愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

語れるものと語り得ないもの

 

今日は語れるものと語り得ないものについて思うことを書いてみます。語り得ないものというと、有名なのはヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」という言葉です。これは彼の『論理哲学論考』の最後の言葉のようです。この言葉の言わんとすることは私なりの受け取りですが何となくわかります。言葉をはねつける領域があるのを私は感じているからです。先週、それはリアルなものだと呼びました。言葉は表象されたもの、表象する道具であって、表象される以前のものには届かないように思います。

 

さて、基本的にヴィトゲンシュタインの主張には賛成します。しかしながら私はサイババの話されたり書かれたものを長年読み続けましたが、それらは一般人にとっては語り得ないものについて語ったものでした。サイババを知る以前には語り得ないと思ってはいたけれども、実は語り得る領域というのが山のようにある、というのがサイババを知ったあとの私の実感です。今日はこのあたりのことを書きます。

 

タイティリヤウパニシャッドのブルグヴァリに次のような詩節があります。
プリティヴィ ヴァー アンナン  

アーカーショーアンナーダハ  

プリティヴャーマーカーシャ プラティシティタ 

アーカーシェープリティヴィー プラティシティター
(地元素は実際食物です。空元素は食物を食べるものです。空元素は地元素によって支えられ、地元素は空元素に依っています。)

 

私はこのウパニシャッドを長年唱えてきたのですが、地元素はある種語りえぬもののように受け止めており、空元素は語り得るあるいは思考が可能な空間のように受け止めてきました。私の解釈は独特かもしれませんが、つまり語りえぬもの(地元素)は食物であり、それは空元素によって食べることが可能になるということです。また思考が可能なのは語りえぬ領域(リアルなもの)によって支えられているからであり、リアルな領域は思考不能性として規定されるとも理解されます。

 

フランスの現代哲学者のフーコーは『知の考古学』という著書を残しています。私には西洋哲学は難解でしっかり読み込めないのですが、インターネットを検索すると「西洋の各時代ごとの知の枠組のありようと、その非連続的な交代の様相を明らかにするための手法を解説する」本らしいです。平たくいえば、時代によって知の様式が異なっていたというのが彼の歴史研究によって明らかになったということであり、そこにたどり着いた彼独特の研究手法を知の考古学と呼ぶようです。このフーコーの研究を踏まえれば、もしかしたら時代によって語り得るものと語り得ぬものの有り様、せめぎあり、割合に変遷があるのかもしれないと思うのです。ある時代にはあることに関して皆が考えることができるけれども、ある時代には別のことしか皆は考えることができない。それは流行りでもあるでしょうが、もしかしたら時代によってリアルなもの(地元素)と思考が可能な空間(空元素)の間に相互遷移、相互侵食があるのかもしれないと仮定したくなるのです。仏教には劫濁という言葉があり、それの基となる概念もインドにあるでしょうが、これは時の経過によって正法の時代、像法の時代、末法の時代へと変遷があり、時代が時代の意志として濁っていったという考えです。個人の意志を超えているわけです。大空が雲で覆われる割合はさまざまなように、時代には時代の顔があるのでしょう。

 

さて、語れるものと語り得ぬものに関して、それは時代だけによるのかあるいは人間がそれに関与できるのかという問題があります。私はごくごく気持ち程度は人間が関与できるのではないかと思っています。たとえば私は昨年2022年6月から7月にかけて内なる空間について何回か書きました。その1つはこちらになります。

aitasaka.hatenablog.com

 

ここでは、サーダナによって空間が浄化されること、思いと言葉と行動の一致によって空間が確保されることを書きました。それに加えて、諸聖典を読むだけでなくそこに書かれてある内容をある程度の期間にわたって誠実に実践し続けることも内なる空間を開発してくれるのではないかと思っています。つまりこの内なる空間は地元素(語りえぬもの)が空元素(思考可能な空間)になったものではないかと思うのです。森を遠くから眺めていても語れるものはわずかです。森の中に実際に足を踏み入れれば非常に豊かなことが語れます。御教えを実践するということはそういうことでしょう。一方逆に空元素(内なる空間)が地元素になるということもありえます。それは先程もいいましたが、時代性です。

 

今日本は少しばかり窒息しています。それは内なる空間が欠けているからです。それは語り得ぬもの(リアルなもの)に対して誠実な態度を見せなかったからでしょう。内なる空間の開発は新しい時代をもたらしてくれる、そしてこのことはどの時代においてもいえることだと思うのです。もちろん人間の意志を超えて時代は変わり続けもするのでしょうが。

リアルなものとしての神

 

インドにはリアリティ(現実、リアルなもの)をブラフマンと受け取る人がいるようです。私はこの受け取り方に基本的に賛成です。私は幼い頃から汎神論的でして、神は遍在で、すべては神であると受け取るのに抵抗はありませんでした。これまでの人生でリアルなものを感じ続けてきましたし、そのリアルさが私の汎神論的思考の基盤でした。

 

しかし一方で神について多くを語る人はこれまた多くいます。心に伝わってくることもあるのですが、話を聞いていてそれはあなたの考えに過ぎないのではないのかと思うこともよくありました。議論しても仕方ありません。その人の考え方もあるでしょうし、その人の背景には何百年何千年もの間の歴史的議論があるかもしれませんから。ただ人の考えたあるいは人が想像した神というのは、もしそれがただの思考であったり想像の産物であったりしたならば私にはあまり妥当な神に思えません。いわゆるマルクス主義者たちが宗教はアヘンだと呼んだに近いものです。マルクス主義者は想像的な宗教に対して物を対比させました。この物にはマルクス主義者たちが意識しているかどうかはわかりませんが、リアリティを含んでいます。たとえばキリスト教は神を想像的なものと受け止めているのでしょうか? あるいはリアルなものと受け止めているのでしょうか? 神を想像的なものと受け止めている場合とリアルなものと受け止めている場合とでは行動に違いが出てくるでしょう。世の中に非常に暴力的な宗教とそうでない宗教があるのは何が原因なのでしょうか? 自分たちの神だけが正しいという見解はどこから来ているのでしょうか?

 

西洋哲学ではリアルなものは語り得ないものであったと思います。人はリアルなものを目にするなりして想像を働かせます。その想像の領域において何らかの概念が形成されます。何かが語れるのは想像力のおかげです。私には神はなかなか語り得ない存在です。一旦想像されたものはリアルなものから離れていきます。

 

私はAll are One.(すべては1つ。)はマントラだと思っています。私もあなたもあれもこれも、私が知っているものも知らないものも何もかも含めたありとあらゆるすべてで1つです。もしこれが1つだと範囲を限って指し示すことができるならば、その境界の内と外があるわけですから、それは1つではありません。つまり1つであるということには境界がありません。1つであるとはinfinite(無限)を意味するのです。無限であるということは必ず語り得ない領域を含むということです。1つであるということはそこに語り得ない領域を含みます。想像を超えた領域があるということです。「私が語るものこそが神である」と主張するのは、つまり矛盾ではないかと私は思うのです。それよりもAll are One.の方がより真実を言い当てているように思います。

 

神=リアルなもの=語り得ない領域を含む=存在です。インドではブラフマンはサット・チット・アーナンダとされます。サットは存在です。私が今日語ったようなことです。チットは意識ですが、私たちに内在する純粋な意識のことでもあり、また多分先週私がこのブログで書いたようなことはブラフマン=神のチットの一側面ではないかと思います。たとえばマグカップがあります。それは存在していますからサットです。それにはマグカップという名があり名に沿った用途があります。それがチットです。そのマグカップを使ってスープなり飲み物をとればお腹が満たされるのでアーナンダ(至福)が得られます。それと同じように、存在(リアルなもの)としてのブラフマンがあり、そのチットとしての側面(先週私が書いたようなことを含みます)があり、それが組み合わされれば至福が得られます。

 

インド人たちの立ち位置に近く私はブラフマン=神をリアルなものと思っています。これを読んでいらっしゃる皆様はどうお考えでしょうか?

超越者(神)は人間の思いに対応する

 

先週の記事の中で、「親=神はえこひいきをするのかといわれそうですが、あくまでも私の数十年間にわたる実感ですが、神には自分が神が求める通りに振る舞ってくださる傾向があるのではないかとそう思うわけです。当然それに応じたある種の振る舞いが普段から求められているのですが。」と書きました。このことに関して今日は少し補足をしたいと思います。

 

「神は私たちが求める通りに振る舞う」。いつもとは限らないでしょうが、こういうこともあるということです。たとえばタイティリヤウパニシャッドのブルグヴァリの中に次のような詩節があります。
「タットプレティシテーテュパーシーター プラティシターヴァーン バヴァティ
タンマハイテュパーシーター マハーン バヴァティ
タンマナイテュパーシーター マーナヴァーン バヴァティ
タンナマイテュパーシーター ナムヤンテースマイ カーマーハ
タド ブラメーテュパーシーター ブラフマヴァーン バヴァティ
タド ブランマナ パリマラ イテュパーシーター パルエーナ厶 厶リヤンテー ドヴィシャンタス サパトナーハ」
(それをすべての基礎として瞑想したとき、人は基礎のしっかりした存在になる。
それを偉大なものとして瞑想したとき、人は偉大になる。
それを心として瞑想したとき、満ち足りた心が授けられる。
それを敬意を受けるものとして瞑想したとき、彼のすべての欲望の対象は彼の前にひざまずく。
それを至高の主として瞑想したとき、人は優越性、最高の地位を獲得する。
それをヴェーダそのものとして瞑想したとき、人はヴェーダの知恵を与えられる。」
私の訳が適切かどうかは少し疑問がありますが、要するにこれらの詩節が述べているのは、「それ」を瞑想するとき、私たちはその瞑想する姿に対応したものとなるということです。瞑想というのは私たちの態度で、それに対して瞑想の対象は私たちをそれにふさわしいものにするということです。

 

ユダヤ人たちは救世主を待ち望んでいるといいます。さて、そのユダヤ人たちがサイババのところにやってきて、「あなたは私たちの救世主なのですか?」と尋ねたことがあるようです。それに対してサイババは「それはあなた方次第です。(あなた方が私を救世主とするならば私はあなた方の救世主となりましょうの意味)」というように答えたようです。(「ようです」というのは厳密にどういう言葉が発せられたか記憶しておらず、そういうニュアンスの言葉だったということです。私は多くのサイ文献を読んでいて、印象に残る話は記憶に残っていますが、それらすべての引用元まで記憶していません。厳密なことが知りたい方は大変な作業になりますが、ご自身でサイ文献に当たられるのがいいと思います。)つまりサイババユダヤ人たちがサイババを救世主として扱えばユダヤ人たちの救世主として振る舞うと述べたわけです。サイババは人の思いや願いに沿ってふさわしく振る舞っていて、勝手に人が求めない振る舞いをすることはなさそうだということです。

 

約5000年前のユガアヴァターであるクリシュナは、養母のヤショーダには子どもとして振る舞い、アルジュナには友として振る舞い、ゴピカたちには愛すべき存在として振る舞い、敵対者には敵対者として振る舞い、それぞれに対して最終的に至福を授けました。クリシュナは人の思いに対応して振る舞っていたわけです。それぞれの宗教においては、奇跡体験として神がある特定の姿を取って現れたとされる話があるでしょう。それぞれの宗教の信徒たちにはそれぞれ思い描く超越者の姿があって、超越者はその姿に対応して現れるとされます。宗教の領域だけでなく、量子力学においても観測されるものは観測者によって定まるとされています。

 

つまり超越者(神)が人間の思いに対応して現れるあるいは振る舞うというのは、特別滑稽な説ではないわけです。日本人にはあまり馴染みのない考えなのかもしれませんが、世界の各地においてはそのようなことはある程度受け入れられているのかもしれません。超越者(神)はあくまでも人間の心や気持ちに寄り添っているわけでして、このようなことを踏まえれば、超越者に対する親近感が増さないでしょうか? そして逆に超越者を非難したり無視したり敵対しない方がいいのかもしれないと思わないでしょうか? 私にとっては超越者はグル(霊的に導いてくださる方)であり、困ったときに助けてくださる方であり、目的地です。超越者は私のこのような思いに対応してすべてを取り計らってくださっていると思っています。何でも試してみなければなりません。私がここに書いたことが本当かどうか、各人が試してみれば結果はわかります。科学はexperiment(実験)で確認されますが、霊性・信仰の領域ではexperience(体験)が証拠となります。多分に個人的なことになります。気のせいかもしれない程度を超えて体験を重ねてみることをおすすめします。

今年の目標2023

 

明けましておめでとうございます。私のブログを読んでくださる方々に感謝申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いします。できるだけ私なりにある程度質を伴ったものを書いていければいいなと思っているところです。私の理解が浅かったり、わかりにくい文章を公開することもあるかと思いますが、その場合大目に見てくださいますようお願いします。皆様が今年1年希望と喜びに満ち、健康で平安でありますように謹んでお祈り申し上げます。

 

1年の一番最初の記事では毎年その年の目標を掲げています。昨年の年末に少し考えたのですが、今年2023年の目標は「恩寵を生きる」にしたいと思っています。

 

特に若い頃に人の努力は報われると考える傾向があるかもしれません。もちろん何の努力もせずに怠けてばかりですとほとんど何も成し遂げることはできないのですが、しかしながら努力が必ず実を結ぶとは限らないのではないかと年をとると思えてきます。少なくとも自らの努力が自らの望んだ結果をもたらすとは限りません。自らの努力が自らが思いもよらなかった結果をもたらすことは、自分にとってよくないようですが、よくよく考えればよいものなのかもしれません。努力と結果の関係が自らの思惑をこえたものであることを年をとるごとに実感しています。そして自らが望む結果を求めて行為することが、少なくとも意欲においては減ってきます。そうなったときに人が望むのはもしかしたら恩寵=神の介入なのではないでしょうか?

 

「恩寵を生きる」という場合、私には2つの意味があります。1つは今ある恩寵を大切にして生きるということ、もう1つは恩寵を求めてそこから人生を切り開いていくということです。恩寵は英語でgraceといい、例えばamazing graceという歌があります。平たくいえば神の恵みのことです。私は先程も述べましたが、神の介入という捉え方もかなり有力だと思っています。奇跡はそれに含まれるかもしれませんが、私は恩寵という言葉に必ずしも奇跡の意味を多くは込めていません。信仰のない人は単にカルマ(行為)の法則に縛られているだけではないかと思うのですが、信仰があれば少しばかりそれを越えた作用を体験できるというふうに受け取っています。親は他人の子を大切にしておやつを与えるかもしれませんが、それよりも自分の子により多くを与えるものです。親=神はえこひいきをするのかといわれそうですが、あくまでも私の数十年間にわたる実感ですが、神には人が神に求める通りに振る舞う傾向があるのではないかとそう思うわけです。当然それに応じたある種の振る舞いが人にも普段から求められているのですが。取引ということを考えたとき、神仏と取引をするなといわれそうですが、最も確実で効果的なのは神仏との関係に基づくやり取りです。その最大のものは帰依バクティを差し出せば、解放(解脱)ムクティを与えてくださるという取引だとされます。

 

今ある恩寵を大切に生きるということをまず考えましょう。今私にはこの記事を書く時間が与えられています。私が非常に困窮していて時間や気持ちの余裕がなければ、このブログは存在しないわけです。与えられている時間は私にとって明らかな恩寵です。また私の家には少しばかり広い庭があります。十分には手入れしきれていないのですが、それでも何もしなくてもある種の収穫があります。名も知らぬ花ですが、ほぼ一年中何かが咲いています。仏花には事欠きません。柿や梅の実もとれます。野草のお茶も一年中とれます。金額的にはそう大きなものでなくても、恵みは恵みです。特に大都会にすんでいる人だと庭仕事のできる庭がありません。庭仕事をする時間というのは本当に豊かなものです。それを当たり前と思うかどうか人によるでしょうが、私は昨年お腹が空いたときに食べ物がなくてひもじい思いをしたことが一度もありませんでした。高級料理ではありませんが食事は与えられています。住むところもあります。これらは私にすればすべて恩寵といっていいものです。目が見えるのも恩寵です。歩く足があるのも恩寵です。心(ハート)を開きさえすれば私たちの生活は恩寵で満ちています。これらの恩寵を当たり前だと思わずに大切にしたい、これが今年の目標の意味する1つです。

 

もう1つは恩寵を祈り求めて人生を切り開いていくということです。先にも述べたように、人間はおおむねカルマの法則に支配されて地面を這いつくばるようにして生きています。それは誰でもです。おいしいものを食べれば満足する、気のあった友人や異性、家族がいれば満足する、仕事で認められるなどこの世の楽しみはそれなりにあるものの、年をとると少しずつ飽きてきたりうんざりするものです。私はまだ介護を必要とはしませんが、70歳、80歳を過ぎて人の手を必要とせざるをえない人だともっとうんざりするでしょう。いつもの繰り返しのような生活を長く続けて得るものもありますが、ただ単に世俗に生きてばかりいるのではなく、恩寵=神の介入を楽しむ人生はより有意義で至福をもたらしてくれるのではないかと思うのです。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といいましたが、確かにそうではあるのでしょうが、しかし人間の低い立場から見たとき、ある種のゆらぎというか不確実性を求める気持ちは私には少しはあります。完璧な努力はできなかったとしても、大目に見てもらって仕事を受け入れてほしいと思うこともあります。神の介入=神の戯れ(リーラ)の方が人間の思いついたものよりもずっとずっと楽しいに違いない、むしろ人生はそういうものを楽しむためにあるとさえ思うのです。果たしてそういう類の恩寵はあるのかという人もいるかもしれません。何を恩寵と受け取るかはその人の感性にも関係していますので強要はできませんが、私はあると思います。いえ、アインシュタインは「一切を奇跡でないと受け取るか、一切を奇跡と受け取るかのどちらかだ」というようなことをいいましたが、そういうようなレベルの話です。

 

主に今ある恩寵を大切に生きたいと思っています。恩寵を無駄にする人にさらなる恩寵は与えられない可能性が高いですから。恩寵を思うことは感謝の気持ちで神を思うことでもあります。今年はこれを目標にしたいと思います。

今年の目標の振り返り

 

今年も残り10日あまりとなりました。時間が過ぎ去るのはあっという間です。少し前に12月になったばかりだと思っていたら、もう3週間ほど経っています。時間を無駄にするのは簡単ですが、有効に使うのはなかなか大変です。

 

さて、この記事が今年最後の記事になります。先週触れましたように、今日は年始に掲げた目標の振り返りをしたいと思います。今年最初の記事はこちらでした。

aitasaka.hatenablog.com

 

この中で掲げた今年の目標(テーマ)は「サーダナクシェートラ」でした。「サーダナとは霊性修行のことで例えば唱名や瞑想、捧げものとしての奉仕(義務、行為)などのこと。クシェートラは土地、場所、聖地などの意味です。サーダナクシェートラとはサーダナ(霊性修行)を行うクシェートラ(場所)のことです。何がいいたいかといいますと、あらゆる活動の場をサーダナ(霊性修行)の場と意識して過ごしたいということです。これが今年の目標です。」


振り返ってみておおむね目標は守れたと思っています。基本的に私はサーダナが好きです。とはいっても、例えば唱名の際にたまに唱える数が気になったり、瞑想や祈りが形式的になったりしますが、そうであってもサーダナは好きで、あまり苦になりません。テレビをだらだら見るよりはずっと時間を有効活用している実感があって、しかも喜びが得られますので、好んでサーダナに取り組んでいます。とはいっても、自分に至らないところがあるのも理解していまして、それらは改善しないといけないのですが、なかなか改善が進んでいないのも確かです。しかしサーダナという点で見たとき、今年はまあ合格点の80点は達成できたのではないかと思っています。

 

サーダナの目的は心を浄化することであり、サーダナにそれなりに取り組んでどれだけ心がきれいになったかはわかりません。体の垢と一緒で日々の活動によって心に汚れがつきますが、それらを逐次取り除くので精一杯であったのかもしれません。それでも何とかそれなりに心健やかに年末まで来れたのですから、良しとしないといけません。そして同時に神様仏様への感謝も忘れないようにしたいです。

 

強いて反省点を書けば、お金の無駄遣いが少しあることと、ツイッターをはじめとしたSNSに少し時間を取られていることがすぐに気がつく点です。あと食物に関して食品添加物(鈍性の食物)をもう少し減らしてもいいかなと思いますが、それも後の課題にしたいです。

 

来年はまた来年の目標を立てますが、どういう目標を立てるにしろ、サーダナはそれなりに継続して続けていくつもりでいます。サーダナは霊性の領域における基本動作であると思っていますので、これをないがしろにすると霊性の向上がはかれません。野球選手が毎日キャッチボールや素振りを行うように、サーダナを続けていきます。

 

この記事を読んでくださっている方の中にも年初に一年の目標を立てた人がいることでしょう。目標の達成具合はいかがでしたでしょうか? 私はこの一年を振り返って、それを踏まえ来年の目標を考えますが、皆様もどうぞこの一年を振り返って締めくくり、良い年を迎えられますように。この一年それなりに記事の質を保って書いてきたつもりですが、読者の方とほんのほんの何かが共有できましたならば、それは私にとって大きな喜びです。ありがとうございます。皆様の一層のご発展と平安、幸せを祈念いたします。

 

(追伸:次回のブログは年が明けて1月10日の予定です。)

御名と御教え

 

誠に勝手ながら、今年のブログは12月13日と20日で終わりにしたいと思います。20日は今年一年の目標を振り返りたいので、13日の今日が実質的に最後の記事となります。

 

人生は旅にたとえられます。生まれて何年か経って何故かこの世にいることに気づき、そこから意識的な人生が始まります。人生の終わりは死でこれはすべての人にやってきます。すべての人にやってくるわけですので、この世は最終的な居場所でないのかもしれません。死んだあとどこに行くのかはよくわかりません。この世の生の最初と最後に関係することが不明で、途中だけがあります。人生は旅です。

 

私たちは旅に出るとき、多くの人はどこに行くかをまず決めると思います。京都に旅行しに行こう、ハワイに行こう、県内のあの温泉地に行こうなどです。行き先が決まらなければ、どのように旅行を楽しむかもなかなか決まりません。たとえば京都に行く場合、神社仏閣を楽しんだり、博物館・美術館を楽しんだり、四条河原町あたりのお店巡りをしたいなどと思います。あるいは今の私ですと私は山歩きをするので、京都トレイルを楽しみたいという計画をたてることもできます。逆に遠方の人が今私の住んでいるところに旅行に来ようとすれば、やはり歴史の地を尋ねたり、自然の美しい景色を楽しんだり、地域の美味しいものを楽しんだりいろいろできるわけです。サイクリングやハイキングも楽しめます。その土地ごとに特徴があって、楽しみ方もさまざまです。

 

それに似て、人生という旅を考える際、実質的に旅とは霊性の旅、魂の遍歴のことをいっているわけで、そこでまず重要になってくるのは御名です。イエスブッダアッラー、タオ、アマテラス、サイババなどなどです。現代日本には無神論者が多いとされますが、実際のところ自分の好みをよくよく吟味すれば自分にあった御名は見つかるものではないかと思っています。ある御名に関心をもったならば、次はそれをどのように楽しもうかということになります。そこで必要になるのがガイドブックです。御教えと聖典がそのガイドブックにあたります。細かいところまで案内が書かれた御名もありますし、大雑把な観光ガイドのようなものもあります。主な世界宗教は宗祖の言葉だけでなく、弟子たちによる山のような注釈があり、それらすべてにあたることは困難といえます。

 

旅に出たならば楽しかった思い出で終えたいものです。それと同じように人生の旅も多くの困難があるでしょうが、この世を去る際には至福、喜びで満たされていたいものです。

 

旅にはバックパッカーのような旅もあれば、定期観光バスのような旅もあります。人の好みはそれぞれでしょう。どのような旅をするかはガイドブック(聖典、御教え)を参考にして決めればいいと思います。それぞれの土地にはそれぞれの楽しみ方があり、普通の旅行でしたら、1年に数か所観光地を訪れることができるのかもしれませんが、人生の旅においては一箇所(1つの御名)を楽しむのでさえ十分に時間が足りない可能性があります。一つの教訓を得るために10年、20年という年月がかかることはしばしばあります。一箇所で少しばかりの喜びが得られないからといって他所へ行けば、やはりそこでも喜びが得られないままです。旅慣れた人にはわかりますが、どの観光地でもそれなりに楽しみが得られるように、どの御名でも喜びは得られるものです。

 

私は御名を勧めることはしますが、御教えを伝えること(布教)に積極的な関心はありません。あそこに行けばいろいろ楽しめる(喜びが得られる)よとはいいますが、そこでどうするかはその人の自主性、傾向などによってさまざまだろうからです。ガイドブックはあるよとは一応伝えますけれども。

 

私たちはたまたま日本に生まれてきました。アフリカやヨーロッパ、アメリカなどにしばしば旅行する人は少しはいますが、多くの日本人は日本で長い時間生活します。そして日本でさまざまな苦楽を経験します。日本に生まれた私たち日本人にとっては日本を経験することが大切です。アフリカの奥地を楽しむのが目的だったならばその地に生まれていた可能性が高いと思います。「日本」という地名には山のような意味が含まれています。同じように、いえそれ以上に神仏の御名には多くの意味が含まれています。旅慣れた人はそれらを楽しむことができます。

 

先週のテーマですが、御名を伝えるということには以上のような意味があります。ガイドブック(御教え)はあるよと伝えていいけれども、ガイドブックの内容を事細かに説明したがる(布教)のは多少なりとも野暮ではないかと思うのです。私のブログを読んでくださる方が自分にふさわしい御名に出会っていることを願っていますし、さらにはその御名を楽しんでいることも願っています。まだ出会っていない人がいれば、自分の好みの御名をじっくり探されるか、あるいは家の宗教を調べてみるか、あるいはそれでもどれがいいのかわからない人がいれば、私の好みですがサイババをおすすめしたいと思います。皆様がふさわしい御名を一生の伴侶としますように。

御名を伝えることについて

 

私はあまり布教というものに関心はありませんが、しかし優れた存在は人に知られていいと思っていますし、ごく少数の人にとっては優れた存在を知ることで人生が大きく変わりうることも知っています。私にとってはサイババがそういう存在です。そのサイババはいわゆる布教には関心がまったくなかったのではないかと思いますが、しかし一点「御名を伝えることに信念をもちなさい」とは仰っていました。御名を伝えなさいといわれても宣伝はしてはいけないとされていますし、実際のところ御名を伝えるということがどういうことなのかわかりにくくはあります。私個人は、人がサイババの教えを思いや言葉や行為に染み込ませるならば御名は自然に伝わると思い、とにかくサイババの指針をできるだけ生活に取り入れるようにしてきました。

 

今旧統一教会のことが問題となっています。問題になっている1つは統一教会の関係団体であることを隠して人々に接近しようとする点です。もしかしたら統一教会だけではないのかもしれませんが、自分たちがどういう集団であるかを隠して人々に影響を与えようとする団体はありそうです。私はサイババに大きな影響を受けて、別にサイババの名前を出さなくてもいいのですが、そうなると統一教会がやっていることと同じことをやっていることになります。私はサイババに帰するだろうと思われる素晴らしいことに関してはサイババの名を出すのが好ましいと思っていて、しかし一方でサイババサイババの宣伝をしなくてもいいといっていましたので、サイババの名前を出すことに関しては少しばかり微妙なところがありました。今は統一教会の問題を考えれば、名前を出すべきところでは名前を出すほうが好ましいと思っています。

 

I know you have the enthusiasm to carry My message among the people of this country and other countries. Let Me remind you that the best and the only successful way in which you can do it is to translate the message into your own lives. Your thoughts, words, and deeds must be saturated with the message. Then they will spread effortlessly and efficiently, and the face of the world will be transformed.(1968.05.17 Sathya Sai Baba)
(私はあなた方が私のメッセージをこの国や他の国々の人々の間にもたらそうという熱意をもっていることを知っています。あなた方に覚えておいてほしいのは、あなた方がそれをなす最善で唯一成功する方法はそのメッセージをあなた方自身の生活に翻訳することだということです。あなたの思い、言葉、そして行為はそのメッセージで満たされていなければなりません。そうしたならばそれらは努力せず効果的に広まっていくでしょう。そして世界の様相は変容することでしょう。)

 

今この文章の中で注目したいのはtranslate the messageという言葉です。サイババの御教えに限らず、仏教の御教えでもキリスト教の御教えでもそうでしょうが、現代においてどのように応用すればいいのかわかりにくいものがあります。そこで鍵になってくるのがtranslate(翻訳)という言葉ではないかと思うのです。翻訳は基本的に別の意味に置き換えるものではなく原文に忠実であろうとするのが普通のことですが、しかし言語が異なるとどうしても多少ニュアンスが違ってきます。そのように、偉大な方々の御教えを実践する際に、趣旨を損なうことなくしかし私たちが置かれた状況において適応的であるために少しばかり翻訳的な操作をしてしまうかもしれません。意図して御教えの趣旨や本質を損なうのは過ちですが、実践面において理解のあり様に手が加わることはあります。それは前回お釈迦様について「お釈迦様が2500年前にされたこともこれに似て、ヒンズー教バラモン教)の概念や文化に新たな光を当てて蘇らせたがゆえに、当時のインドの人たちに受け入れられたのではないかと思うようになりました。どの時代のどの地域の人たちであっても、人々の生きる文脈からまったくかけ離れた言葉はなかなか伝わりにくいような気がするからです。」と述べたように、本質において同じものなのですが、光の当て方を変えるような操作だと思うのです。つまりお釈迦様も多分translate(翻訳)を行ったのです。

 

古代のインドでは「教える」という言葉と「学ぶ」という言葉は分離していなかったようです。インドで教えることと学ぶことが分離したのはイスラム教か西洋の影響であるのでしょう。つまりどういうことかといえば、古代インドにおいていわゆる師は生徒(学ぶもの)たちのリーダーに過ぎず、日々の生活の中で数々の実践に率先して取り組む存在であったということ。そして同じ道を歩む生徒たちが求めた時には自らが実践してきたことを語ったということです。謙虚さをもてば、この世に生があるということはまだ人間として欠陥があるからなのであって(完全な人間は遠からず肉体から自由になってしまうことでしょう)、つまり誰もが等しく向上を目指すものであるわけです。意識的に生きるということが学ぶということであり、それによって整理されたことを機会の求めがあった時に表現することが教えるということです。学ぶことと教えることは1つのものの近しい2つの側面であるわけです。

 

何がいいたいかというと、御名を伝えるということはtranslate(翻訳)であり、そしてそれは学ぶことと教えることが一つになったものでもあるということです。サイババサイババの宣伝をする必要はないといっていましたが、おそらく宗教一般も本来は宣伝や布教などしなくていいのです。御教えのメッセージを人生に染み込ませて、御名を伝える努力をしさえすれば十分だと思うのです。

お釈迦様について

 

私は仏教に関心があります。仏教徒です。しかしもともとは仏教に関心があるというよりはお釈迦様という一人の存在に関心があったように思います。昔のことははっきりと覚えていませんが、お経に価値があるのはお釈迦様が説かれた言葉だからで、お釈迦様が素晴らしいという思いが強かったような気がします。今でもお釈迦様に関心があります。

 

心理学者の河合隼雄氏がかつて、「最近の若者はお釈迦様がなした探究と同じような探究をしています。お釈迦様はそれに成功したけれども、最近の若者のほとんどは非常な困難な課題を抱えています。」とはいっていませんが、ニュアンスとしてはそのようなことを語っていました。お釈迦様がなした探究に成功することは、お釈迦様にある意味肩を並べることです。難しい課題です。

 

人は問います。「お釈迦様の悟りの内容とは具体的にどのようなものであったのだろうか?」、「お釈迦様が人に対してあれ程に説得力をもっていたのは何ゆえなのか?」と。学会である程度見解が定まっているのか知りませんが、お釈迦様が悟られ仏陀になりましたが、仏陀と他の人を区別するものは何なのでしょうか? お釈迦様のお経は現代翻訳ですが読むことはできます。真実かどうかはわかりませんが、大乗仏典偽教説というのもあるようで、私は阿含経(小乗仏典)を最近は好んで読んでいます。日本語訳だけを読んではわかりませんが、なぜこの教えが人々の心をつかんだのかということです。この二つの問いは多くの人を悩ませてきたのでしょう。

 

以下は私なりの拙い見解です。
「お釈迦様の悟りの内容とは具体的にどのようなものであったのか?」 私はおそらくアートマの知識に到達したのだと思っています。人間が到達できる知識ではアートマ知識以上のものはないとされます。知識という観点から見れば、お釈迦様はアートマの知識に到達したのだと思います。しかし悟りという言葉が何を意味するかです。現代では悟りは英語ではrealisationでしょう。サンスクリット語ではもしかしたらグニャーナかもしれません。グニャーナに関してはこのブログでは「4つのグニャーナ」という記事を私は書いています。お釈迦様はプラグニャーナ(般若)の状態に至ったのかもしれません。私の意見は学問的な根拠があるものではありません。現代の知識において仮定しているだけです。

 

「お釈迦様が人に対して大きな説得力をもっていたのは何ゆえか?」 この問いに対する答えも私の想像です。
今年の6月にツイッター
「名越先生が「日本のリベラルアーツは仏教です」とおっしゃっていて、確かにそうだなと思います。リベラルアーツは人を自由にする知識、技法と捉えてもいいのでしょう。」
「私はたまにツイッターやブログで日本の仏教聖典にある概念に私なりにですが現代的な解釈を与えていて、そういう作業は個人的に非常におもしろいのですよね。何百あるいは何千以上もの仏典にある概念が現代に蘇るのを待っていると思います。」
と書きました。ここにあるように、私は気づきがあった時に仏教の概念を現代社会に即して新たな視点から光を与えることを時にしていますが、そうしないと現代において受け入れにくいと思っているからです。仏教の概念の本質に手を加えることなく、ちょっと表現を工夫することで現代人に理解しやすくする、このようなことは仏教の用語だけでなくても、さまざまな分野で必要なことでしょう。我田引水のようなところはありますが、お釈迦様が2500年前にされたこともこれに似て、ヒンズー教バラモン教)の概念や文化に新たな光を当てて蘇らせたがゆえに、当時のインドの人たちに受け入れられたのではないかと思うようになりました。どの時代のどの地域の人たちであっても、人々の生きる文脈からまったくかけ離れた言葉はなかなか伝わりにくいような気がするからです。あくまでも仮説ですが、そういうことを最近思いました。特に岩波文庫にある小乗仏典のお釈迦様の言葉を読んでいてそう思いました。

 

実際のところお釈迦様は知性において非常に優れていただけでなく、人格も卓越されていたはずです。私などがどうのこうのいえるものではありません。ただ古来から人を悩ませ続けてきたお釈迦様に関する問いに対して私は最近思うことがあったので、今日はそれに関する仮説について書いてみました。お釈迦様からまだまだ多くを学ぶことができます。これからも謙虚に学び続けていくつもりでいます。

欲望に上限をもうけることに関して

 

私は今年はよく寝る前に布団の中でSanathana Sarathi(サナタナサラティ)という雑誌を読んでいます。サイババの御講話や帰依者の方々の体験談などが載っている雑誌です。英語ですが、分からない単語があれば辞書を引いています。こういう雑誌はたくさん量を読めがいいというわけではなく、自分が納得し理解しながら読んでいくのが大切です。毎月出ていてページ数は最近ですと40ページ弱ですが、ゆっくり読んでいるとひと月の内に読みきれません。

saireflections.org

 

さて過去のサナタナサラティを読んでいて、次のような言葉に出くわしました。
How much the world stands to gain from the practice of ceiling on desires can be gauged from Swami's words; "Ceiling on desires is civilisation"! (Sanathana Sarathi Nov 2017 p37)
(欲望に上限をもうけることの実践からどれだけのものが得られるかは、次のスワミの御言葉から推し量ることができます。「欲望に上限をもうけることは文明です。」)

 

ceiling on desires(欲望に上限をもうけること)というのがもしかしたらわからないかも知れませんので、説明しておきます。あれが欲しい、これが欲しい、あれがしたい、これがしたいと思うがままに行動していたら、お金や時間などがいくらあっても足りません。また欲望を満たす行為で人生を満たし続けていたら、本来すべきことが疎かになってしまいます。そのためサイババは帰依者に欲望に上限をもうけなさいといいます。特にお金、時間、食物、エネルギーを無駄にしてはいけませんといいます。お金を無駄なことに使わない、時間をつまらないことに浪費しない、食物を捨てたりしない、エネルギーを無駄にしないということです。当然生活の必要を満たすことは構いません。現代社会では食物や衣類は購入しないといけません。必需品を買うことは問題ないのですが、必要ないものまで買うことには控え目でいなさいということです。テレビやスマホを見続けるようなことで時間を無駄にしてはなりません。食物はお腹を満たすだけにとどめておきなさいということです。エネルギーは電気やガスなどもそうですが、人間の体に備わるエネルギーを無駄な活動に向けることは避けなさいということです。特に悪いものを見たり聞いたりすると体に備わるエネルギーは浪費されるようなので、悪いものを見たり、聞いたり、したりしないようにしなさいといいます。

 

このように欲望に上限をもうけることによって生じたお金や時間、食物、エネルギーを人類への奉仕に役立てなさいというのがサイババの指示です。大金やたくさんの時間を作り出すことは難しいですが、誠実に欲望の節制をしていますと、多少なりともお金や時間に余裕が出てくるはずです。それを小さなものでいいので奉仕する機会を見つけてそれに使うことが期待されることです。例えば私の場合、本当に小さなことですが、時間に余裕がある時には気持ちを落ち着かせる効果もあって好んでしているのですが、編み物をしています。世の中にはホームレスの方のために毛糸の帽子を送ってくださいというところがあるので、ここ何年かは毛糸の帽子を編むことが多いです。それを年末に送ります。他にも探せばちょっとした奉仕の機会はあると思います。奉仕に優劣はありません。どんな奉仕でもかまわないと思います。

 

このような欲望の節制の実践からどのようなものが得られるかということです。欲望の節制をしている人は日本にはごく僅かでしょう。しかしこういう習慣が日本のかなり広い範囲に広まったとするならば、その総和はcivilisation(文明)を築くに等しいというのがサイババの見解です。まず基本的に欲望に上限をもうけようとする人は、自分でできることは可能な範囲で自分でしようとする人ではないかと思います。欲が少ないので欲を満たす行為は少しですみます。一人ひとりの欲望が少なければ、家族の欲望も少ないでしょう。家族もかなりの部分自分たちで生活を立てていくことができるような気がします。欲望の節制から生じた余剰分は、私のためではなく公(おおやけ)の領域に使われることになるだろうと思います。運が非常に悪く困窮している人たちを支えるために用いられるでしょう。

 

私は上のサナタササラティの言葉をツイッターでツイートしたら、次のような言葉が返信として返ってきました。
Those who learn to ceil desires will be able to direct desires.
(欲望に上限をもうけることを学んだ人たちは欲望を方向づけることができるようになるでしょう。)

たくさんの欲望の内一部だけ満たすのが欲望の節制ですから、より人間の生活に本質的な欲望が残され、それが生活の基底、規定となります。またそれによって生じた余剰分は、できるだけ有効に活用したいと思うようになります。当然識別を働かせて誰が何を本当に必要としているかを考えます。そして奉仕を必要としている人たちに適切にサービスを提供します。一人ひとりのこういう識別と知性の総体が積もり積もって一文明を作り上げていく。そういうことなのだと思います。

 

日本人は特にバブルの時代に多くのものを無駄にする生活習慣を身に着けました。これが日本が世界の中で例外的に衰退している主因の一つであるのかも知れません。今日本国は国債だけで1000兆円を超える借金があります。日本人一人当たり840万円前後です。私も病気でそれなりに国のサービスを利用しているので大きな顔はできません。しかしこの30年間日本人が自分たちでできることをもう少し自分たちでやっていたら、借金はまだ少なかったのではないかと思います。たとえば、飲酒やタバコを控えることで医療費を減らすことができたかも知れませんし、老いた親の老後を子ができる範囲で見ていたら、医療費介護費などがもう少し少なくてすんだかも知れません。個人的には作る必要のない道路もあったのではないかと思わなくもありません。ほんの少し遠回りすればすむことでした。効果のあまりなさそうな補助金の話も聞きます。自分の生活にできる範囲で責任をもっていれば国の出費は比較的少しですんでいたはずです。

 

欲望に上限をもうけることで有効に活用できるお金や時間、食物、エネルギーを少しばかり確保し、それらを識別と知性でもって活用することは、自分にとっても他の人にとっても益があるものです。日本人はあまり奉仕をしませんが、そこは改めたほうがいいのではないかと私は思っています。

人間的価値2

 

これまで人間的価値について少しだけ触れたことがあります。これまで人間的価値について、1.人間の構成要素に価値を与えること。2.道徳、倫理、霊性。3.人間が人間であること。であると私は定義してきました。英語ではhuman valuesです(サイババが多用する言葉です)。現代は特に経済の領域において「価値」という言葉が用いられますが、私は経済において用いられる価値という言葉に関して、「商品やサービスの価値=それを生活に取り入れることによって得られる何らかの体験」であると考えてきました。その定義に関連していえば、人間的価値は(必ずしも商品やサービスを利用しなくても得られる)人間であること自体によって得られる何らかの体験と考えることも可能でしょう。特に平安や至福が得られるための人間としての生き方を人間的価値と呼ぶことができます。

 

さて久しぶりに人間的価値について考えてみたのは、次のようなツイートを見かけたからです。

「なんとなく。
女性は「自分から女を引いても人間が残る」感覚の人が多くて。
男性は「自分から男を引いたら残るものがわからない」感覚の人が苦しんでるような気がする。」(佐川・抜け首・なん)

 

このツイートをした佐川・抜け首・なん氏は多分女性のようです。このツイートを読んでどう思われるでしょうか? 私は男性ですが、なるほどうまいこと表現しているなと思いました。実際には女性が「自分から女を引いても人間が残る感覚」をもっているか、もっているとしてどれくらいの割合かはわかりません。あくまでも私の感じ方からすると、男性の中には「自分から男を引いたら残るものがわからない」人はまあいそうな気はします。たとえば、男性ですと男性であることによって、女性に比べて進学を許された人は多いでしょうし、男性だから定職についてお金を稼ぐために職業生活を長年勤め上げたという人も多いでしょう。家庭内においても、男性だからあまり家事をしなくても許されると考えてそう振る舞った人もいるかもしれません。これらのことを多くの男性は多かれ少なかれ自覚していると思います。つまり、もし自分から男であることを差し引くとすれば、学歴も職歴も否定しなくてはならないかも知れず、また家事を女性に比べてあまりしないできたことを正当化しにくくなります。そうなると、人生のかなりの部分が取り除かれて、結局のところ「自分から男を引いたら残るものがわからない」感覚をもつ人がいてもおかしくないということになります。

 

私は女性ではないので推測ですが、女性が「自分から女を引いても人間が残る」というときの女とはジェンダーも当然ありますが、セクシュアリティ、生物学的な女性性のことを指していそうです。男性にとっての男にも生物学的な男性性はありますが、それよりもジェンダーとしての男性性によって人生のかなりの部分が規定されているように私個人は感じます。しかし男性であっても女性であっても人によっては別の感じ方があるだろうことは否定しません。

 

私が今日取り上げたいのは、「自分から女を引いても人間が残る」というときの人間を女性も男性も感じていなくてはならないだろうことです。その実感をもたらすものがいわゆる人間的価値に関する教育、つまり本来の教育の目的です。人間が自分が人間であることを自覚できなければ悲劇としかいいようがないわけです。

 

私個人は男性としてのジェンダーセクシュアリティ、生殖の性としての男性性とは比較的縁の薄い人生でした。若い頃に病気をしたのが主な原因ですが、男性として生きるよりも人間として生きていかなくてはならないことが多かったと思います。また恵まれたことに人間的価値について学ぶ機会が得られたことにより、私のアイデンティティーは男性であることよりも人間であることの方に近いでしょう。実際のところ、もし「自分から男を引いたら残るものがわからない」人や「自分から女を引いたら残るものがわからない」人は、人間的価値あるいは人間について深く学ぶべきだと思います。誤解をされそうなので書くのに少し気を使いますが、50歳をすぎれば男性も女性も生物学的(つまり生殖的)にはほとんど価値がなくなるとされます。しかし人間は動物のように生きるために存在しているわけではありませんので、生殖的に価値がなくなっても人間としての価値は影響を受けません。人間は動物のように生きるためにあるのではないということを理解するために若い時期から人間的価値、人間性について学ぶ必要はありますし、思秋期以降の存在意義を見失わないためにも、ある程度年を取ってから人間的価値、人間性について学ぶ価値は十分あります。自分を人間であるというならば、当然人間についての理解は必要なのですから。

憐れみについて

 

今日は憐れみについて書いてみたいと思います。とはいっても考えがまとまっているわけではなく、随想のようなものになると思います。

 

なぜ憐れみについて書いてみようと思ったかといえば、私には怒りという欠点があるのですが、しかし人によっては怒ることがほとんどない人がいるようで、怒るより憐れんでしまうとその人が意見していたからです。そうなのかと思いました。実のところ私は50年以上生きてきて人を憐れむということをほとんどしたことがありません。誰かを憐れむとき、その相手を自分より下の人だと思わないといけないからだと思います。また私が人生で関わってきた多くの人も憐れみを示す人はあまりいなかったような気がします。江戸時代に生類憐れみの令というのがありましたが、しかし憐れみというのはそれほど日本人には馴染みがなく、むしろキリスト教と馴染みが深いかもしれません。それというのも、憐れみについて調べていたら、キリスト教者の説教に多く行き当たったからです。

 

私は人に接するとき、大概どんな子どもやどんな境遇の人であっても最低限自分と対等の人かあるいは敬意をもって見るか、あるいはその人のうちに神を見るように心がけています。ほとんどの人間関係はそれでうまくいっていて問題はないのですが、たまに自分の予測がつかない人がいて、常識から外れた対応をされることがあります。数回ならばやり過ごすのですが、それが何度も何度も重なると、人間がまだ未熟なので、イライラしたり腹が立つことがあるのです。誠に私の勝手でしかないのですが、敬意を示している相手が軽蔑に値するようなことを繰り返すと相手が許せなくなってしまうのです。すばやく気持ちを切り替えて相手を軽蔑するようなことは私はしてきませんでした。相手を尊重したまま何とか問題を解決しようという努力を重ねることがほとんどでした。しかしこの態度がときに大きなストレスになっていたのは間違いありません。

 

一方怒りという感情をほとんどもたない人の中には憐れみという感情をもつことがあると知りました。基本的に憐れみは相手を下に見るという前提があるような気がするのですが、それは私の受け取りの問題で、憐れみというのはそういうものではないという人もいるでしょう。キリスト教では神は罪を犯す人間を憐れむようで、神と人間とならこの場合憐れみという言葉は適切でしょう。聖書に書かれた神のご指示には、間違いを犯した人を7の70倍赦せとあるようです。これも状況によってはとても困難なことです。しかし相手を憐れむのならばもしかしたら可能なのかもしれません。

 

他人に対して無礼な態度を取る人自体が相手を下に見ていることでしょう。つまり相手を対等な人間だとかあるいは相手の内に神を見ていないわけです。この相手の態度自体は憐れんでもいいかも知れません。しかし私は誰であってもその人の本質が私より劣っていると見ることは少なくとも心理的にできかねます。相手が私を人間としてみていないのならば私が相手を人間として見なくてもいいのかも知れませんが、そうなると争いが生じる可能性が高くなります。

 

正直にいうと怒りという感情は非常によくないとわかっています。一方それに比べて憐れみはどうなのかということです。相手を下に見る態度も同様によくないとは思います。しかしそうでない憐れみというのがあるのかも知れません。相手の態度を悲しみを込めて受け入れるものとしての憐れみ。そうなると憐れみは慈悲に近くなります。怒りがエゴによって生じることは間違いありません。私が怒るのは大概かなり大きな何らかの損害が生じそうなときです。自分の損害の可能性を受け入れて、かつ慈悲のようなものとして相手を憐れむのは今の私には少し難しい課題かもしれないと思ってしまいます。しかし世の中には怒りを示さない人が少ないとしてもいるのですから、私もできるだけ怒りを克服する努力をしなければいけません。そのためのキーワードとして最近憐れみについて少し考える時間がありました。憐れみが積極的に徳であるとみなせるようになれば、私は憐れみを育むようにしたいと思います。