしろ、世間とサイババのはざまで選択を迫られたとき、サイババを選ぶものです。サイババを選ぶとはサイババの御教えを選ぶ、その存在に必死にしがみつくということです。サイババカーストに属する人は、サイババの仕事をします。家業を営んでいる家族の一員はその家業を手伝うようなものです。サイババの仕事とは会社の就業規則で明示されているようなものではありませんが、世俗の風向きとは関係なく、義務に携わり社会奉仕を行うということです。それが身についている人には体験的に理解できるものです。

 

サイババカーストに属する人はサイババが示す人生の目的を理解しており、それを念頭に日々生きています。少し困難ではあるにしろ、サイババを思いながら日々過ごし、すべての行為を捧げています。サイババカーストは僧侶階級のように人々を言葉で導いたり、社会に政治的効果をもたらしたり、富の拡大を第一義とはしていませんが、強いていえば愛を地球上に満たすような働きをもっているといえます。

 

サイババカーストに属する人が世界中にどのくらいいるのか私は知りません。いわゆるサイオーガニゼーションのメンバーとは異なると私は思っており、たとえば日本に数千人くらいいるかもしれず、あるいはほんの10人に少しばかりの程度かもしれません。誰がサイババカーストに属しているかを厳密に知っているのはサイババだけです。サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンスでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。

神の遺伝子

 

ここ最近、少し思うことがありました。全託に関連してですが、そもそも親鸞聖人も親鸞聖人なりに全託について語っているとも受け取れますから、真宗にも関係してきます。真宗といえば最近は新しい領解文が話題です。しかし私は新しい領解文に関してはよく思っていません。蓮如上人の領解文こそが真宗の領解文だと今でも思っていますので、領解文そのものに関連してではありませんが、蓮如上人の領解文から一部引用して今日は書きたいと思っています。私なりにアイデアが膨らんだものでして、蓮如上人のお考えの解釈というわけではありません。

 

―もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。

 

これは蓮如上人の領解文の前半です。ここにおいて「たのむ一念」という言葉が出てきます。人によりけりでしょうが、私は非常な苦しみあるいは困苦を経験してきましたので、何はさておき「たのむ」という言葉がもつ意味がそれとなく伝わってきます。もうあなたしかたのむ相手はいないと困窮極まった時の「たのむ」です。真宗ではこの「たのむ一念」のとき往生が定まるとされます。

 

真宗では阿弥陀様をたのみます。別に阿弥陀様でなくてもかまいません。経文類があるからそれをもとに真宗では阿弥陀様にたよるのが正当だとしているわけで、経文類がなくても、人は自分が最も愛するお方、御名をたのむことがあります。その場合でも理屈は同じだと思います。神仏は自らをたのむものを決して見捨てたりはしないでしょう。

 

さて私の場合ですと、にっちもさっちもいかなくなり、自分は病で普通並みの力がなく、どうにもならない状況にあったわけです。そこで私は私の愛するお方をたのむわけです。私がたよったお方は助けてくださいました。今も助けてくださっているでしょう。私がたより続けていくならば、今後も未来永劫にわたって助け面倒を見て下さるでしょう。私にはさまざまに欠けている部分が今もあるわけです。普通の人並みにやっていくにはかなりの困難を伴うわけです。しかしながらなぜだか何とか生活していくことができています。私に欠けている部分を私の愛するお方は補ってくださっている。そういう実感があります。欠けた部分がある私の存在とそれを補ってくださるお方との相互作用により、私の愛するお方の一部が私の一部になったわけです。つまり今現在の私は、ただの欠損のある私ではなく、私の愛するお方からある種臓器移植を受けたかのような、あるいは一種の生殖に似て愛するお方の遺伝子の一部が私の一部になったかのような状態にたとえることができます。

 

人は無機物から植物へ、植物から動物へ、動物から人間へと進化してきました。そして最後に人間は神仏に等しいものへと進化してその進化の旅を終えるといいます。人間から超越者(神仏)への進化の道はさまざまでありましょう。しかしながら、私のような何かが欠けた人間が進化を求めるならば、ただ「たのむ」「たよる」しか他にありません。私がたのんだ時、慈悲の御手が差し出され、その恩寵をありがたく受け取り、その恩寵を真に活かしたならば、私に欠けた部分は超越者の一部で補われ、私は彼の遺伝子を自らの内に取り入れることができます。これが帰依全託の道です。まったく正統ではありませんが、私なりの真宗理解の一解釈ともなりえましょう。

 

遺伝子が自らの一部となるとき、それは血のつながりがあるといいますが、そのように近しい関係を心の内に感じていなければなりません。人の中には、超越者とそのような関係があると感じている人が少しはいます。私の経験からいえば、それは真にたのんだ人こそが実感できるものです。もちろん先ほども述べたように他の道もあるわけですが、私には私のたどった道しか語りえないので、今日は参考までにそのことについて触れてみました。もし仮に私の遺伝子が彼のものですべて置き換わることがあるならば、それもモクシャ(解放)、融合とされるものでしょうが、人はこの道を検討してみる価値はあると思います。

明けましておめでとうございます2024

 

新年明けましておめでとうございます。読んで下さる方々にとって今年1年がさまざまに実り多い年でありますように。健康と平安の1年でありますように。私は今年もこのブログを少しずつ(2週間に1度)書き続けていくつもりでいます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

新年1番最初ですので、今年の目標を掲げたいと思います。が昨年やそれ以前から目標を掲げるのに1年は長すぎるような気がすることがあり、今年は半年毎に目標を考えてみたいと思います。今年前半の目標ですが、「マインドセットを定めるためにマントラの憶念を徹底する」にしました。今年前半と後半で憶念するマントラを変えるだけになるかもしれませんが、今日は今年前半に憶念するマントラについて書いてみます。

 

ところでマインドセットmindsetという言葉を私は数年前から目にしていました。インターネットを探せば複数のマインドセットの定義が出てきますが、例えば次のような定義があります。「ある人や集団の中で確立している思考様式,態度,価値観などのこと。」(Oxford languages)思考様式は人によってさまざまでしょうが、各人においては自分なりの思考のありようがほどほどにでも確かなものである方が好ましいはずです。いつも迷っている人、悩んでいる人というのはマインドセットが確かではない可能性があります。なぜならマインドセットが確かなら、ある事象や命題に対して肯定的か否定的かあるいはどちらともいえない微妙さがあるかはある程度短時間で判別できるだろうからです。さらに微妙なものとされるものも生活に支障をきたすほど多すぎないだろうからです。マインドの領域がある程度定型化されているということです。私はマインドセットが確かなものである方が好ましいと思います。それは私が最近関心をもっているエートスにも関係しますし、あるいは最近耳にしだしたライフスタンスという言葉にも関連がありそうだからです。肉体がある程度堅固であった方が好ましいように、マインドの型=マインドセットもほどほどにでも確かなものの方がよさそうです。

 

さてこのマインドセットですが、1度固まればもう変化しないかといえば、そういうこともないような気がしています。私には私のマインドセットがありますが、少しばかりそれに変化を加えてみたいという意味も今年の目標に含まれています。そのためにマントラの憶念に時間を注ぎます。マントラとは何かという問題はありますが、現時点で私にとって正統なマントラヴェーダマントラサイババの御言葉と定義しておきます。他にも定義は可能です。すべての言葉がマントラであると受け取ることもできます。それをマントラとして扱いさえすれば。マントラはマン=マナス=頭脳をトラ=保護するもののことです。もし自分にとってある言葉がそういうたぐいのものであるならば、それはその人にとってマントラなのかもしれません。特定の宗教の信者であるならば、その宗教の聖典の言葉もマントラになりうるでしょう。

 

さて、今年前半はどのようなマントラを憶念しようかと考えましたが、今年前半は次の3つを意識的に時間をかけて憶念しようと思います。
1.「働きなさい。なぜならあなたは働くことを愛しているからです。」
2.「time waste is life waste. energy waste is life waste.(時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。エネルギーを無駄にすることは人生を無駄にすることです。)」
3.「サーダナ(霊性修行)をしなさい。」
この3つです。1と3は厳密にサイババの言葉ですが、2は前半はサイババの言葉ですが、後半は定かではありません。ただ趣旨としてはサイババがいわれていることです。

 

私が選んだマントラはかなりシンプルですが、マントラはこういうものでいいと思うのです。このようにシンプルなものであっても、憶念していればいくつもの意味の流れがそこから湧き出てきます。だからこそマントラなのですが。私がほんの少しでも創造的であるとしたならば、こういうマントラを中途半端にでもこれまで唱えてきたからです。バーラタにはヴェーダに命を懸けている人がたくさんいます。ガヤトリーマントラのみを頼って生きている霊的な集団があると聞いたことがあります。マントラというのはとても奥深いものです。

 

私はこの記事を年が明けてから書いていますが、もうすでに少しばかりこれらのマントラを唱えることを始めています。できるだけ誠実に唱え続け、そして半年後にどのようなことを感じているか、機会があればこのブログで書きたいと思います。

 

どうぞ皆様も霊的な人生を成就に向かって歩まれますように。

今年2023年の振り返り

 

これが今年最後のブログ記事になります。ですので、1年を振り返りたいと思います。ただその前にこれを公開する12月25日はクリスマスですので、それに関連したことを少し書いておきたいと思います。クリスマスはイエスが生まれた日です。イエスユダヤ人だったようですが、生まれたのはパレスチナの地だったのでしょう。今現在紛争が起こっている地域です。イエスユダヤ人ではありますが、ユダヤ人たちに殺されました。イスラエルユダヤ人たちの国であり、そしてパレスチナ人たちはその発端が彼らの一部の人のテロであったのは確かであれ、少なくとも数においてはユダヤ人たちにより多く殺されています。そういう意味でどことなく今起こっている紛争はイエスを思い起こさせるのです。クリスマスには世界中の何十億人もの人たちがイエスの降誕をお祝いするでしょう。しかしもし真にお祝いするのであれば、イエスの愛や犠牲を思わなければなりません。日本人の多くはクリスチャンではないでしょう。なので宗教心を伴ってクリスマスを迎えてはいないのはそれでいいのですが、イエスはほんの一人の人間の命すら大切にされた方ですので、今の世界の現状はイエスの理想から遠く離れていることの自覚は必要です。本来はクリスチャンたちがこのことを深く理解しなければならないでしょうが、世界の一市民として、宗教から離れた立場ではありますが、日本人も遠い他国のこととしてでなく、同じ人間である虐げられた方々を思っていい日だと思います。遠い地から少しばかり祈ることしかできないのかもしれませんが。

 

さて、今年の振り返りです。今年の年頭に立てた目標は「恩寵を生きる」でした。2つの意味がありました。一つは今与えられている恩寵を大切にすること。もう一つは恩寵を祈り求めて人生を切り開いていくということでした。正直に書きますと、この1年この目標がいつも頭にあったわけではありませんが、振り返ってみますに、おおむね目標に沿った1年だったかなと思います。健康や富、食料、時間などをそれほどは無駄にすることなく、多少なりとも価値のある活動に携わることができたでしょうし、恩寵を無駄にしてしまったという後悔の念がわいてくることもありません。また人生を新たに切り開いていけるような恩寵を強く求めたかといえば、そうではなかったかもしれませんが、それでもこの1年を経たおかげで少なくとも今後5年くらいの見通しが得られてきましたので、今後も前進し続けることができそうだという感触はあります。これもひとえにご守護お導きを与えてくださっているお方のおかげです。感謝申し上げます。

 

今年も残りあと1週間ほどですが、最低限の掃除などをやってしまい、新たな年を迎えたいと思っております。このブログの一部でも読んで下さった方々にも感謝申し上げます。また皆様方が平穏な良い年末年始を迎えられますことを願っています。来年以降もブログは続けるつもりでおります。2週間に1度の更新で、今は月曜日に記事を公開しておりますが、来年は木曜日に公開しようかと思っております。次回は1月4日木曜日に公開の予定です。皆様が健康でお幸せでありますように。

2人に影響を与え10人を助ける

 

人によってはサイババの著書や御講和を読んでいると気づまりを感じることがあるかもしれません。高尚なことがたくさん書いてあるし、どの一つであっても生活に取り入れるのが難しく感じてしまいます。かつての私がそうでしたから。どの御言葉も誠実に受け入れなければならないのですが、実際に取り入れることのできるものはほんの少しで精一杯です。今は私は日々の義務を誠実に果たすことがサイババの御教えの95%くらいを占めているように感じています。義務を実践する上での障害を取り除いたり、どのような態度で義務を果たせばいいのかを参照するのに御言葉などに目を通しています。当たり前のことを当たり前に果たすということです。その生活の質を上げていけば人生はいいのでしょうが、それとは別にサイババにまつわる特有の使命に関係したいというのであるならば、それは奉仕ということになります。奉仕自体は人間の義務に含まれていますが、サイババは奉仕を単なる義務以上のものとしてさまざまに解説してくださっています。

 

1993年のsanathana sarathiに「帰依者一人ひとりが、それぞれ二人の人に影響を与えることができたなら、すぐに全世界が改善されるでしょう。」(『サイの理想』171p)とあります。この言葉とは別に、どこで読んだかは忘れましたが、「私は10人の人を助けよう、と決意しなさい」というようなニュアンスのことをおっしゃっていたような気がします。私は何かを読むときにブログで何かを書くことを前提として読んでいませんので、気になる言葉があってもそれを出典とともにメモしたりすることがありません。私の記憶に保存されるだけで、その記憶も時間とともに変容を被っている可能性は否定できません。それは承知しておいていただけたらと思います。今日書きたいのは、2人の人に影響を与え、10人の人を助けるということについてです。

 

まずは2人の人に影響を与えるということに関してです。一般的にはあの本がおもしろかったと人に紹介し、その人がその本を買って読んだとしたならば、わずかながらでもその人に影響を与えたといえなくもありません。自分の何らかの働きかけがその人に何らかの行動を促したのです。ならば、帰依者が人に影響を与えるとはどういうことでしょうか? ある人が何かあるいは誰かに帰依していて、その帰依の姿やありようが他の人を感化するということです。たとえばその帰依者の生きざまが、それを見る人にとって理想のようなものに映り、その生き方を手本にしようと思い、実際にその人の行動に変容が生じていたならば、帰依者が他の人に影響を与えたといえるかもしれません。私は30年ほど前に青山圭秀氏の本を読んでサイババのことを知りました。それによって私の人生は変わりました。私は青山氏に感謝しています。彼が自分をどう思っているかは知りませんが、しかし少なくとも私から見て彼がサイババあるいは何かの帰依者であるかはわかりません。特にその後の彼の著書を見ているとです。なので私は彼が帰依者として私に影響を与えたのかはわからないといえます。他にもその人が誰かあるいは何かの帰依者であるとは限らず、10人はいないとしても私に影響を与えた人はいます。帰依者が誰か他の人に影響を与えるということがどういうことなのかわかりにくいところはありますが、私は自分が帰依するお方の御教えをできる限り生活に取り入れることによって、そのこと自体が誰かに影響を与えることがあればいいなとは思っています。人生80年としてその間に2人の人に影響を与えればいいのですから焦ることはありませんが、しかしそう簡単なことではないことも分かっています。

 

次に10人の人を助けることに関してです。私はこれまで気持ち程度といっていいものですがホームレスの方に食事を捧げたことはあります。延べ人数は何百人かはいるかもしれません。そのホームレスの人が1日の飢えを満たす助けはしたといえるかもしれませんが、この程度の助けは何らかの形で多くの人が行っているものです。親は子の養育を20年近くはします。20年間の世話によって子は自立した人間になるかもしれません。それは明らかに助けといっていいものでしょう。子が老親に気を配り、その老親が安らかな死を迎えることができたとしたら、親から受けた恩はなかなか返せるものではありませんが、それでも何らかの助けであったといえるかもしれません。少なくとも助けというとき、その程度のことは念頭に置いておきたいと私個人は思うのですが、その程度の助けを10人の人に行うことができるかといえば、できるかもしれないし、結構難しいものといえるかもしれません。医師という職業についている幸運な方は、その医術によって多くの人を助けることができるかもしれません。ふさわしい教師も、その何十年にもわたるキャリアの中で何十人かの人に対して十分な程度生きる準備を与え助けたといえそうです。特別優れた技能がない一般の人にとっては、誠実な職業生活が自らが属する組織を支え、その組織を通じて社会に善をもたらすこともできるでしょう。

 

私は重い病気を少なくとも二つは経験しているので最低二人の医師に助けられてはいます。幼いころに小さな路地の交差点に飛び出してもう少しで車にひかれる危険な状況がありましたが、運転手の方の誠実な運転のおかげで命拾いをしました。特定の一人の名前を挙げることはできませんが、毎日食料を購入し食事を得られているのも誰かの助けのおかげです。私は少しばかり行政の制度を利用していますが、それもこれまでの政治家や行政関係者の方々のおかげです。もちろん親にも恩を受けています。他にも思い起こせば多くの人に助けられていることがわかると思います。そういう程度に私は人を助けることができているだろうか?と自問するならば、10人の人を助けることは一生の仕事といえます。

 

サイババの御教えに限らず、ほとんどの宗教の御教えというのは、当たり前の生活を日々送りなさい、そして時間やお金に余裕があるならば少しばかり他の人を助けなさい、というところに集約されると思うのです。もちろん人生の究極の目的は忘れてはいけませんが、日常生活においてはこのことを頭に入れておけばほぼ十分な気はします。私は「2人の人に影響を与え、10人の人を助けること」がかねてから頭にあったので、それ以上のことをあまり目指すことはありませんでした。若いころは少し頭が肥大していましたが、それも今の年齢となってはかなりの程度落ち着いています。ありがたいことです。

ヤグニャの場としての身体

今日は少しばかりマニアックなことを書くかもしれません。日本の護摩に似ているヤグニャというものがインドで行われます。私も詳しいことは知りませんが、火に捧げものを捧げ繁栄や平和などを祈る儀式のようなものです。火に捧げられたものは火によって焼かれ、そのエッセンスが火の神アグニによって適切なところに運ばれます。アグニは郵便配達人のような存在だそうです。私たち人間の肉眼では見えませんが、神々の世界における何らかのやり取りに関係する儀式です。

 

さて話は少し変わりますが、生きている人間は健康であるならば、体の枠組みがある程度カチッと保たれており、意識も心(マインド)も堅固であるものです。健康が奪われたり死期が近づくと体がもろく感じられるようになり、意識がもうろうとしてきたりもしますが、基本的に体や心の枠組みはそれを超越することはほぼ無理と思えるほど固く定められたものです。私はこの体と心の枠組みはある種の護摩壇のようなものではないかと思うのです。

 

プルシャスークタムというヴェーダマントラがありますが、それはプルシャが自らを護摩壇への捧げものとしてささげ、この世界を創造したというような内容です。その中に、地球ができた後にプルシャが捧げものとなったとあります。人によって思うことは異なるかもしれませんが、私はこれを「地球はヤグニャのための星」であると理解しました。この広大な宇宙において地球は特異な存在ですが、その特異性はヤグニャによって象徴されるのではないかと。もしそうであるならば、地球に存在するものにとってなすべきことはプルシャを見習ってヤグニャをなすことです。つまり犠牲を払うことです。人間の体と心の枠組みが強固であることはこのためであろうと思うのです。

 

人間にとってヤグニャとは何でしょうか? 私は食事の際にギータの詩節を唱えます。「ブランマールパナム ブランマーハヴィール ブランマーグノー ブランマナフタム ブランマイヴァテーナガンタヴィヤム ブランマカルマサマーディナー」(捧げる行為はブラフマンであり、捧げもの自体もブラフマンです。ブラフマンによってブラフマンである火に捧げられます。フラフマンに捧げものを捧げ続けるものはついにフラフマンに到達するでしょう。)という内容です。これは食物を口から摂取しますが、その食物を胃に運びそこにある消化の火に捧げものを捧げているという意味になります。つまり食事はヤグニャなのです。私はそうして摂取した食物のエネルギーによって行われる日々の活動自体もヤグニャだと理解して、すべての行動を最終的に神に捧げるようにしています。

 

いわゆる食物だけでなく、目や耳などから受け取るものも五感が受け取る食物です。それらは主に心(マインド)によって咀嚼され理解され、行動器官(手足など)による活動へ導かれます。これもヤグニャでしょう。頭脳は大きなエネルギーを消費すると聞きます。例えば知恵熱という言葉がありますが、感覚器官を通じてとり入れられたものは火に注がれるに似ています。つまりは人間の活動というものはすべてがヤグニャであるとみなすことができるわけです。

 

インドにおけるヤグニャのみならず、日本において行われる護摩のことも私はよく理解していません。しかし何かを火に捧げる際には清らかなものが捧げられるでしょうし、それが燃やされていきつく先はどこであれ尊い理想をもって念じられる場所のはずです。人間の心身の枠組みは堅固ですが、それは一生をヤグニャに捧げるためのもののはず。心身は常に火で焼かれており、若いときはなかなか気づきにくくはありますが、少しずつ弱り老化していきます。最終的にわずかばかりの灰=ヴィブーティ(英知、恩寵)が得られれば、それが人生のすべてです。灰以外のものは、世界によって活用されればそれで十分なのだと思います。

 

今はなかなか焚火をする機会はありませんが、火を燃やすとき一度にたくさんのものをくべれば火は消えてしまいます。少しずつ薪を加えていけば長く火を焚くことができます。人生も体と心に浸透する火を消さないようにゆっくり歩むのがいいと思います。体と心に火が燃え盛っているとき、その人は若さを保ち輝いて見えるでしょう。インドにはtejas(輝き、活力)という言葉がありますが、時に存在の輝きが光って見える人に出くわすものです。そういう方々は、ヤグニャの場としての身体をその目的に沿って上手に活用されているのだろう、つまりは犠牲の人生を歩んでいる方であろうと思うのです。

ギータ(あるいはヴェーダ)

私は若い頃から、その時々にさまざまなことに関して知的関心がありました。学生時分は数学あるいは科学論特に数学を通してみた科学論に関心があったでしょう。後に霊性に関して関心をもつようになり、今もそれは継続しているのですが、それとは別に経済に関しても多少関心があります。さらに、今の私には少し大き過ぎる課題ではありますが、ヴェーダにも関心があります。"知的"関心という時、関心の対象を"知的"に理解したいという気持ちが込められています。知的に理解したいというのは、必ずしも学者のように理解したいというのではなく、自分が納得できる解像度まで、腑に落ちるまで理解したいということです。自分が納得すればいいわけです。他の人以上とか以下というのではなく。このことはある意味楽ですが、ある意味絶対性が要求されますので、厳しさもあります。

 

今は経済に関する資料をコツコツと読むことがあるのですが、霊性の学習も続けています。その一つにヴェーダがあります。ヴェーダとは、サンスクリット語世界文化遺産に登録されているいわゆるヴェーダのことですが、それとは別に、サイババが定義し直された「エデュケアは21世紀のヴェーダです。」も含まれています。またヴェーダは神の呼吸ともいわれ、神が口にされたものとしてのバガヴァッド・ギーターのありようにも関心があります。仏教やキリスト教はお釈迦様やイエス様のような人間由来ですが、ヴェーダは人間由来ではなく神由来であるとされます。それは特定の個人の思想などではありません。実際にインドで継承されてきたサンスクリット語ヴェーダに触れている人はわかりますが、それは高度に象徴的です。表面的にしか理解しない人はそれを子どもの詩のようなものと受け取ることがあるようですが、まったくそういうものではありません。それはシュルティ(聞かれたもの)であり霊視されたものです。これらは極めて清らかな聖者たちによって感知されます。

 

私は、インドでヴェーダを教えていらっしゃるヴェーダナーラーヤナン先生という方に「失われたヴェーダを取り戻すことはできないのでしょうか?」と尋ねたことがありますが、先生の答えは「取り戻すことはできません。」でした。私は現代のように人間や社会、自然が汚染された時代には無理かもしれないけど、すべてが再び清らかになった暁には、聖者方が取り戻す可能性は少しはあると思っています。しかしそれは少なくとも数千年は先のことでしょう。また例えばヒマラヤの聖者方がヴェーダを感知したとしても、それが社会に伝わるまでに少し時間がかかるでしょう。さらに、誰かがヴェーダを感知したとして、誰がそれを真のヴェーダと認めるかという問題もありそうです。

 

またサイババの学生さんが語っていたことによれば、「昔はインドだけでなく世界中にヴェーダがあったけれども、それが現代まで残されているのはインドだけです。」とのことでした。私はさらに「日本人は太古の時代にサンスクリット語を理解していたのですか?」と聞くと、「必ずしもサンスクリット語だけによってヴェーダが保存されていたわけではありません。」とその方は答えられました。

 

「エデュケアは21世紀のヴェーダです。」という時、エデュケアとは「内から引き出されたもの」という意味です。またサティヤサイスピークス1巻に含まれていますが、サイババの1960.9.27の御講話には、If you develop that ekaagratha(one-pointedness)  in the Kurukshethra of your own particular 'battlefields' ,you can assuredly also listen to the Geetha … the Bhagavathgeetha or the Sai Geetha or the Sathya Sai Geetha, intended for you. 

(もしあなたがそのようなエーカグラタ一点集中をあなた固有の戦場であるクルクシェートラで育むならば、あなたもまた確かにギータを聞くことができるでしょう。バガヴァッド・ギーター、サイギーター、サティヤサイギーターと呼んでもいいのですが、あなたに意図されたものを。)とあります。このような意味でのエデュケアとしてのヴェーダあるいはギーターならば、私は受け取っているといえるかもしれません。私にとってこの人生はほぼ絶え間ない戦場でしたから。

 

前回リーダーシップについて書いた際、精神的化学変化が最終的に形をとった時にそれを表現する、言葉にするといいましたが、まさにそれは私が内から引き出したもの、あるいはサティヤサイギーターといってもいいのではないかと私個人は思うのです。私のこのブログは、それに少しばかりいろいろ付け加えふくらませていますので、エッセンスは少し薄まっています。

 

「神が用いる言語は沈黙である。」という言葉があります。ルーミーだったでしょうが、私たちの言葉はそれの舌足らずな翻訳にすぎないようです。私は最近仮説について書きましたが、私が書くものはあくまでも仮のものです。ルーミーのいうpoor translationです。神の呼吸=ヴェーダは呼吸するもの=神の存在を示唆します。たとえpoor translationあるいは仮説であろうとも、それが真理を少しでも示唆することができれば、最低限の役割を果たしているといえるでしょう。

 

思いと言葉と行動の一致が大切です。私が書くものは多少なりとも私の行動の結果を含んではいますが、これからも自分の学びを継続して誠実に実行していきたいです。この思いと言葉と行動の一致はリーダーシップの一つのありようでもあるようです。ヴェーダについてはまだ語りたいことはありますが、今後さらに学びを深めてからのこととしたいです。

リーダーシップについて2023

私はリーダーシップには関心はありませんでした。私は内向的な人間で、人前に出て活動するよりはどちらかというと裏方の方が性にあっている人間だからです。リーダーシップについて少しは学びましたが、それも消極的にでしかありません。しかしながら、ある程度年をとって世の中を見回すに、今の日本においてリーダーシップがほとんど何も理解されてないような気がして仕方なく、今回少しばかりリーダーシップについて書いてみることにしました。

 

リーダーシップに関しては『Sai Baba's Mahavakya on Leadership』という評判高い本があり、私はこの本を買い込んでいるのですが、まだ読んでいません。他に私が参考にしているのは、『サイの理想』という本の第10章「リーダーとして」という箇所です。その中から一つ言葉を取り上げて論じてみます。

 

"Be Do See Tell"です。上の本の中ではこれを「ふさわしくありなさい、行動で示しなさい、状況を見なさい、言いなさい」と日本語で示しています。このBe Do See Tellに関してはこのブログで「心の4つの使い方」として1度取り上げたことがありますが、それ以来約7年が経っており、新たな私なりの解釈を再度施しています。

 

Beはふさわしくあるということですが、人に信頼されてこそのリーダーだと思います。また自分で自分を信頼できなければ、自らが迷うことになり、他の人を導くことはできないでしょう。なので少なくとも信頼されるにふさわしくあることはリーダーシップの前提条件となります。ならばそのふさわしい状態とは何かということです。まずは心が落ち着いて平安でなければなりません。対処しなければならない事態に対してきちんと向き合うことができなければなりません。コミニュケーションが適切であるためには他者への共感が必要です。これらのことを鑑みれば、Beとは、例えば瞑想などの日々の霊性修行(サーダナ)によって心身のバランスがとれている状態、清らかな状態といえるように思います。朝起きたり、外出する時に身だしなみを整えますが、それに似て日常的に心身の状態へのケアが行き届いていることがBeといえると思います。

 

次にDoです。どの領域であっても自分の関わる仕事についての知識が備わっていて、その領域において適切な仕事ができなければなりません。自分がよく知らずできないことに関して人を導くことができるかというと、大いに疑問があります。ある程度は実務に通じていなければなりません。私は霊性の領域に関心がありますが、霊性の領域におけるDoといえば、ほぼ義務の遂行につきます。どのような立場におかれていても、その役割に固有の義務はあります。それを誠実に果たす必要があります。世の中ではplan do see checkということがいわれますが、日本人はdoが欠けているきらいがあります。plan do do do do do seeくらいでちょうどいいのではないでしょうか。

 

次はSeeです。見るということです。Doというのは世界に対するコミットメント(干渉)ですから、Doの後に世界が変化をこうむっているかもしれません。変化が起きているかいないか、起きているならどのような変化が起きているかを、バイアスなしに見ることができれば好ましいでしょう。Seeをより霊的に述べるならば、ただ眼で見るだけでなく、心(ハート)を世界に開いて全身で世界を感じることも大切だと思います。私と世界は一つで、心(ハート)を世界に対して開いたならば、世界と世界の変化を自らの存在で感じることができます。感応といってもいいこの作業がSeeです。

 

最後にTellです。世界を眼で見れば、あるいは心を開いて全身でその変化を感じれば、自らの内面に動きが生じます。痛みを伴う場合もあるでしょうが、これらはある種の精神的化学変化です。時間をおけばその変化が何らかの形を最終的にとるでしょうし、あるいは少しばかり長期間変化が継続するかもしれません。どちらにしろ自らの内面で起こっていること、それがmindの領域であれheartの領域であれ、起こっていることに基づく適切な表現をなすことがTellです。Doにおいて変化を起こし、Seeにおいて変化を取り込み、Tellにおいてその変化を評価します。

 

リーダーシップとは、人あるいは状況をある方向に導くことです。それは変化を起こすことでもあります。個別の人が自分の思う通りの行動をしていなくても、自分とチームのメンバーと状況が全体的に望む方向へと変化していたならば、それはリーダーシップが機能しているといえるように思います。このような変化をもたらすことに関して、Be Do See Tellは効果のあるマントラでしょう。私は普段リーダーシップを意識してはいませんが、例えばブログを書いたりツイッターでツイートをする際に、以上のプロセスを踏んでいるようなところはあります。人を導かないとしても、人の心に届く言葉を紡ぐのにも、このプロセスは大切だと思います。

仮説について

今回は仮説について考えてみます。仮説といえば科学を思い浮かべますが、仮説そのものについて語っている書籍はそうは多くないと思います。私はそれらに目を通したことはないのですが、多少なりとも仮説について思いを巡らせたことはあるので、それらについてまとめてみます。

 

ニュートンガリレオ以来の近代科学の特徴は、理論を数学によって構成し、それを実験によって検証するというものです。ただし自然科学といっても、物理化学生物などなどの違いにより、数学よりも概念(通常言語)による理論構成が主になることもあるでしょう。さらには経済学も自然科学ほど厳密でないかもしれないですが、数学理論によって経済現象をみています。これらの科学の背景にあるのは原理への希求です。根本原理を知りたいという欲求です。そしてそれは仮説を通じて行われてきたわけです。

 

私は若い頃は仮説を用いる学問は自然科学と経済学くらいしか思いつかなかったのですが、後にセブンイレブン鈴木敏文氏の著書を読んで、経営も仮説の科学なのだと知ったわけです。というより、経営を仮説の科学にしたところが鈴木氏の卓越したところです。鈴木氏は経営学は統計心理学であるといわれています。セブンイレブンは単品管理で有名です。季節や気象条件、店舗の立地、地域の行事などをふまえて、どの品が売れるか仮説を立て、日々発注を繰り返しています。セブンイレブンの経営システムはこれを支えるものとなっています。また鈴木氏は事業計画自体も仮説であるとおっしゃっています。

 

セブンイレブンのような小売業だけではありません。著名な投資家も仮説を活用しているように見えます。バフェット氏は企業のファンダメンタルを徹底的に調べ、5年株式市場が開かれなくても大丈夫そうな企業の株式しか買いません。実際には定期的にIR情報をチェックし、前提が変わればすぐに売ります。ソロス氏はバフェット氏とだいぶ趣きは異なりますが、やはり仮説を重視します。彼は仮説を立てた投資案件をまずは少額買い、その値動きを注視し、仮説が正しいと確信したら大量に購入します。

 

実際のところ、私は政治もより仮説を取り入れるのが好ましいと思います。日本は何十年も前に立案され、しかし時代状況が大きく変わったにも関わらず、政策に誤謬はないとの信念のもとそれが実施されることがあります。政策はすべて仮説に基づくとの考えがあれば、その検証や修正もよりしやすくなり、実効性が高まると思います。

 

インドにはブラーミン(僧侶階級)、クシャトリヤ(為政者階級)、ヴァイシャ(ビジネス階級)という区分があります。ブラーミンは存在の安定度、クシャトリヤは社会の安定度、ヴァイシャはビジネスの安定度と関係し、関与する真実の程度もそれぞれ異なりますが、仮説はどの領域にも必要そうです。霊性の領域では、それは信仰とも呼ばれるかもしれません。真実への距離があれば、その間を埋めるものとして仮説は有効です。仮説は一種の対話、コミュニケーションです。

 

霊性の見解によれば、すべては一つです。目を閉じた時に映る世界が内界で、目を開いた時に映る世界が外界ですが、両者は一つの同じものとされます。外界の探究と内界の探究は深く関係しており、その間の対応関係を仮説と呼んでも、そう誤っていないと思います。

 

宇宙の実在は科学によっては今だに理解不能です。霊性の領域にはダルマという概念があり、主にインド(バーラタ)で探究されてきましたが、なかなか説明しつくされることはなく、神秘のベールに包まれてはいます。私たちがそれらについて語ることは単に仮説に過ぎないのではないかと私には思えます。

 

しかしながら私は生まれてからこれまで、主に仮説によって真実に関する部分的な知見を得てきました。仮説はそれなりに有効な道具でした。いつまで経っても仮の人間ではありますが、一方仮であることの自覚は、真理の前での謙虚さを与え続けてくれました。それこそが仮説の最大の効用かもしれません。