ヴィヴェーカーナンダについて

 

今日は近代インドの聖者であるヴィヴェーカーナンダについて書いてみます。これまでこのブログで何回か彼に触れていますが、改めて彼について書いてみる気になりました。というのも、昨年の秋に私は小倉駅の古本市で彼に関する本を2冊手に入れ、そして少し前にそれを読み終えたからです。その2冊とは日本ヴェーダーンタ協会から出ている『シカゴ講演集』と『立ち上がれ 目覚めよ』(Arise Awake)です。だいぶ前から関心のあった本ですが、古本市で見かけて思わず手に取り買ってしまいました。

 

1893年にヴィヴェーカーナンダはシカゴで開かれた世界宗教会議で講演を行い、たちまちその名が世界にとどろくこととなりました。その時の講演集が『シカゴ講演集』です。ヴィヴェーカーナンダは特にインドでは霊性の獅子(ライオン)(spiritual lion)といわれますが、まさにライオンが吠えるかのような講演内容になっています。その中の言葉をいくつか取り上げてみたいと思います。

 

「(この事実は、)意識は心という大海のほんの表面であるにすぎず、その奥底には、我々の経験のすべてが蓄積されているのだ、ということを示しています。努力してご覧なさい。それらは現れてきて、あなた方は自分の過去世までも思い出すでしょう。」(p22)
インドではどう受け取られるのかはわかりませんが、私にはとてもユニークな見解に思います。なぜなら、私は自分の過去世を信じてはいますが、それを思い出そうという意欲はほぼないからです。なので過去世を思い出そうという努力をしようという思い自体を抱いたことがありません。ところがヴィヴェーカーナンダは努力すれば過去世は思い出せるといいます。私は意欲がわいてこないので今後もそちらの方面の努力はしないのではないかと思いますが、しかし自らの過去世に非常に強い関心がある方ならば、それは不可能ではないようなので、努力してみるのもいいでしょう。ヴィヴェーカーナンダはそれを励ましてくれます。

 

「多様の中の単一、というのが自然の計画でありまして、ヒンドゥはそれを認識しています。他のあらゆる宗教は特定の教条をもうけ、それを採用することを社会に強要します。」(p41)
ここで多様の中の単一というのはunity in diversityのことでしょう。ヴィヴェーカーナンダの文脈では、特定の教条をもうけ、それを社会に強要することはunity in diversityではありません。多様の中の単一(unity in diversity)ということに関しては大きな誤解があります。私にとっては、外部は多様であって内部は一つであるということです。ハートが一つで肉体は多数ということです。私を内から動機づけているのと同じお方が他の人を内から動機づけているということです。あるいは人は世の中の多様性に長い間もまれながら、いつかは内在する神性に気づかなければならないという命題を言い換えたものととらえることもできるでしょう。必ずしも同一の考えをすることや同じ倫理規範に従うことが多様の中の単一なのではありません。多様なものの中で生きることを通じて一つであるものに気づいていくということです。一定の教条を多数の人がまとうことはたんにその集団がカルトであることを意味しているのではないでしょうか? 誤解する人がいるかもしれませんが、ある組織の規律は規律です。規律を通じて各人がどのような見解に導かれるかは人それぞれでしょう。

 

「シャカ・ムニは、一つも新しいものを説こうとしてきたのではありませんでした。彼もまた、イエスと同様に、完成するために来たのであって、破壊するために来たのではなかったのです。ただ、イエスの場合には彼を理解しなかったのは古い人びと、ユダヤ人であったのに、ブッダの場合には、彼の教えの意味を悟らなかったのは彼自身の信奉者たちでした。ユダヤ教徒旧約聖書の完成を理解しなかったのと同様に、仏教徒は、ヒンドゥの宗教の完成を理解しなかったのでした。」(p52~53)
非常にユニークな見解だと思います。私はこの個所を読むまでこのようなことを語っていた人をただの一人も知りませんでした。日本の密教ヒンドゥー教だといっていた人は知っていますが、仏教がヒンドゥー教の完成だというのは思いもかけない見解でした。このような見方をするならば、仏教の歴史的意義はまったく書き換えられなければなりませんし、しかし日本の仏教関係者たちがこれを認めることが困難であることも理解できます。私はほんのわずかばかりのさわり程度ですが、日本人はあまりにもヒンドゥー教を知りません。

 

ヴィヴェーカーナンダがシカゴで講演をしたのは1893年9月だったようです。そのちょうど100年後の1993年にサティヤサイババの御名が大々的に日本に伝わってきました。今のアメリカの現状を見るにつけ、ヴィヴェーカーナンダの訪米は、彼の御名を高めはしたものの、アメリカ人たちは彼の語ることを理解できなかったように思われます。一方日本ではサイババの御名が日本に伝わってきて30年が経ちましたが、非常にゆっくりではあるにせよ、彼の神性に関して着実な広がりがみられるようではあります。ヴィヴェーカーナンダは訪問する国を間違えたのかもしれません。

 

もう1冊の本『立ち上がれ 目覚めよ』について触れることができませんでした。こちらも啓発的な内容でいっぱいです。宗教に関してまたインドの霊性に関して理解を深めるのに、彼の書物は非常に役立つことでしょう。関心のある方は手に取ってみるのがいいと思います。

大乗仏典に関連して

 

このブログを公開する2024年5月23日はブッダプールニマです。お釈迦様が生まれた日として世界中で祝われているのがこの季節の満月の日です。プッダプールニマは陰暦(月の暦)で日にちが決まりますが、日本は太陽暦なので概ねプッダプールニマを祝うことはありません。4月8日に固定されています。今日はお釈迦様に関連する日ですので、仏教に関して私が思っていることの一つを取り上げます。それは大乗仏典に関してです。主に上部座仏教圏がブッダプールニマに関りが深いとされますが、日本は大乗仏教圏です。親の読み残していた大乗仏典に関する書物を見ていて、いろいろ思うことがありました。その書物とは『お経の話』(渡辺照宏)です。

 

他の古い書物で見かけたことがありますし、今の学説では否定されているのかもしれませんが、大乗仏典偽教説というのがあります。大乗仏典はお釈迦様の直接の御教えではないという説です。また私が読んだ『お経の話』という本も1967年出版でそれなりに古い本です。ただし渡辺照宏氏は確かな仏教学者です。この『お経の話』という本の中に次のような一節があります。

 

「大乗以外の経典―便宜上、小乗経典とよぶことにしよう―はだいたいにおいて出家教団のために説かれたものであるが、一応、現実の描写を立て前とし、常識の世界からあまりかけ離れていない。その教義は教訓的であり実際的である。神秘や奇跡の要素もないわけではないが、だいたい日常経験の場に統一されている。瞑想(禅定、三昧)を説くが、その霊的体験の内容はあまり語られていない。
大乗経典はさまざまな聴衆を予想しているが、その根本的特質は瞑想の体験の描写であるということができよう。日常経験を超越した世界の体験を生き生きとした具体的な形象によって表現する。たとえば一座の指導者である仏陀が瞑想に入ると、その瞑想中の体験―十方の無数の世界にいる無数の仏陀やボサツやその他の生きものの行動や言語など―を列席者がすべて具体的な形象として把握する。そこには距離や時間やその他の制約はもはや存在しない。したがって瞑想中の仏陀が一言もいわなくても聴衆はさまざまな教えを受けとる。瞑想からさめた仏陀と聴衆との問答はただ補足的な意味を持つにすぎないこともある。」(p120~121)

 

これをどう受け取るかということです。渡辺氏の言葉を見る限り、大乗仏典の内容はお釈迦様の在世中に分かち合われていたような印象を受けます。ただ歴史学者によれば、大乗仏典が編纂されたのはずっと後のことですし、龍樹菩薩がその創始者であるという説があります。ウィキペディアによれば、中村元氏は大乗仏教は諸法の実相を説くことを目的としているといっていたようです。実相とは無形のことのようですし、形のないものを瞑想的表現で表したものが大乗仏典なのだということなのかもしれません。

 

以前このブログで書いたことがあるかもしれませんが、私の性質からすれば大乗仏典の荒唐無稽さ(!?)はあまり好みではありません。私などは大乗仏典はお釈迦様の瞑想の内容ではなく、弟子たちがお釈迦様の御教えを瞑想した上でのお釈迦様の御教えの解釈のような印象を受けさえします。私はお釈迦様とお釈迦様の御教えに価値を置いているのであって、大乗仏典への疑義は払拭しきれていません。

 

たとえば私はサイババの御教えを自分なりに理解して実践し、そこから何らかの果実を得てきましたが、私がこのブログで書くことはサイババの御教えであると主張することはまったくできません。私は多くの時間をサイババの御教えや諸マントラの瞑想に費やしてきましたが、それは私の個人的体験です。サイババサイババ、私は私です。私がサイババに向き合ったことは確かな事実であり、私がサイババに多大な影響を受けたことも事実ですが、サイババの御教えと私の書いていることを混同してはなりません。それと同じように大乗仏典とお釈迦様の御教えは異なる可能性があるのではないかとの思いは消えません。方便という意味で大乗仏典にお釈迦様の御教えが含まれているのは確かかもしれませんが、それ以上のことはよくわかりません。約2500年間にわたり、あるいは日本に伝わってきて1500年近くでしょうが、さまざまな文化を育んできたその価値は尊んでいますが、私は盲目的にあるいは断定的に大乗仏典とお釈迦様を同一視していないでしょう。

 

お釈迦様の御教えをバーラタ(インド)の文化の中で育った方が瞑想授受した場合と、他の文化の中で育った方が瞑想した場合とでは、その記述は異なることでしょう。そのこと自体を理解していれば害はありません。それらはともに立派な仏教といえます。ただそれがお釈迦様の御言葉そのものかといえば、また別です。他の人の信仰を否定するつもりはまったくないのですが、私の性質が大乗仏典を以上のように受け止めるというだけのことです。

 

日本人にはどこか空想的なところがあります。大乗仏教が栄えた地である朝鮮半島(私が知っているのは韓国ですが)の人も文学が好きで空想に淫するのは日本に少し似ています。物語好きな点が共通しています。世界各地のことは知りませんが、日本と朝鮮半島に大乗仏典が与えた影響はありそうです。

 

もしかしたら、最新の学説に従えば、大乗仏典に関してまた別の考え方をするかもしれません。今日書いたことは一つの観点の提示と受け取っていただければ幸いです。

歴史について

 

今日は歴史について思うことを書いてみます。読んでいただけるとわかると思いますが、私は比較的歴史を意識した人生を歩んできましたし、またそこから多くを学んできました。歴史は私の生活に非常になじみのあるものです。霊性を私の人生の表テーマといえば、歴史はもしかしたら裏テーマといえるくらいかもしれません。必ずしも歴史に関して造詣が深いわけではないのですが、さまざまに私の人生を規定してきました。

 

私は本州最西端の下関に縁があります。ある種の人は東京と地方というような言い方で地方をひとくくりにするような乱暴な考えをもっていますが、メディアの影響で少しばかりは画一化された面はあるにしろ、しかし土地土地の個性は実にさまざまです。そして私が縁がある下関もそうです。下関は日本の歴史の転換期にほぼ必ず顔を出します。古事記にはこの地に都が一時的に置かれていたことが書かれていますし、源氏が平家を滅ぼし全国の支配層が総入れ替えになりましたが、平家が滅んだのは関門海峡の地です。平家に関係する伝承が下関にはかなりあります。室町から江戸時代に移る時期においては、豊臣秀吉朝鮮出兵巌流島の戦いなどのエピソードがあります。幕末期には各地の維新の志士たちがこの地をさまざまに行き来しました。また大陸と近いことから朝鮮半島や中国大陸との行き来が今もあります。これらは日本人の多くの人たちが知っている歴史的事実ですが、小さなエピソードに関しましてはこの何倍もの歴史的遺産があります。今では人口が30万人をだいぶ切る中規模の都市ですが、規模に比べてその歴史的遺産の量は世界的なものといえるかもしれません。それら一々に関して書くならば、かなりの量になるので今日は書きませんが、下関の街を歩いたり、住んだりしてみれば、日常的に意識は何百年の時間や国境を越えていきます。

 

さて日本に限らず世界は物語であふれています。いや中毒するほどに危険なほどです。しかしながら私はあまり物語に関心をもたない人間であったので、その影響をあまり受けていないでしょう。しかし歴史history=His story(彼=超越者の物語)は別です。人間が作る物語は底が知れるものです。しかし事実は小説より奇なりといわれるように、実際に起こったことは人によってさまざまな受け取り方が可能です。歴史は西洋の哲学用語である「物自体」であるという人もいます。物自体とは存在に近い意味です。それは記号ではなく記号以前です。自然科学に似て実証的な面が強いです。歴史というものは底深いもので、それはまさにHis story(神の物語)(サイババ)といわれるゆえんです。

 

私はこれまでの人生で特に数学の歴史、黒船来航以来の日本の精神史に関心があったといえます。他にも日本通史やコーヒーの歴史、仏教史などの本も読んできました。今は市場(マーケット)をどう受け取るかという経済思想史に少し関心があります。ただ本を読んできただけではありません。それらが人生に大きな変化をもたらしてきました。歴史には実践的な要素が多分にあります。

 

たとえば仏教には末法という言葉があり、バーラタ(インド)にはカリユガ(闘争の時代)という言葉があります。似た意味の言葉です。今はカリユガの転換点だとされます。人間は皆アヴァター(神の化身)だというのがバーラタの思想ですが、その中で特にユガアヴァターという存在がいます。ユガアヴァターとはその存在がユガ(時代)を区切るという意味です。クリシュナはユガアヴァターとされます。彼が肉体を脱いだ(死んだ)年にカリユガが始まったとされます。約5000年前です。そしてサイババもユガアヴァターだとされます。いろいろな説がありますが、私が理解している範囲では、サイババの登場した現代はカリユガの折り返し地点です。最悪の時代は過ぎ去って、小さな変動はあるにしろこれから少しずつ時代はよくなっていき、約5000年後に黄金時代(クリタユガ)が到来すると私は受け止めています。バーラタについて全く知らない人にとっては奇妙な珍説かもしれませんが。こういう歴史観が私の人生に大きな影響を与えることは間違いありません。

 

歴史は単に過去のことではなく、未来への展望をもたらします。歴史は過去において何が起こったかを示しますが、それはただ何が起こったかだけでなく、何が実現されていないかも示します。つまりそこには未来への可能性が見て取れるのです。私の好きな歴史学者の一人に加藤陽子氏がいますが、彼女は「歴史の醍醐味と役割は、過去を正確に描きながらも、未来を作り出す力があるところだと思います。」との言葉を残されているようです。歴史は可能性の一つが実現されたものです。未来は不確かです。歴史を学ぶことで不確かで可能性がいかようにもある未来がうかがえます。私の人生はそのような人生でもありました。


私は自然に歴史になじんでいましたが、これを読む人にも何らかの歴史に関心をもってもらえたらと少しばかり思います。何の歴史でも構いません。地域の歴史、家の歴史、お茶の歴史、建築の歴史、関心のある国の歴史、ゲームの歴史などなんでも関心のあるものでいいと思います。アマゾンで検索すれば、新書でもさまざまな歴史について書かれたものがあることがわかります。人は社会の歯車であります(どの人もその人がいないと社会が正常に機能しないという意味)が、また過去を未来につなげる歴史の歯車でもあると思うのです。自分や親世代の文化を子どもたちに伝えることは実際にそういうことを意味します。私ほどには歴史に関心のない人が多いかもしれませんが、私は歴史から多くを引き出し人生を豊かにしてきたのは間違いありません。何らかの参考になればと思います。

人生の意味2

 

約1年ほど前に人生の意味について書きました。

aitasaka.hatenablog.com

そちらに書いてある通りなのですが、少しばかり補足的なことを今日は書いておきます。

 

前回の記事の中に次のような引用があります。
"Perfect freedom is not given to any men on earth because the very meaning of mortal life is a relationship with and dependence on another."
(完全な自由は地上の誰にも与えられていません。なぜなら、この世における人生の意味自体が、他者と互いに関わり合い、依存し合うことにあるからです。)(1979.10.20)(『プレマダーラ 愛の流れ』p62)

 

基本的にこの通りなのだと思います。人間はある意味不完全だということです。つまりは人間は皆ある種の障害者なのです。科学技術は障害者のためにも有用ですが、そもそも人間皆が障害者なのですから、自然に自然に反する人間存在にとって科学技術はある種とても人間的です。私は若いころ科学技術に対して反感をもっていて、人間は自然に還るべきだというような考えを強くもっていましたが、年を取って、また私が健康を害しある種障害を自覚するするようになって科学技術と折り合いをつけることができるようになりました。私はサイババを敬愛していますが、サイババは最後の8年間ほど車いすの生活を送ることが多く、それは私には障害者としての生き方、障害者への慈しみを示しているように感じたものです。不完全さに関しましては、私はゲーテルの不完全性定理に大いに関心をもってきましたが、それは論理学の不完全さ、理性(reasoning)の限界を示唆するものですが、それに加え人間は存在の不完全さにも思いをはせるべきです。ジグソーパズルは一つ一つのピースに出っ張っているところと凹んでいるところがあり、それらが互いに補い合いながら一つの絵を作りますが、人間社会もそれに似て個々の人間が何らかの形で補いあいながら形成されるものです。

 

さてさらに付け加えますと、似た言葉にoperation(操作)とcooperation(協力)があります。依存関係にある人間に求められることは、基本的にcooperation(協力)の方です。operation(操作)とは何らかの形での権力の行使といえるでしょう。現代社会が生きがたく感じるのは、社会にoperationが満ちていて、cooperationが欠けているからです。SNSを見ているとしばしば見かける言葉ですが、DVとかマウントとかというのはoperationつまり自分の好きなように人を操作しようとすることです。もちろん特に大きな社会集団になると政治的決断をせざるを得ないことはあり、往々にして政治的決断にはそれで利益を得る人と一時的に損失を被る人がいて、それもoperationの一種といえますが、しかし私は現状最低限の政治的判断は人間社会に必要だと思っていますので、定められた手続きに沿った形での政治は尊重しています。私は政治家とかかわりをもっていませんし、また特定の政治活動をしているつもりもなく、例えば国会で法律が定められたら基本的にそれに対して協力的(cooperative)な態度でいたいと思っています。大切なのはあらゆる場における協力的な態度でしょう。自分で自分の面倒を見ることから始まって、家族、地域社会、職場などなどでできる範囲で補いあうということです。operationではなくcooperationがより広がれば、世の中はもっと住みやすくなるはずです。少人数の手本からそれは広まっていくのかもしれません。

 

1年ほど前に書いた記事に関連して、諸関係からの解放ということがあります。人間関係の網の目からどのようにして解放されるのかということです。一つの考え方として全託というものがあります。全託は超越者にすべてを委ねることというような意味ですが、つまりその場合関係は自分と超越者との関係だけになります。全託はたやすいものではありませんが、物事をシンプルにしたい人にとっては全託に挑戦することは一つの選択です。一生をかけて取り組むだけの価値はあるでしょう。私は未だに十分な理解と実践ができていません。

 

人生の意味に関連して、生きがいという言葉があります。世の中にはこの生きがいという言葉を好む人がいるのを私は知っています。生きがいという言葉が広まったのは神谷美恵子氏によるところが多いでしょうが、私は神谷氏の著書を読んだことはありますが、生きがいという言葉は私にはしっくりこない、あるいはあまりピンとこない言葉、概念です。何かに携わっていることに人生をかける甲斐があるというようなことでしょうが、その携わることに霊的な理解や観点がなければあまり意味がないと思うのです。実際のところ、私にはこれが生きがいであるというようなものはありません。

 

人生の意味について人は深く悩むのかもしれません。たとえば大きな困難や苦痛に直面した際、困難や苦痛自体よりも、それらに何の意味があるのかわからないことがより苦しいと感じるかもしれません。私は今人生の意味について迷うことはほぼありませんが、私の書くものによって、読む人の悩みが少しでも軽減されればうれしく思います。

八正道2

 

もう過ぎてしまいましたが、4月8日は花祭りであり、お釈迦様について考える機会がありましたので、今日はその中心となる御教えの八正道について書いてみます。八正道についてはかつて書いたことがありますが、少し視点の異なるものです。

 

仏教では仏(ほとけ)といわれます。厳密さは欠いていますが、少なくない人は仏(ほとけ)様を神様と似たようなニュアンスでとらえています。仏教はぶっきょうと読みますが、仏は「ぶつ」とも読みます。なぜならばお釈迦様はブッディを備え体現されていた方だったので仏陀と呼ばれた、と私は当たり前に受け取っています。ブッディはインドの言葉で識別、知性などの意味です。プラグニャーナ(般若)と受け取ってもいいかもしれません。ブッダムシャラナムガッチャーミ(仏陀に帰依し奉る)といいますが、ブッダをお釈迦様ご本人と理解することもできれば、(自らに備わっている)ブッディを避け所とします、という宣言でもあります。

 

ブッディとはその人の存在であるアートマと肉体(とそれに付随する頭脳マインド)をつなげるものです。ブッディがあるから肉体そして頭脳はアートマからエネルギーを引き出して機能することができます。電化製品のコンセントを差し込めば電化製品が機能するように、ブッディは人間という機械が機能するためのスイッチです。ブッディはアートマから生じアートマと肉体をつなげます。

 

このブッディの開発が八正道なのだと思っています。海から蒸発した水は雲となり、雲は大地に雨をもたらします。大地に降った雨は小川となり川となりもとの大海を目指します。川は大地を流れますが、日本の農村地帯を見ればわかるように、川の水は各田畑へとひかれており、水路は大地に張り巡らされています。ブッディは川のようです。大地=肉体への恵みとしてあります。

 

ブッディは知性として受け取られることが多いのですが、それ自体がアートマと肉体との間に通じる道でもあります。それは知識というよりは歩かれるべき道であり、その道こそを八正道と受け取ってもいいのではないでしょうか? ブッダムシャラナムガッチャーミとは、ブッダム=ブッディをシャラナム=避け所と受け取りガッチャーミー=その道を歩みます、という意味です。つまり私流の解釈では、ブッダムシャラナムガッチャーミーとは、八正道の道を歩んで、最終的に正定(瞑想の境地、ニルヴァーナ)に向かいますという宣言です。

 

正見、正思、正語、正業などのように感覚器官や思いと言葉と行動の浄化がまずはあります。それらの調和が正命であり、正精進(サーダナ)、正念(目的地を正しく思い描くこと)、正定が続きます。正は正しいと受け取ることはできますがサンスクリット語ではサムヤクという語であり、清らかな、適切なというような意味でしょう。サムヤクドリシュティのドリシュティは視覚という意味で、合わせて正見と訳されます。

 

常々感じていますが、賢くありたいと思っている人があまりに多いと思います。それはそれでいいのですが、肉体の機能は人さまざまで誰もがオリンピック選手になれるわけでもなく、肉体の特定の機能を競いあう必要性が特にあるわけではありません。同様に知能の機能も人さまざまで誰もが学者になれるわけではありません。知能には個性があります。大切なのは知能の個性を活かすことです。Purity is enlightment.(純粋性が悟り、開眼である。)といわれますが、大切なのは知能にこびりついた油汚れのようなものを取り除いて、知能が当たり前に機能するようにすることが大切なわけです。オリンピック選手並みの運動能力がなくても生活できるように、知能がとびぬけていなくても人間として問題はないわけです。少なくとも私は難しい言葉や概念を用いなくてもやっていけています。正見とは汚れを取り除いた時の見え方のことで、正思、正語、正業はエゴがない状態での思いと言葉と行動のことです。自由になろうと努力するのではなく、束縛を取り除くようにすべきだといわれますが、同じように、正しくあろうとするのではなく汚れを取り除くようにすべきだということです。これが果たされたときにアートマは肉体に完全に反映される=正定というわけです。これがブッディでしょう。

 

インドには九つの帰依の道やアシュタンガヨガ(八つのヨガ)の道があり、多くの人がそれを実践しています。それに類するものとして八正道はとらえられるべきもので、特に仏教徒はそうでしょう。宗派に関係なく一般の人が日常生活で八正道を実践していいですし、一般の人にわかりやすい八正道の解説書が巷にあふれていてもいいように思います。私は常に念頭にあったわけではありませんが、振り返って八正道を実践してきた面はあると思います。アートマの実現(atma realization)という目的をかなえてくれるものでもあります。そしてこれこそが仏教です。

マスタープランとプラン

 

今日はマスタープランについて書いてみます。マスタープランは日本語では次のような意味があります。主に都市計画などで使われることが多いようですが、「基本となる計画、基本設計」を意味するようです。英語では次のような意味がありました。「an organized set of decisions made by one person or a team of people about how to do something in the future」(未来においてどのように物事を行うかに関してチームあるいは一人の人によって形成された決定の束)。二つのニュアンスは異なると思うのですが、どちらかといえば英語の意味に近いマスタープランについて述べてみます。

 

都市計画や企業経営において計画の枠組みがあると思いますが、ある程度年齢を重ねて振り返ってみたときに、人生にも(個々人の人生であれ、社会の趨勢に関係するものであれ、広く歴史に関係するものであれ)何らかの筋書きのようなものがあったと感じることがあります。それを人生におけるマスタープランであるととらえてみましょう。多分サイババは「The 'Master' has a 'Master plan'.(主人MasterにはマスタープランMaster plan)があります。)といっていたと思うのですが、私のような運命論者はそのようなマスタープランを生きてきたと思うほかないわけです。マスターのなした計画、歴史をえがくものと同じお方が個々人の運命の細部までなされた計画があるわけです。しかし人間はマスターのなされた計画を人間のレベルでのカテゴリー、つまりマインド(思考)のレベルで受け取ってしまいます。


たとえば次のような言葉があります。「Stop Thinking ; Start Chanting ; Solve Everything...」(考えるのをやめなさい。(御名を)唱えなさい。すべてが解決されます。)人間は考えます。chanting(称名)という霊的行為は人間のレベルより上を希求する行為です。プランは人間のレベルです。霊的な行為はプランよりもマスタープランに近いものです。

 

次のような言葉もあります。「Love is wiser than wisdom. If you have to choose between being kind and being right, choose being kind and you will always be right.」(愛は英知よりも賢いものです。もしあなたが親切であることと正しくあることのどちらかを選ばなければならないとしたら、親切であることを選びなさい。そうすればあなたはいつも正しくあるでしょう。)この二つの英文は元は別々の言葉です。しかしつなげて考えると納得のいくことがあります。一般に賢くありたい人は英知を求めます。しかし愛の道を歩む方が英知の人より賢いというのが前半の文の意味するところです。後半の文はその具体例と受け取ることができます。賢くあろうとすることは人間的です。しかし愛は神的です。賢くあろうとすることはせいぜい人間のプランですが、愛はマスタープランです。

 

Masterは主のことです。主の御意志や計画は普通の人間にはわかるものではありません。しかしもし御名を唱えるような霊的行為や、愛のような価値を実践することをマスタープランととらえてたとしても、それほど主の御意志から外れたものではないと思うのです。川は両岸の堤防の範囲内であるならば、どこを流れても構いません。それは自由です。両岸の堤防がマスタープランです。人間はその範囲内で自由にプランを立てて生きることができます。牛は柵に囲まれた範囲内では自由に草を食むことができます。柵はマスタープランです。その範囲内で自由に生きることはプランです。人間とは体や感覚、心、知性などの構成要素が一つに有機的に構成されたものですが、人間的価値とはそれらの制限内でそれらを適切な目的に向けて活用することです。たとえば愛や真実や正しい行いのことです。これらはマスタープランです。自らが置かれている状況においてこれらの価値を個別に適用するやり方はある程度自由であるかもしれません。サーダナやヨーガのような霊的規律もマスタープランです。同じサーダナを行うにしても、個々人の進歩の度合いによってその効果はさまざまかもしれません。これら一連に関することはプランです。

 

マスタープランとプランの二つの概念は、運命と自由に関係しているように思えます。人間は自分は自由であると強力に主張するかもしれませんが、しかしながらマスタープランという概念に意識が向けば、少しは運命論について理解が進むかもしれません。そして運命論を受け入れることができるようにならば、単に考えたことに振り回されるのではなくさまざまな価値(人間的価値や霊的価値、倫理的価値など)に目が向くようになると思うのです。

シヴァマントラについて

 

毎年この頃の新月前日はバーラタ(インド)においてマハーシヴァラートリーが行われます。マハーは「偉大なる」という意味で、シヴァはシヴァ神のことでラートリーは夜という意味です。簡単にいえばシヴァを思いながら夜を過ごす日のことです。シヴァラートリーは新月ごとにありますが、その中で最も重要なのがマハーシヴァラートリーだとされます。今年は3月9日がマハーシヴァラートリーだったと思います。今日はそれに関連して、私が憶念することの多いシヴァに関するマントラについて触れてみます。一つはオーム ナマ シヴァーヤで、もう一つはシヴォーハムです。

 

まずはオーム ナマ シヴァーヤです。ナマはナモー(帰命する)という意味で、シヴァーヤはシヴァ神にという意味です。オームはこのナマシヴァーヤというマントラに力を与えます。まとめて「シヴァ神に帰命いたします。」という意味になります。シヴァ神はバーラタでは創造維持破壊のうち破壊をつかさどる神様だとされているようです。この世のものをよく観察してみれば、すべてのものが最終的に無(認識の枠外)に帰していきます。最後はもと来たところに帰るのです。この世は循環によって成り立っています。その最初と最後をつなげる神様がシヴァ神です。私はわかりやすくシヴァ神は片付けの神様だと思っています。

 

片付けを肉体・物質レベル、心のレベル、存在・魂のレベルで考えてみます。肉体・物質のレベルでいえば、私たちは日々肉体の清潔を保ったり、さまざまな場所の掃除や片づけをしています。ある程度肉体や住む環境などがきれいになっていないと生活がうまくいきません。そういうレベルの清潔を保ち、創造的な活動の準備をします。心のレベルの清浄に関しては、肉体・物質レベルよりはわかりにくいかもしれません。心がきれいとか汚れているということに日本の教育はほとんど配慮していません。実際の生活やメディアではさまざまに不必要なことが表現され、そういうものの印象が記憶に積み重なっていきます。印象が積み重なるということは自然現象なので仕方ありませんが、部屋にホコリが積み重なって汚れるように、心もそうやって汚れていきます。心が汚れているかどうかは、よこしまな思いがわいてくることが多いかどうかを観察してみればわかるかもしれません。よくない思いについつい浸ってしまうのも心の汚れの印です。心が汚れてしまった場合、どうすればそれが浄化されるのか、日本人の99%は知らないかもしれません。臭いものにふたをしても、汚れが取り除かれるわけではありません。心の掃除の仕方というものがあります。それはつまりサーダナ(霊性修行)です。御名を唱えたり、瞑想したり、礼拝したり、奉仕をしたり、祈りを捧げそれに従って生きる努力をしたりなどなどの行のことです。これらによって、少しずつですが心の汚れは取り除かれていきます。それでは存在・魂のレベルの汚れとは何でしょうか? ヴァサナ(過去生から受け継いだ潜在的傾向)ともいわれますが、今日は過去生から引き継いだカルマ(業)のことを取り上げておきましょう。人間として生まれてくるのは、過去生の善悪の行為の結果だとされます。悪い行いの結果だけでなく、善い行いの結果が残っていても生まれてくるようです。このレベルの清浄つまりカルマを取り除くにはどうすればいいのでしょうか? 私は義務と犠牲だと思っています。自らのカルマにふさわしい人とこの世において縁があることが多いでしょう。特定の人との間にカルマの負債があったりするのです。ならばその人との間のカルマを清算するには義務を果たすことが適切だと思うのです。また犠牲とは、エゴや憎悪、プライドなどを出さずに自らが受けた何らかの害を身をもって受け止めるということ、行為の結果に執着せず必要な状況において手放すものを手放すということです。許しや無執着の類です。このような三つのレベルの汚れを取り除くのを助けて下さるのがシヴァ神です。私はシヴァ神は片付けの神様だと思ってオーム ナマ シヴァーヤというマントラを唱えたり書いたりすることがあります。

 

次にシヴォーハムというマントラについてです。シヴァである私(アハム)、つまり「私はシヴァである」という意味のマントラです。アハム ブラフマースミ(私はブラフマンである)と趣旨は同じです。シヴァ神と私という二元性ではなく、シヴァと私は一つという一元性について触れています。川が上流から流れていき河口において海と最終的に合流するその姿のことです。私とシヴァ神の区別がなくなります。私がシヴァ神に融合するのは、シヴァ神の御教えを実践してシヴァ神の性質を自らに取り入れる努力によってなされるでしょう。一方シヴァ神の側からの私(人間)をシヴァ自らと一つにさせようという作用もあります。たとえば私が食物を口にしてそれを噛み胃に送れば、それは消化されて体の隅々にまで食物のエッセンスは届けられます。それと同じように、シヴァ神は私たちを「食べて」います。自然界には食物連鎖というものがありますが、進化の頂点にある人間はシヴァ神によって食べられます。それは人生で出会うさまざまな苦痛のことです。普通に生きていて、何で自分がこんな目に合うのかと思うことはあるでしょうが、それはシヴァ神が私たち(のエゴ)を食べているのだと受け止めています。そしてそれを通じて私たちをシヴァご自身の一部にしようとしている、そういうこともあると思っています。この世のことは時間が解決してくれます。苦痛はいつかは過ぎ去ると思って耐え、喜びはそれによってこの世への執着を増すことのないように注意し、つまりはバガヴァドギーターにあるように苦楽を等しく見て平穏の内に生きるのがいいでしょう。

 

私は移り気なのかもしれませんが、さまざまなマントラを唱えたり書いたりしています。オーム ナマ シヴァーヤやシヴォーハムを唱えるとき、たとえば今回書いたようなことを思いながら唱えているわけです。これはやってみたことのない人にはわからないかもしれませんが、深い満足を与えてくれるサーダナの一つです。マントラをどう理解すればいいか最初はわからないかもしれませんが、マントラへの信仰がありさえすれば、マントラ自体がその意味を開示してくれるといわれています。自分に開示された意味が、自分の人生にとって最も有益な意味であり得ます。普通の言葉と比べて、マントラは唱えるさまざまな人に適した意味を開示してくれるからこそマントラなのです。

神道について2

 

前々回のブログの記事の中で「サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。」と書きました。これは私の偽らざる気持ちです。ここに、「いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。」とあります。伝統芸能ですとその多くは決まりきった様式や形式を踏襲しているのですが、人生というのは活きものですので、時代の風潮やかかわる人が変わってくると、それに応じた振る舞いを多少なりとも調整しなくてはなりません。「日々是新なれば日々是好日なり…」(松下幸之助)という言葉があるようですが、これは日々元旦のように新しい日であるならば、それはおめでたい一日だという理解ができるようです。日々新たであるならば、それに応じた新たな人生を心がけようともいえます。それを新たなダンスのステップと私は表現したわけです。

 

さて私は今年の正月に広島に行き神楽を初めてみてきました。かつて島根県を旅行した時に神楽の存在が身近であることを知り、最近になって広島県も同様に神楽が盛んであり、また伝統芸能にしては比較的手ごろな料金で楽しめることがわかったので、広島に行ってきました。私は一通り日本の伝統芸能のことを知っておきたいと思っており、歌舞伎や文楽を見に行ったことがあります。能・狂言はテレビでしか見たことがありません。能・狂言はその身体所作に感じるものはありますが、歌舞伎、文楽とともにある程度の知識もない私は、ただ見ただけでは理解できませんでした。しかしながら神楽は違いました。神楽は基本的に歌舞つまり歌(音楽)と舞です。現代のように物語に中毒するほど物語が氾濫している時代にあって、神楽のストーリー、物語性は極めてシンプルです。会場に入場する時に渡されたチラシに書かれていることを読んだだけで十分でした。45分くらいの公演における筋書きはほんの100字程度かもしれません。あとは音楽と舞を楽しむことに注がれました。これほどまでに物語性の負担を感じない芸能は初めてでした。新鮮な驚きです。そうであって、音楽と舞で十二分に楽しめます。私だけでなく、私の近くにいた、多分初めて見ただろう人の口からも「すごいな」という言葉がこぼれていました。

 

一説によると神楽は、岩戸に隠れたアマテラスオオミカミに岩戸から出てきてもらうようアメノウズメが舞った舞が起源だとのことです。それによって世界に光が再び差し救われたとされます。神楽は神道に関係があるといえます。神楽といえば宮崎の高千穂も有名ですし、島根県の岩見神楽も出雲から遠くはありません。さて、私はかつて「神道に教義はありません。ただ踊るだけです。」と神職の方が述べていたのを読んだことがあり、それがずいぶん心に残っていました。神道からすれば仏教や儒教は理屈が多いのでしょう。神道はあれやこれやと理屈はいわないという風にも理解できますが、しかしここで「踊る」というのがキーワードになってきます。先に私は日々新たなダンスのステップを習っているようだという言葉を取り上げましたが、結局のところ「ただ踊るだけです」というのはそういうことでもあると思うのです。神道といえば初詣ですが、新年を迎えた時のように清らかな心で新たな舞を習う、舞うということが肝要なのでしょう。

 

私にとっては、新たなダンスのステップを習うというのは全託と関係します。慣れていない初めての世界に飛び込むわけです。これこそが人生であるとはいえます。また、この世は神様が自ら芝居を演出し、自らが出演し、自らが見て楽しんでいる巨大な芝居だという意見もあります。ただ演じるだけ。それも神道でしょう。こう書くと底が浅い宗教のようではありますが、一生にわたってそれが可能であるためには、それなりの修練が求められるような気はします。かなりの程度の心の清らかさです。神道においてそれがどのようにして確保されているのかは知りませんが、「ただ踊るだけです」という指摘に忠実であろうとすれば、それなりに大変なところがあるように思えます。

神道について1

 

今日は神道について書いてみます。私のブログを神道で検索すればいくつかの記事は出てきますが、まともに神道について触れたのは約11年前のアマテラスや二宮尊徳を取り上げた記事だけかもしれません。日本における主な宗教は仏教と神道で、多くの人はともになじみがあるでしょうが、私は傾向として仏教系のところがあり、神道に強い関心はもってきませんでした。それでも日本で暮らしていますと、神道について考える機会は時にあります。今日はそれらについて簡単にまとめてみたいと思います。

 

多くの人はそうなのかもしれませんが、私は初参りの神社の氏子です。地方ではありますが都市部の神社でして、氏子ではありますが、氏子であることを実感したことはこれまで一度もありません。初詣などで通うことはありましたが、その程度です。後に農村部に住むことになり、そこで暮らしてみると、地域の方々が氏神様と強い関係があることを知りました。氏子であるということは、人によって程度は異なるかもしれませんが、生活にそれなりの影響をもたらしているように見受けられます。そもそも古代日本においては稲のもみを配ることによって朝廷は日本を支配したという意見を読んだことがありますが、米の生産と神社との間にはそれなりの関係があるのでしょう。農村部では今も神社が人々の生活により関係しています。

 

神社といえば神道であり、神道古事記などの神話と関係しています。古事記に出てくる神様と関係する神社は多いですが、一方で私の地方に多い八幡宮は外来文化とも関係があるように聞きます。人から聞いた話ですが、古代大陸の文化が九州北部にやってきた際に、古代日本の人はそれをどう受容するかという問題に直面しました。その問題に立ち向かった一つの拠点が英彦山だとされます。博多や北九州と英彦山は平地だけでなく山を通じてもつながっており、修験の地でありました。この英彦山で咀嚼されたものが花開いたのが、県境を越えた大分の宇佐や国東半島であったと聞きます。宇佐八幡宮八幡宮の総本山です。国東半島にはまだ行ったことはありませんが、古い時代の独特な文化が残っているようです。私は比較的英彦山に近いところに住んでいますので、英彦山や宇佐、国東半島の文化に関して今後少しでも学べたらと思っています。大陸との関係の深さは、もしかしたら出雲あたりも大きいでしょうし、しかしそちらに関してはほとんど知りません。

 

英彦山について触れましたが、神道山岳信仰の関係は重要な切り口だと思います。私は山歩きをしますので、山の中に神社があったり、小さな祠があるのをよく知っています。今はすたれていますが、50年前には信仰を生きる人たちが山にかかわっていたのを感じさせる遺構もあります。町中や農村部における神社に比べて、山の中では自然信仰の印象を一層受けます。私は山を歩いているときに感じる自然信仰にはかなりの共感があります。町における神道、農村部における神道、山における神道をみれば、神道が多くのものを包摂してきた歴史を感じます。神道は受容・包摂の宗教であるでしょう。

 

神社におけるご神体はさまざまでしょうが、よく見かけるのは鏡です。三種の神器の一つです。私は思うのですが、神道は鏡の宗教でもあると思います。神社に参ってお祈りをする際、私たちは鏡に向かって祈りを捧げています。鏡は私たちのその祈る姿を映し出します。鏡は私たちの姿と思いと言葉をそのまま私たちに示しているといえます。私たちが何かを祈ると、鏡はそのとおりでありますようにと応えているのかもしれません。私たちの心が清らかであれば、私たちはその清らかさの影響を受けるでしょうし、心が邪であるならば、また私たちはその影響を受けるでしょう。私たちの祈りが真摯なものであるならば、おそらく私たちはその祈りに沿った努力をなすと思います。祈りと異なる努力をなすならば、やはりそれにふさわしい結果になります。鏡はすべてを映し出します。祈ることで私たちは自分を知ることができますし、人生において何をなすべきかが明確になります。西洋では土地や金銭を資本としましたが、日本においては祈りこそが第一の資本です。

 

私はお寺にはかかわっているのですが、神社にはかかわっていません。神道には教義がないとも聞きますが、神社にかかわっていないので、多くを語ることはできません。神道の実際に関して語ることはできないにしろ、実はもう少し思うことはありますが、少し長くなるかもしれませんので、次回に続きを書きたいと思っています。

サイババのカースト

 

私はよく知りませんが、インドにはカーストというものがあります。それとは別にジャーティというものもあるようです。私が大雑把に知っているのは、カーストとは僧侶階級とか為政者階級とかそういうもので、ジャーティとは細かく分かれた職業集団のようなものだろうということです。インドには慣習としてそういうものが残っているのでしょうが、実際のところ世界中にそういうものがあります。日本もです。僧侶階級の人は多分僧侶階級どうして結婚することがまああるようですし、政治家の家系同士の結婚もあります。豊かなものは一般に豊かなものと結婚する傾向がありますし、庶民は庶民と結婚しています。政略結婚の場合当事者はどう思っているのかはわかりませんが、そもそも互いの文化を理解しあえる人を望むのは一般的なことです。職業集団に関しても、特定の職人さん同士は情報交換などで関わることが多いでしょうし、経営者たちの団体というのもあります。社会制度として厳密であるかどうかは別として、カーストやジャーティというものはおおむね世界中で見られます。生まれによる差別は望ましくありませんが、私は何らかの文化集団が文化を維持したり、文化を尊重すること自体は肯定できます。

 

さて今日のタイトルは「サイババカースト」です。サティヤサイババは肉体的なカーストクシャトリヤ階級(為政者の階級)だったようです。私はそういうことに大きな関心があるわけではありません。私が今サイババカーストというとき、それはブラーミン(僧侶階級)、クシャトリヤ(為政者階級)、ヴァイシャ(ビジネス階級)、シュードラ(一般人)のカーストとはまったく異なるものを指しています。ブラーミンなどのカーストは世俗、肉体に関係するものですが、サイババカーストを世俗とは離れた、つまり出世のありようとしてとらえたいのです。サイババの帰依者にはインド人だけでなく、世界各国の人たちがいます。大富豪もいれば著名な政治家もいますし、多くの聖者たちもサイババの帰依者です。もちろん数多くの一般人が彼に帰依しています。そういう意味で、サイババの帰依者集団はカーストを超えているのですが、一方でサイババの帰依者には共通する特徴というものもあります。たとえば毎日瞑想をしているというのも一つでしょう。人の目につくかどうかは別として霊的努力を日々重ねているというのも一つでしょう。長年帰依している人というのはほとんどの人が人当たりが柔らかいものです。不安を抱えておらず明るくポジティブな人が多いという特徴もあります。それはその人の肉体的属性、つまりカーストや国籍、性別、知的レベル、障がいの有無、宗教などに関係しません。

 

カーストは一つ、それは人類というカーストです。
言葉は一つ、それはハートの言葉です。
宗教は一つ、それは愛の宗教です。
神は一つ、それは遍在の神です。

 

というようなことをサイババはよくおっしゃいますが、このような特徴によって記述される社会集団がサイババカーストといえるものです。

 

インドのモディ首相はサイババの帰依者としてよく知られている方です。サイババになじみのない方にはピンときにくいかもしれませんが、サイババの帰依者がモディ氏の言葉を読んでいると特徴的な用語にピンとくることがあります。特に秘密にして隠しているわけではありません。ただどういう文脈でそれが語られているのか伝わってくるわけです。そういう意味では、私にとっては日本の有力者の言葉よりもモディ氏の言葉の方がより深く伝わることがあります。私はモディ氏とは直接的な関係はまったくありませんが、しかしそれでも伝わるものがある、それがいわゆるサイババカーストと呼びたいものです。

 

サイババカーストに属する人ならば、時につらさを感じることがあるにしろ、世間とサイババのはざまで選択を迫られたとき、サイババを選ぶものです。サイババを選ぶとはサイババの御教えを選ぶ、その存在に必死にしがみつくということです。サイババカーストに属する人は、サイババの仕事をします。家業を営んでいる家族の一員はその家業を手伝うようなものです。サイババの仕事とは会社の就業規則で明示されているようなものではありませんが、世俗の風向きとは関係なく、義務に携わり社会奉仕を行うということです。それが身についている人には体験的に理解できるものです。

 

サイババカーストに属する人はサイババが示す人生の目的を理解しており、それを念頭に日々生きています。少し困難ではあるにしろ、サイババを思いながら日々過ごし、すべての行為を捧げています。サイババカーストは僧侶階級のように人々を言葉で導いたり、社会に政治的効果をもたらしたり、富の拡大を第一義とはしていませんが、強いていえば愛を地球上に満たすような働きをもっているといえます。

 

サイババカーストに属する人が世界中にどのくらいいるのか私は知りません。いわゆるサイオーガニゼーションのメンバーとは異なると私は思っており、たとえば日本に数千人くらいいるかもしれず、あるいはほんの10人に少しばかりの程度かもしれません。誰がサイババカーストに属しているかを厳密に知っているのはサイババだけです。サイババカーストに属する人はサイババの仕事をしていればいいわけで、その他のことはすべてサイババが面倒を見てくれます。サイババの人の扱い方は思いもよらないこともあり、何歳になってもなれない部分というのはあります。いつも新たなダンスのステップを習得しなければならないかのような毎日毎年です。人生が終わるときに自分がどうなっているか正直よくわかりません。しかし何万回も生まれ変わる中で、1度くらいはそういう人生を生きてもいいのではないかと思っており、私にはこの人生がそれにふさわしいチャンスでありますので、少しばかり努力しているわけです。そして少なくとも多くの日本人よりは平安を得られていると思っております。

神の遺伝子

 

ここ最近、少し思うことがありました。全託に関連してですが、そもそも親鸞聖人も親鸞聖人なりに全託について語っているとも受け取れますから、真宗にも関係してきます。真宗といえば最近は新しい領解文が話題です。しかし私は新しい領解文に関してはよく思っていません。蓮如上人の領解文こそが真宗の領解文だと今でも思っていますので、領解文そのものに関連してではありませんが、蓮如上人の領解文から一部引用して今日は書きたいと思っています。私なりにアイデアが膨らんだものでして、蓮如上人のお考えの解釈というわけではありません。

 

―もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。

 

これは蓮如上人の領解文の前半です。ここにおいて「たのむ一念」という言葉が出てきます。人によりけりでしょうが、私は非常な苦しみあるいは困苦を経験してきましたので、何はさておき「たのむ」という言葉がもつ意味がそれとなく伝わってきます。もうあなたしかたのむ相手はいないと困窮極まった時の「たのむ」です。真宗ではこの「たのむ一念」のとき往生が定まるとされます。

 

真宗では阿弥陀様をたのみます。別に阿弥陀様でなくてもかまいません。経文類があるからそれをもとに真宗では阿弥陀様にたよるのが正当だとしているわけで、経文類がなくても、人は自分が最も愛するお方、御名をたのむことがあります。その場合でも理屈は同じだと思います。神仏は自らをたのむものを決して見捨てたりはしないでしょう。

 

さて私の場合ですと、にっちもさっちもいかなくなり、自分は病で普通並みの力がなく、どうにもならない状況にあったわけです。そこで私は私の愛するお方をたのむわけです。私がたよったお方は助けてくださいました。今も助けてくださっているでしょう。私がたより続けていくならば、今後も未来永劫にわたって助け面倒を見て下さるでしょう。私にはさまざまに欠けている部分が今もあるわけです。普通の人並みにやっていくにはかなりの困難を伴うわけです。しかしながらなぜだか何とか生活していくことができています。私に欠けている部分を私の愛するお方は補ってくださっている。そういう実感があります。欠けた部分がある私の存在とそれを補ってくださるお方との相互作用により、私の愛するお方の一部が私の一部になったわけです。つまり今現在の私は、ただの欠損のある私ではなく、私の愛するお方からある種臓器移植を受けたかのような、あるいは一種の生殖に似て愛するお方の遺伝子の一部が私の一部になったかのような状態にたとえることができます。

 

人は無機物から植物へ、植物から動物へ、動物から人間へと進化してきました。そして最後に人間は神仏に等しいものへと進化してその進化の旅を終えるといいます。人間から超越者(神仏)への進化の道はさまざまでありましょう。しかしながら、私のような何かが欠けた人間が進化を求めるならば、ただ「たのむ」「たよる」しか他にありません。私がたのんだ時、慈悲の御手が差し出され、その恩寵をありがたく受け取り、その恩寵を真に活かしたならば、私に欠けた部分は超越者の一部で補われ、私は彼の遺伝子を自らの内に取り入れることができます。これが帰依全託の道です。まったく正統ではありませんが、私なりの真宗理解の一解釈ともなりえましょう。

 

遺伝子が自らの一部となるとき、それは血のつながりがあるといいますが、そのように近しい関係を心の内に感じていなければなりません。人の中には、超越者とそのような関係があると感じている人が少しはいます。私の経験からいえば、それは真にたのんだ人こそが実感できるものです。もちろん先ほども述べたように他の道もあるわけですが、私には私のたどった道しか語りえないので、今日は参考までにそのことについて触れてみました。もし仮に私の遺伝子が彼のものですべて置き換わることがあるならば、それもモクシャ(解放)、融合とされるものでしょうが、人はこの道を検討してみる価値はあると思います。