愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

よき仲間とソリチュード(無執着)

 

宗教と個人のありように関してもう少し書いておきたいと思います。こちらのサイババのご講話の4ページ目に次のような詩があります。

https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume39/sss39-12.pdf

 

Satsangatwe nissangathwam, 
Nissangatwe nirmohathwam, 
Nirmohatwe nischalatathwam, 
Nischalatathwe jivanmukti. 
 (Sanskrit sloka)
(Good company leads to detachment;
detachment makes one free from delusion;
freedom from delusion leads to steadiness of mind;
steadiness of mind confers liberation.)
(よき仲間は人を無執着へと導き、
無執着は人を迷妄から解放し、
迷妄からの解放は心の着実さへと導く。
そして心の着実さは人に解脱を与える。)

 

上のサンスクリットの詩は元は不二一元論の大家シャンカラーチャーリヤの詩であったと思うのですが、今確認できません。


サンガは仏教でも使われる言葉ですが仲間という意味です。サットは存在、善というような意味でサットサンガはよき仲間のことです。霊的な道を歩む上で余計な雑音や世間に吹き荒れる暴風の影響から離れるために、インドではサットサンガが勧められています。乾燥したところにおいたコップの水はすぐ蒸発してなくなってしまいますが、水の入ったコップを水の張ったたらいの中に置くとコップの水はなかなか蒸発しません。そのようによき仲間がまず第一に必要だとされます。宗教の仲間もそのようなよき仲間であって、私はこれは好ましいものと思っています。

 

サットサンガ(よき仲間)はニッサンガ(無執着)へと人を導くといいます。ニは否定でニッサンガは仲間をもたないことの意味です。これをソリチュードのことだと解説している人の話を聞いたことがあります。ソリチュードは一人でいて一人の時間を楽しむことです。つまりここでニッサンガはサットサンガ(よき仲間)と長い間過ごすことによって精神的に自立し人間の仲間がいなくても真の友(仲間)=神と過ごせるようになった人のことです。人間関係に執着がなくなったがゆえに無執着と理解されます。よき仲間のおかげで一人の時間(実際は神との時間)を過ごすようになるというわけです。

 

モーハは迷妄という意味で、日本語のバカという語の語源はこのモーハだと聞いたことがあります。これにニ(否定の接頭語)が付き、原理という意味のトワムが後ろに付き、ソリチュードを愛する人は次第に迷妄から解放されると解説されます。神と過ごしているのですから、それ以外のものは退けられるわけです。そして迷妄から解放されるならば、心が揺さぶられること、動揺することは減っていきます。これが心の着実さです。あとは着実な心に従って生き続けていれば解脱(ジーヴァンムクティ=個別性からの解放)に到達するというわけです。

 

宗教と個人との関係はこの詩に表わされているとおりではないかと思います。出発点として生まれたときに宗教=よき仲間の中にあっていいのですが、神との直接的な関係を育んでいくことを通じてソリチュードを楽しむようになります。よき仲間とは関係は続いているかもしれませんが、それは相対的にあまり意味がなくなってきて、むしろ神との直接関係を楽しみます。まずは人間はここまで達していいでしょう。その後の過程は半ば自動的にもたらされます。もしソリチュードを否定されそうになれば、その否定するものは迷妄といえるものではないかと自問していいでしょう。人生において着実な努力=着実な心が育まれたならばかなりの程度人生は成功しています。宗教は人を迷妄で満たすのではなく、人に着実な心を与えなければなりません。あとは地道に神を思いながら歩み続けるのみです。実際にこの人生で解脱に達するかどうかはわからなくはありますが、少なくともこのような着実さ、誠実さがありさえすれば、その人の人生は十分に霊的であったと総括できるでしょう。

 

ほんの4行の詩ですが、お釈迦様のお経以外にもこのように優れた詩がインドにはたくさんあります。私の視野の狭さのせいで詩の意味がぼやけてしまっているかもしれませんので、どうぞ各人が自らの経験に照らして詩を再度味わわれることをおすすめします。

宗教の目的

 

今週は宗教の目的についてです。先週は宗教の枠を出ていかなくてはならないのではないかと述べましたが、私にとって宗教は目的ではなく、ある目的を達成するための手段であるからです。インドや他の国では、大きな葉っぱの上に食事を載せ、食事が終わるとその葉っぱを捨ててしまいます。あるいはセミは脱皮すると抜け殻を放っておきます。私はそれと同じように宗教の体系はその実質を身に着けてしまったならば、相対的に重要性が減っていくと思っています。

 

例えば真宗でしたらその目的は往生であって、教義では信心が定まったときに往生が確定するとされています。ただ信心が定まったならば安心があって、主にこの安心の方が強調されることが多いような気がします。安心が得られるまで主に聴聞を繰り返します。また安心が得られたあとは、喜びを何度も味わうためにやはり聴聞を続けます。安心、味わい、聴聞。これらが真宗の教えの核心なのかなと思っています。これらがあれば、教義の細部にまでこだわることはなくなります。あとは安らかな心で日々の努めに励むだけです。

 

宗教とは何かという話を聞いたことがあります。字義の解説のままなのですが、宗教とは中心となる(宗)教えのことだと説法師の方は仰っていました。経典は1000ページもあろうかというものですが、大切なのはあくまでも中心となる教えなのだと。そうなのかもしれません。

 

他の宗教、宗派では何が目的なのかよく知りません。仏教は解脱=束縛からの解放を目的にしていると思うのですが、曹洞宗では道元禅師は只管打座とおっしゃっていて、座り続けることが目的ではないと思いますが、実際のところ座禅の目的をどこにおいているのか私は恥ずかしながら知りません。座禅そのものは目的ではなく目的を実現するための助けとなるものだと思うのですが、座禅にこだわり続けているとどこかで問題が生じそうです。目的と手段の転倒といいますか。仏教のことはまだわずかばかりはわかりますが、他の宗教のことはほとんどわかりません。キリスト教は何を目的にしているのか?あるいは神道は何を目的にしているのか?

 

サイババはReligion is realization.(宗教は実現です。)といっていたことがあります。私なりにこの言葉を解釈するならば、宗教とはリアルな領域を拡大していくことです。迷妄はリアリティの対極です。迷妄を取り払わなくてはなりません。自分自身もリアルでなくてはなりません。自分自身が存在している感触がなければなりません。わたくしごとをいえば、私は1年前の今日何をしていたかは思い出せませんが、1年前の今日確かに存在していただろうことは知っています。私はお酒に酔って記憶を完全に失ったことがないのですが、お酒に酔って記憶を完全に失った人というのは、その間も自分が存在していたという確信があるのでしょうか?それとも自分の存在が失われているのでしょうか?もし仮に自分が失われているのならば、それは宗教が目指すものとかけ離れています。ヴェーダには神の存在を受け入れない人は自分が存在しているという感覚が失われるというマントラがあります。そうであるならば、自らがリアルなものであるために神を信じることは不可欠で、宗教が神について語っているのは理にかなっています。

 

何事も目的がなければ、それに携わることは空虚な結果をもたらすだけです。宗教もそうです。宗教の儀式は何かを目的としているわけで、儀式自体が目的になれば、むしろ虚無感が広まっていくことでしょう。まだだいぶ先だとしても、宗教の目的を自ら達成する道筋が見えてくる程度までは宗教は必要でしょう。しかしそういう段階まで達したならば、宗教の意義は相対的に低くなっていきます。私はそういう気がしています。完全なる目的の達成の瞬間まで宗教の枠内にいなくても、今までに学んだ宗教の原則を守りつつ自らの力で歩むということは可能なのだと思っています。

宗教の枠を出る

先週は聖職者や師の役割に関して自分が思っていることを書きましたが、ポイントは聖職者や師が信者や弟子と神仏との間の関係のじゃまになってはいけないということでした。今日はそれに関連して、視点の異なることを書きます。

 

よくはわかりませんが、聖職者や師は信者や弟子が自分のいうことを無視して勝手なことを考えてしまうのを好まないかもしれません。自分のいうことに沿った理解をしてほしいと願っているかもしれません。それはそれでいいと思います。私の師はサイババで、直接肉体を通じて対話をしたり、アドバイスをいただいたことはありません。うぬぼれた言い方かもしれませんが、心と心の対話であり続けました。夢は100回はいっていないでしょうが、それに近いほど見ました。言葉のやり取りがあったのはわずかの回数です。私はサイババに関する文献に目を通し、それに反しないように注意しながら人生のさまざまな場面で判断を重ねてきました。約30年にわたるその積み重ねの結果として今があります。サイババは「人は生まれたとき宗教の内にいてもいいけれども、死ぬときはそこから出ていかなくてはならない」というようなことをいっていたと思います。また「ヒンズー教徒はよきヒンズー教徒に、キリスト教徒はよきキリスト教徒に、仏教徒はよき仏教徒になりなさい」というようなこともいっていました。なので私はよき仏教徒であろうとしました。

 

仏教全般について浅く広く理解しようとしていましたが、私の家が真宗門徒だったので、主に浄土系のことを少しばかり知っているような現状です。実際のところ、真宗は瞑想(禅)や礼拝、奉仕などについては特に触れず、もっぱら信心を強調する宗派なのですが、私自身は瞑想を20年続けていますし、毎日仏壇で手を合わせていますし、奉仕にも関心はあります。真宗では雑行雑修は正しくないのですが、私は雑行雑修を取り入れた、むしろ浄土宗的な歩みをしてきた人間です。それは意図的にそうしたのではなく、自らが求めるままに歩んだ道がそうだったのです。浄土真宗的ではなく浄土宗的でしたが、今は真宗が強調する安心は得られていますので、少なくとも私に関しては浄土宗と浄土真宗はそう異なる道ではないのが実証されています。浄土宗的な道を歩んできたけれども、それでも私は自分が真宗の人間だというのは、真宗が絶対的な謙虚さを強調していて、これは絶対に欠かすことはできないと思っているからです。

 

ただし真宗の人間であるといいながらも、真宗の教義から離れたことをこのブログでも書いています。私のような市井の一門徒のことなど実際のところ真宗のお寺の関係者の方は誰も気にしはしないでしょうが。私は一応真宗の伝統をそれなりに尊重してはいますが、さまざまに私を形成してきた日本や他の文化に沿ったものの考え方をしています。自由に思考しようとするならばそうなってしまいます。私は真宗門徒であるということよりも、人間であるということの方が普遍的であると思っていますので、それでいいと思っています。私は自分のことだけでなく、実は他の人に関しても、ある宗教の信徒であることよりも人間であることを尊重してほしいと思っていますが、それは各人の好みに委ねるしかありません。ある宗派から別の宗派へと改宗は可能ですが、人間であるということは一生を通じて変わりません。

 

日本でも生まれて初めてお宮参りをすればそこの氏子とされるかもしれません。クリスチャンの親の子は生まれてまもなく洗礼を受けさせられるのかもしれません。日本だけでなく、生まれてすぐに宗教の枠内に入ることは多くあるでしょう。しかし人が真に誠実に、そして真に自由に思考を重ねていったならば、どこかで宗教の教義と自らの思考にちょっとした差異が生じることは普通にあるでしょう。たとえば私が考えることは、真宗の正統から見れば適切なものではありません。真宗に限らず他の宗派のどこにも受け入れられないこともあるでしょう。しかし私はそれでいいと思っています。たとえば仏教ならその目的は解脱(自由)です。私は自らが少しずつ自由になっているのを感じています。その意味で、教義にこだわるよりも、もしかしたら私の方が仏教の正統なのかもしれません。私は言葉遊びがしたいわけではなく、安心や自由を実際に獲得するような道を歩んできたわけです。宗教の枠内に生きるよりも、このことのほうが大切です。人間であることのほうが大切です。既成の宗教の伝統を破壊する意図はまったくないのですが、それでもある程度年をとったならば、宗派の狭い「枠」を越える程度の成長はあっていいと思うのです。この考えに賛成する人はもしかしたら少ないかもしれませんが、私個人はそれでもいいと思っています。

聖職者、師の役割

 

少し前にカトリックの片柳神父に関する記事を見かけました。こちらです。

shuchi.php.co.jp


片柳弘史著『何を信じて生きるのか』(PHP研究所)の一部を再編集したもののようで、詳しくはそちらを買って読まれるのがいいでしょう。この記事の中で学生と片柳神父が対話されています。その対話の具体的な内容について、どうのこうの思うことはあまりないのですが、一つ気になったことがあります。それは聖職者の役割に関してです。片柳神父はもちろん聖職者で、人々の疑問に対し誠実に答えをかえすことは、普通によくあることなのでしょう。神父の方のみならず、僧侶でもこのような態度は同じなのかもしれません。しかしながら私が僧侶や神父、牧師の方に求めてきたのはこういうことではありませんでした。いえ、悩み深かった頃は人に問い、その問った相手が答えをかえすことは私にもありました。しかしそういうことで私の問題が解決したことはこれまでなかったのです。

 

今はわかります。あくまでも私個人に関してですが、私が求めていたことは目的地を示してもらうことで、その目的地との対話の仕方を教えてもらうことでした。つまり、聖職者あるいは一般に師の仕事は目的地=神、仏を示すことであり、その神や仏と直接対話を重ねることを勧めてほしかったのです。神や仏と自分との間に入ってきてほしくなかったのです。先に取り上げた記事の中では学生の方が「もし本当に神がいるなら、なぜこの世界にはこれほどたくさんの苦しみがあるのでしょう。親に虐待されて死んでゆく子どもを、なぜ神は救わないのですか。自然災害で罪もない人々が死んでゆくのを、なぜ神は黙って見ているのでしょう。」という疑問を示しています。それに対して神父がご自身の考えを参考として述べるのはいいでしょうが、それよりもその学生に神に直接向かって問いかけてみるよう勧めるほうが、時間がかかっても本人の納得する答えを得やすいだろうと私は思っています。その学生が神と直接対話する上で神父の意見は参考になるでしょうし、それはそれでいいと思うのですが、ローマ教皇に聞くよりも神ご自身と直接対話するほうが遥かに実り多く、納得する答えが得られます。聖職者や師は人と神や仏との関係の妨げになってはなりません。

 

ツイッターで見かけたのですが、ソクラテスに次のような言葉があります。
“I cannot teach anybody anything. I can only make them think” - Socrates
(私は誰に対しても何も教えることはできません。私はただ彼らに考えてもらうことしかできません。)
人が人に何かを教えるというのは、もしそれを本当に信じているのならばある種の傲慢かもしれません。私が何かを語ることでそれを聞くものが何かを考えるきっかけとなり、それを通じて人が何らかの結論に達する。このように自分の話を聞く人が内から答えを引き出すよう導くことだけがグル(師)の仕事だとソクラテスはいっているのでしょう。聖職者の仕事は説教ですから、説教を取り上げられれば自らのアイデンティティに関わってきます。何かを語ることはまったく問題ないのですが、問題はその動機です。

 

聖職者や師のいうことを聞く人は、成長してもせいぜいその聖職者や師のレベルまでです。しかし聖職者や師が目的地として神や仏を示し、それとの対話を勧めるならば、人は聖職者や師のレベルを超えて神のレベルにまで達するでしょう。できるならばこのような信者や弟子の成長を望む聖職者や師に出会いたいものです。

 

私は真宗門徒ですので、親鸞聖人の生涯を簡単ですが知っています。親鸞聖人の生涯は苦難の生涯でした。師である法然上人と過ごした時間はわずかで、法然上人と分かれて50年以上もの間、親鸞聖人は一人で思索を重ねてきました。いえ、心の中で阿弥陀様やお釈迦様、法然上人、歴代の高僧方とたった一人で対話を重ねられてきたはずです。法然上人は親鸞聖人に目的地(阿弥陀様)を示し、親鸞聖人は阿弥陀様との対話を重ねられました。親鸞聖人は、自分は弟子を一人ももたないとおっしゃいました。自分が何かを教えることなどできないからです。自分が阿弥陀様と人との間に立ち入ることを嫌ったからです。親鸞聖人の卓越はここから来ていると私は思っています。つまり、現代においても、聖職者や師が信者や弟子に目的地を示し、神や仏との直接対話を積極的に勧めるならば、親鸞聖人レベルの人は山ほど現れるだろうということです。

 

私のように聖職者や師にこのような態度を望む人は日本にはほぼいないかもしれません。聖職者や師の仕事は説教することであると人々は思いこんでいます。自分で考えることのできない人になるのはまったく好ましいことではありません。

文学について

 

私も少しばかりは文学作品を読んだことがあります。若い頃に、ある種はやりというか嗜みの一つとして、試しに読んでみようとほどほどの数の作品を読みました。私は物語の筋を追う読み方をしていて、話が楽しいかそうでないかくらいしかわかりませんでした。いわゆる文芸(文章の芸)を楽しむほどの素養はなく、長じて読むことをあまりしなくなりました。まあまあの数を読んだと思うのですが、今記憶に残っているのは、星野道夫氏の本や沢木耕太郎氏の深夜特急などのような紀行文がほとんどです。純文学は結局のところわからないままです。実は私は非常に驚いたことがあって、それはどういうふうに生きればいいか、あるいは人生の哲学を求めて文学作品を読む人がいるということです。文学に哲学を求めているのです。私にはまったくない発想でした。文学にそういうものを求める人たちが実際に何かを得ていたのかは知りません。今となってみれば、私個人は、文学作品を読んだ時間はかなり無駄な時間だったのではないかという気がしないでもありません。得たというものがないからです。

 

先日「新しい経済」という題で記事を書きましたが、そこでも少し触れましたように、最先端の経済学は少しばかり文学的なようです。経済は一つの物語といえる部分があって、多少なりとも現実を説明しつつも理論の前提である経済人というものが完全な概念ではないので仕方ないところはあると思います。また少し前に新聞を読んでいて日中国交正常化の記事が目に入りました。朝日新聞だったと思いますが、そこには台湾の扱いについて厳密な法律論で合意が得られない部分を文学的表現で曖昧にぼかしたとありました。法律の領域では関係者が完全に合意できていないことに関してはこのように文学的表現が取り入れられることは多々あるのかもしれません。経済学にしろ、法律に関することにしろ、これはこれで一つの知恵であり、このような文学の効用は私は受け入れたいと思います。

 

ただ基本的に今の私は文学を好みません。たとえばコロナ禍ですが、あくまでも私の個人的な見解では科学的にそして政治的に取るべき道はほぼ定まっていると思うのですが、さまざまな意見がメディアを賑わせています。このコロナ禍は医者や理系の大学教授の権威を失墜させましたが、その多くは科学的というよりも私にいわせれば文学的です。うんざりしていました。

 

また少し以前の話になりますが、昭和の時代には今は亡き昭和天皇の戦争責任が話題になることがありました。私も昭和の時代を20年生きてきたのでそのあたりのことは少しだけなら知っています。さまざまな意見があったようです。そして昭和天皇はかつて誰からかは忘れましたが、ご自身の戦争責任に関してご意見を求められたことがあるようです。それに対して昭和天皇は「私は文学的なことはよくわかりません」と答えられたというような話を読んだことがあります。日本人自身の手で太平洋戦争や日中戦争が裁かれたことはないにしろ、一応戦勝国による東京裁判は終わっています。当時の国際法がどのようなものであり、また後の時代の国際法から過去を見たとき当時はどのようにみえるのかなど、私にはわからないことばかりです。しかし日本では多くの議論がなされ、昭和天皇ご自身もその一部は耳にされていただろうとはいえ、「文学的なこと」と表現せざるをえないその気持ちの一端はわかる気がします。

 

つまり現代においては何らかの隙間があれば、そこが文学で満たされるケースが多々あるということです。判断や思考の一時保留です。先にも書きましたように文学の効用はあるものの、あまりに物事を複雑にするのを私は好みません。

 

私は現代において他の芸術に携わるものに比べてなぜ文学者が大きな顔をするのか不思議でならないところがあるのですが、現代の風潮としては彼・彼女らがもてはやされるところがあるのでしょう。私は人生とはシンプルなものだと思っていますので、文学の肩をもつ人がいるのは知っていますが、あまり文学に関わりたくないのが正直な気持ちです。

4つのグニャーナ

 

インドにはグニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナ、プラグニャーナという言葉があります。私は知りませんけれども、もっと多くグニャーナという言葉を含んだ複合語がある可能性はあります。私が知っているのはこの4つです。グニャーナは英知という意味で、他の3つもそれに関係するものです。すべて英知に関係していて、この4つをすべてグニャーナ(英知)といっても大きな問題はないような気がします。しかし今日はこの4つに関して個別に私の個人的な理解を述べたいと思います。

 

この4つの中でヴェーダを唱えていて最もよく出てくるのはやはりグニャーナです。一般的に英知、知恵という意味です。単に知能が高いのとは異なり、物事の本質が理解できていたり、人生の知恵を備えていたり、そういう類のことを表現する言葉です。私はこのブログでしばしば書いていますが、行為の道、帰依の道、英知の道というとき、英知の道にあたります。サイババはシルディ・サイババサティヤ・サイババ、プレマ・サイババの三代にわたって化身するとされていて、シルディ・サイババは行為の道を主に説き、サティヤ・サイババは帰依の道を主に説き、プレマ・サイババは主に英知の道を説くとされます。シルディ・サイババサティヤ・サイババはすでに肉体を離れましたが、おそらくですが、未だ正体を明かしていないプレマ・サイババはいま幼少期でこの地上を歩いているのではないかと思っています。シルディ・サイババは行為の本質として信仰と忍耐を説き、この2つがあるところに帰依があるといいます。サティヤ・サイババは帰依の本質として愛と犠牲を説き、この2つがあるところに英知があるとされます。

 

ヴィグニャーナとは何でしょうか? ヴィ+グニャーナです。ヴィは接頭詞です。「離れて」という意味があるようです。また一般にグニャーナは理論知であり、ヴィグニャーナは経験知であるといわれています。このことに即していうならば、一般的な知識(グニャーナ)が与えられて、一旦その理論的な理解から離れ現実においてそれをどのように応用すればいいかを模索する。そして現実世界における実践を通じて、理論知であるグニャーナの理論的枠組を外れることなく、しかし高度な理解として知識が経験的に再編成される。その経験知がヴィグニャーナなのだと思います。グニャーナは理論的であり、かつ初めは一般的な大雑把な理解なのでしょうが、ヴィグニャーナはこの世界の事象の細部へと理解が浸透しています。グニャーナは木の根や幹だとすれば、ヴィグニャーナは枝や葉のように多少具体的な印象を私は持っています。これがインドにおいて正当な解釈であるかどうかはわかりませんけれども。

 

スグニャーナは何でしょうか? ス+グニャーナです。スはやはり接頭詞で「善い」という意味のようです。スグニャーナは比較的簡単です。善い知識、善いことに関する知識です。人は人生において悪い知識ではなく、良い知識を身につけなければなりません。悪い知識を得て人生を無駄にする余裕はありません。可能な限り善いことに関することを知り、それを生活に取り入れて、人間としての人生を贖うのが好ましいと思っています。

 

プラグニャーナについては少しだけこのブログで書いたことがあります。プラ+グニャーナです。プラについては詳しく知らないのですが、広がるという意味があったと思います。グニャーナの広がりです。日本語では般若(はんにゃ)という言葉がプラグニャーナに相当すると思います。風船の中の空気と風船の外の空気があるように、人の外にある意識と内にある意識があります。風船が破裂すれば風船の中の空気と外の空気は一つになりますが、それと同じように人の外にある意識と内にある意識が一つになったものが遍在意識つまりプラグニャーナです。人はエゴによって外界と内界に分割されます。日本人がいう本音と建前はこの内と外の分割を前提とした言葉です。しかしエゴが取り払われたならば人の内界はなくなり、あるいは内界と外界の区別はなくなり、意識は一つになります。エゴがない、つまり清らかな意識、純粋な意識、汚されていない意識、これがプラグニャーナであり、こういう状態の時に人の理解力は最高度に高まるはずです。

 

人はそれぞれですので、行為の道を好む人、帰依の道を好む人、英知の道を好む人がいます。英知をことさら求めなくとも、帰依の道を歩んでいれば英知は自然に伴うので、またそもそも帰依の道が最も簡単なので私は今後も帰依の道を歩み続けるでしょうが、時代の風潮としては英知が今後より強調されるようになるのではないかと思います。そのような時代において、グニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナ、プラグニャーナの4つの言葉の基本的な意味を押さえておくと、いろいろな面で多少なりとも役立つのではないでしょうか。

人間のなすべき研究は人間

 

アレキサンダー・ポープという方が約300年ほど前に書いた詩の中に
Know then thyself, presume not God to scan;
The proper study of Mankind is Man.
(次にあなた自身を知りなさい。神が見通しているのを仮定するのではなく。
人間のなすべき適切な研究は人間です。)
という詩句があるようです。自分で自分のことをよく理解することの大切さを強調しています。

 

人間の研究とは何なのか、人はもしかしたらそのこと自体について悩むでしょう。自分のことをよく知りなさいとはいうものの、それがなかなかできないのが人間です。人間の構成要素について調べるだけでも10年以上かかるかもしれません。例えば心理学や医学は絶えず発展し続けています。こだわりだしたらキリがありません。しかしながら今私は人間の研究とは思いと言葉と行動の一致・調和に関係することだと思っています。自分の思いも言葉も行動も少しばかり注意していたらわかるでしょう。そしてそれらがある程度一致しているかあるいはてんでバラバラなのかも。基本的に思いと言葉と行動の間には一致あるいは調和があるのが望ましいのですが、それが難しいならばなぜなのか原因を問うのが人間の研究です。あるいは人間の研究を次のように述べることができます。愛を育み、愛をもって語り、愛をもって行う。愛とは何なのかも研究対象です。私にとっては愛は属性のないもののことです。愛を育むとはどうすることなのか? 愛をもって語るとはどういうことなのか? 愛をもって行うとはどういうことなのか? これらが人間の研究です。簡単なようでかなり奥深いものです。地道に探究を続けていたら、人間理解が少しずつ進んでいきます。ただ当然他にも人間研究の問いの立て方はあるでしょう。

 

私は英語の厳密な意味でmankindとmanの違いはわかりません。kind(親切)なman(人)と生物種としてのman(人間)の違いはありそうです。人間を研究できるのは親切な人(善良な人)であって、動物のような生活を送っている人はまずは落ち着いた生活をおくることを考えるべきで、知性が落ち着いているときに人間の研究が初めて可能になります。

 

善は一般に人生の目的であるとされます。善いことをするために生きている。確かにそうです。悪いことをわざわざするために人間として生まれたわけではないでしょう。善が人間の目的であることを私は受け入れています。ただ一方で善は人間を研究する、つまり分析統合するための道具でもあると思います。何かの作業をするときには真っ暗闇の中では困難なわけです。光があってこそ何らかの仕事ができます。それと同じように、善というものが一時的なものであろうとも、それは一時的に人間存在を照らし出し、人間の研究を可能にしてくれる面はあります。つまり善は人間探究の手段でもあります。真っ直ぐな定規だけがものの長さを測ることができるのであって、曲がった棒で長さを測ることはできません。一時的であっても善であるときに探究がうまく進みます。

 

the proper study about man(人間に関する適切な研究)を続けていたら何に到達するのでしょうか? 私自身がその途上にいるので断言しかねるのですが、思いと言葉と行動の一致が現実となるときには、人間の肉体につきまとう幻影(インド哲学の用語ではマーヤー)は影を潜めていきます。リアルなものがリアルなものとして現れてきます。そういう効果は確かにあるでしょう。また思いと言葉と行動が一つであるならば、それは結局自らあるいは一般に人間存在の一元性を意味します。

 

世俗の勉強でも何かしら発展的なものを希求するならば、人のいうことや単に本に書いてあることを鵜呑みにせず、自分で納得するまで調べます。同じように人間が発展していくためには、人間とはこんなものだという世間一般の観念を単純に受け入れるのではなく、自分が納得するまで調べるべきです。これは霊性の領域における最大の探究つまりアートマ知識を獲得することにつながっていくでしょう。素粒子について研究していたら実は宇宙のことを研究していたというのは現代物理学のことですが、人間の研究は実は単なる人間の研究にとどまるわけではない。私は少なくともそういう感触が得られるまで人間について研究すべきではないかと思っています。

帰依者のあるべき姿

 

霊性の道は大きく分けて3つあります。行為の道、帰依の道、英知の道です。最も簡単で最も効果があるのが帰依の道です。行為の道は自助努力によって人生を切り開いていくことや奉仕の道です。英知の道は知恵を高めて目的に達することです。人には適性があるので、自らが好む道を歩めばいいのですが、多くの人に勧められるのが帰依の道です。帰依の道は愛するお方(神)を思って生きること、その愛するお方との関係で世界を捉えることです。愛するお方のことを思ってさえいればいいのですから、最も苦労の少ない道です。

 

次の映像を見て下さい。

www.youtube.com

 

サイババに一人の帰依者が寄り添っています。サイババが歩き出せばその人も歩き、サイババが立ち止まればその人も立ち止まります。進む方向はサイババの意志次第で、寄り添う帰依者の意志は感じられません。誰の手紙を受け取るかはサイババ次第で、ときにサイババが受け取ろうとした手紙をサイババに代わって受け取ることがあります。誰かがサイババと話をするとき、サイババの方に傾くと、サイババが怪我をしないように手を出してその人が倒れないようにしています。サイババがヴィブーティを出すと、手を拭くためのハンカチをすぐに出します。サイババに寄り添う帰依者はサイババだけに集中していて、サイババの動きに細心の注意を払っています。この帰依者はおそらくほとんどの日本人がかなわないほど知的に優れていて、技能(スキル)を身に着けていて、人格的に卓越していますが、そんなことは感じさせず、サイババのことだけを考えています。これが帰依者があるべき姿です。

 

帰依者にはおそらく自らの意志といえるものはないのでしょう。愛するお方とその意志に注意をはらい、愛するお方に寄り添い、もしかしたらわずかばかり愛するお方の手足となる。サイババは肉体をもっていますが、一般に神を愛する人は偶像や絵などで形を思い浮かべるにしろ、その愛するお方の意志はなかなかわかりにくくはあります。しかしその愛するお方の意志が何となくでも感受できるならば、私にとっては「なるようにしかならない。起こるべきことはすべて起こる。」というのが神の意志のように感じられますが、その愛するお方の意志に対して徹底的に寄り添うこと、これが帰依者のなすべきすべてです。楽といえばこれ以上楽なことはありません。それで人生の最高の目的を成就することができるでしょう。

 

映像に戻りますが、サイババには意志が感じられます。一方サイババに寄り添う帰依者はサイババに集中していますが、自らの意志といえるものは感じられず、自らの存在をサイババの意志に溶け込ませようとしています。サイババには選択の余地があるかもしれません。しかし寄り添う帰依者には選択の余地は感じられません。「選択する人は混乱しているのです。」というクリシュナムルティの有名な言葉がありますが、まさに寄り添う帰依者にはわずかばかりの混乱も感じられません。まったき集中です。

 

「24時間神を思っていなさい」とサイババは帰依者に勧めますが、世事に追われていると少し難しい面はあります。もしそれができているならば、その人は霊的にかなり高いレベルにいる人です。神を思う人は神になるといわれますが、24時間神を思っている人は神のすぐ近くにいる人で人生の成就はかなり確実でしょう。知恵は必要ありません。多くの仕事も必要ありません。ただ神を思っているだけです。神を思っている人は神に溶け込み、神以外のクズを思っている人は再び生まれ変わってくるとされます。

世界観を育む

 

世界観、歴史観、自然観。何でもそうですが、こういうものは大切です。人間にとって世界や歴史や自然というものは最初は曖昧で素朴なものです。人生を重ねていく中で熟考、考察を繰り返し、少しずつ世界とはこういうもの、歴史はこういうもの、自然はこういうものというものの見方(観)が形成されます。意識してそうしなければ歳をとっても曖昧なままでしょう。先週は金剛心について語る中で「一つであること」を取り上げました。観念としては一つであって、しかしそれが具体的にどういうものであるか人によって多少異なるのは当然です。一つの白い画用紙があって、それは一つなのですが、そこに描かれる人間の姿はさまざまです。大切なのは一つであることがずっと保たれていることです。

 

日本語でいうところの世界観を英語で何というのか知りませんが、今はuniversal outlookと表現しておきます。世界を概観する地図のようなものでもあり、これからの行く末を示唆する要素を含んだ言葉です。地球は一つですが、私たちは地球儀や世界地図でその絵を思い浮かべることが多いはずです。また地理的条件を考慮して未来を考察することもあります。universalという言葉は、世界だけでなく宇宙や自然という意味も含んでいるでしょう。私たちが今生息しているこの世に関する見取り図です。この世に関することですから、あの世との関係も考慮されてしかるべきです。私はこの世に関する見取り図(universal outlook)は各人が少しずつ育むべきもので、それもすべてが一つであることを念頭に置いておくのが非常に好ましいと思っています。かつては宗教がこの世界観を提示してきたのですが、現代では天国や浄土などは単なる観念だと受け取っている人が多く、それを自然に信じることができる人はそれでもちろんいいのですが、納得がいかない人は納得がいくような見解を欲するでしょう。かつてはこの天国や浄土との対比でこの世の生活に文脈が与えられてきました。現代もいくつかの文化圏ではそれが現実だと思います。

 

ちなみに私の世界観の大雑把なところを述べておきます。私はインドのユガ思想を信じることができて、これは現代日本では末法という言葉にその片鱗があるのですが、何千年か何万年かごとに世界が荒れたり平穏になったりするという思想です。今は末法あるいはカリユガ(闘争の時代)です。そして末法のあとには黄金時代がやってくるとされます。いつやってくるのかの受け取り方はさまざまでしょうが、私は21世紀の今は末法が折り返し地点を過ぎたところでこれから何千年か後に世界はまったき黄金時代になると受け取っています。オカルトっぽくもあり、スピリチュアルっぽくはありますが、インドにはそれなりの文献の裏付けはあります。

 

世界があってそれにどう対処するかは、結局のところ自らの世界観を通じてです。リアルなものとしての世界の前では私たちはたたずむしかないのですが、想像的なものとしての世界観が私たちが世界にコミットしたり、貢献することを可能にしてくれます。世界が信頼できると思っている人と、世界が信頼できないと思っている人とでは世界に対する態度は異なりますが、人が世界をどう思おうと世界はリアルなものとしてそこに存在しています。そしておそらくは世界は私たちの世界に対する態度に忠実に反応します。また私たちの世界観が変わるということが世界が変わるということの内実でもあります。

 

日本人が無宗教であるということの実態は、日本人が世界観をもっていないということです。日本人は世界はこういうものであるという他文化に影響されにくいそういう世界観をもっていません。今日本にあるのはアメリカを通しての世界観や新興宗教、カルト宗教を通しての世界観です。日本に世界観が欠けていると認識している一部の人たちは、自ら地道にそれを育むべきところを、他文化やカルトのものの見方を借り物としてそのまま受け入れています。世界観は日本はこういう国だという日本観ではありません。世界の他の国々、宇宙、自然、あの世も含めたものであり、近視眼的に日本のことだけを考えても今の時代はそれが世界観だと主張することは非常に困難です。

 

私はグローカルが大切だと思うのです。グローバリズムは国境を無視して地球を1つとして考える態度ですが、私は国境が必要だと考えるインターナショナリストです。さらに地域(ローカル)で生きて活動していく上で、それが世界(グローバル)の中でどういう意味をもつのか日本人は考えるべきだと思っています。たとえば商売をする際にも、地方の一中小企業であっても、市場を国内だけでなく国外に求めて企業活動をするのがいいと思っています。あるいは日本の里山は日本では無視されていますが、世界的に見えれば人間社会と自然がうまく調和したある種理想に近い環境なわけで、そういう視点で里山を見ることが大切に思います。NTTはグローカルに焦点を当てた企業経営を目指しているところがありますが、つまりはそういうのが大切です。

 

日本は今まで通りでいいと思っている人はたくさんいるでしょう。しかし本来国とは世界に貢献するためにあるのであって、世界観の欠如は国の存在意義にかかわるものです。政治においても本来は世界観を共有する人たちが集まってそれぞれの政党を作るのがいいと思います。世界の人口が増加し、日本の人口が減少し、日本の世界における存在感が低下していくのは仕方ないことですが、しかしその中で生き残っていくためには、一人でも多くの日本人が適切な世界観を育んでいかなくてはならない、というのが私の考えです。

金剛心

 

今日は金剛心について書きたいと思います。金剛とはダイヤモンドのことで、金剛心とはダイヤモンドのように硬い心のこととされます。私などは最初この言葉を聞いたとき何となく頑なな心のように思えましたが、しかし今日は安定した心という意味で金剛心について述べるつもりです。大辞泉では「金剛のように堅固不動な菩薩の心。真宗では、他力回向の真実信心をいう。」とあります。もともと仏教の言葉です。

 

The mind fixed in the awareness of the One is like a rock - stable and secured and unaffected by doubt.  - SriSathyaSaiBaba
(唯一者を意識している状態に定まっている心は岩のようです。安定していて安全が確保され、疑いに影響されません。 サティヤ・サイ・ババ
というツイートをツイッターで見かけました。私はこれを引用して、―「(この宇宙、世界の)すべては一つ」。最初は信念なのでしょうが、これこそが人の心を安定させ、揺らぐことのないものにする。いわゆる金剛心だと思います。― とツイートしました。唯一者に気づいている状態とすべてが一つであることを意識している状態は厳密には異なるでしょう。浄土真宗では阿弥陀様から与えられた信心を金剛心と呼びますが、これは阿弥陀様の働きかけが我が身に働いているのを自覚しているのを前提にしている、つまり阿弥陀様を意識しているわけです。他方私はよく知らないのですが、仏教の他の宗派では因縁によって世界のすべてが一つにつながっていることの自覚を説くようです。唯一者を自覚することとその具現であるこの世界のすべてが一つであることは観点は異なりますが、重なるところがあります。

 

私は「ソーハム(私アハムはそれソーである)」というマントラを唱えることがありますが、ソー(それ)とは超越者、唯一者、神のことです。また因果の原理、縁起(因縁生起)を受け入れています。それらの影響もあって、私はすべてが一つであることの意識が他の人より強いことでしょう。その分おそらく心が安定しているように思います。サティヤ・サイ・ババのツイートも私自身のツイートも私の体験の裏付けが少しはあります。これが私の金剛心の受け取りです。かつて思っていたような頑なな心ではなく、広い空が誰からも破壊されないように、広い心は何事によっても破壊されにくい、そういうところがあります。

 

「すべてが一つ」。これを単なる哲学にとどめず、生活において実践しなければなりませんが、具体的にはどうすればいいのでしょうか? 私は目の前の義務に誠実に取り組むことがそれに当たるのではないかと思っています。世界は一つ。世界の中で私たちは互いに支えながら生きているのですが、世界の課題は私という個人に義務という形で届いてきます。私がその義務に取り組むことが私が世界の課題に取り組む最も有効な方法であると思います。このことの根拠は特にないですが、長年の実感としてそんな気がしています。例えば子が病気になればまず第一に親が子のことを気にかけなくてはならないでしょう。他所の人に全部任せることはふつうしません。家事は基本的に家族で対応するものでしょう。それが一般的だと思います。自分のことはできるだけ自分でし、家族のことは家族でできるだけし、余裕ができてきたらできる範囲で社会に貢献し、社会が豊かになれば国全体がよくなります。最終的にそれは世界の平和につながっていきます。

 

サイババの言葉をさらに引用すれば、「神への愛、罪への恐れ、社会での道徳」の3つが大切だとされます。この内のどれか1つがあれば他の2つはくっついてくるといいます。唯一者を意識していること、意識が絶えずそこに向いていればそれは唯一者つまり神への愛です。罪とは一つであるところに多を見ることであるという見解があります。例えば誰か他の人に暴力を振るうのはその人を自分とは別の人と見ているからですが、それは罪であるとされます。罪を恐れるとは「すべてが一つ」であることを否定しないように努めることです。社会での道徳は、各自が義務を意識して生きることでもあると思うのです。

 

お釈迦様は神性は語れるものではないとして神について語ってきませんでしたが、実は神性には姿があると示しています。それは真理とダルマと非暴力の3つであると宣言しました。つまり仏教は神学ではなく、道徳論を強調しています。お釈迦様は不二一元を道徳的に語りました。真理は神に対応し、ダルマは義務に対応し、非暴力は罪を避けることに対応します。

 

すべてが一つであることは、最初は信念かもしれませんが、その内それが実感されだすときがいづれくると思います。それは不動の心、金剛心をもたらしますが、心が安定している時に、人は人生を適切に歩むことができます。すべてが一つであることは人によってさまざまに表現可能でしょうが、人が真に深いものに根ざしているならば、間違いは少なく、人生は有意義なものになることでしょう。

新しい経済

 

今日は少しばかり経済に関して最近思ったことを書きたいと思います。経済に関してはほぼ素人でわからないことが多すぎるのですが、それでも経済の現状を疑問に思うことがたくさんあって、時々本を読んでは思索を重ねてきました。経済には30年ほど前から関心はあって、専門的で学術的な本ではなく、さまざまな企業を取り上げた本、経済を企業から見た本を多く読んできたと思います。また哲学的に経済について述べた本も何冊か手に取りました。またこの10年は投資信託や株を購入しているのもあって、優れた経営者に関する本や投資(企業評価)に関する本も何冊か読んでいます。ちなみに私は企業の株式公開業務に携わったこともあり、資本主義のど真ん中に近い部分もわずかばかり知っています。

 

なぜ経済に関心があるかというと、私が少しばかりお金に苦労しているというのもありますが、何というか資本主義の負の面が気になるというのが正直なところです。以前ウェーバーが語った資本主義に関するエートスについて少しばかりこのブログで書いたことがあると思いますが、資本主義は暴走しだすとなかなか止まらないところがあって、幾度もバブルが崩壊しましたが、そのたびに人々の欲望を新たに駆り立て拡大してきたところがあります。資本主義が物質的に世界を豊かにしたのは間違いないのですが、労働者の疎外の問題や環境破壊の問題、格差の拡大の問題などは十分に配慮されていないような気がしています。さまざまな論者がさまざまに資本主義について語っており、多くを読んだわけではありませんが、どの論考にも一理あります。少しばかり読んだ範囲では、アダム・スミスに始まって経済学が発展してきたのですが、シカゴ学派といわれるものによって経済学は少し変質したように受け止めています。2020年代の経済はこのシカゴ学派の影響が色濃いようで、市場=マーケットの位置づけが特異だということです。

 

資本主義に対するものとして共産主義がありましたし、日本でよく研究されていた経済学者にマルクスがいますが、人によっては共産主義は資本主義の亜種、つまり国家資本主義だという人がいます。この観点にたてば共産主義は必ずしも資本主義の代替になりそうもないわけです。ならば資本主義とは何なのか? あるいはどこに新たな経済の可能性があるのかが問題になります。新たな経済を必要としていない人は大勢いるでしょうが、違った形の経済を望んでいる人たちも一方でいるわけです。私は日本は経済成長を求めたほうがいいと考えていますが、経済成長を手放せという論者はたくさんいます。彼らのほとんどは資本主義に批判的でしょう。

 

少し前になりますが、『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という本を読みました。この本を読んでいるとアダム・スミスの経済学(自由放任主義)があって、他方その後のシカゴ学派新自由主義)はマーケットを重視しながらも自由放任でないのが伝わってきます。アダム・スミスとしばらくの間は交換が重要であったのが、シカゴ学派以後は競争が重要になったとあります。また多くの人が批判しているのは経済人の概念です。経済学は経済において合理的な人たちの存在をそもそも前提としています。この前提が間違っていたならば、経済学は作り物にすぎないことになりますが、経済学が曲がりなりにも機能してきたようにみえることからこの前提には多くの人が目をつぶっています。この経済人という前提がまずおかしいのですが、それをごまかしつくろうために政治が市場を支援するための多くの物語のバリエーション(フィクション)を作り出してきたというのが、一つの見立てでしょう。経済学は少なくとも一部分は科学であることを放棄しているようです。

 

経済とは何かという定義は大切です。経済学が物語ならば、日本式に経済を経世済民と定義した上での物語の展開は可能です。もちろん他国には他国の経済があって、中国はそれを追求している一つの例です。やり取り(give and take)が行われているところが市場=マーケットであるのですから、市場というもの自体はこの世からなくなることはありません。また経済活動を記録する手段としての簿記もなくならないでしょう。

 

今簿記を取り上げましたが、私は実は資本主義と複式簿記とはほぼ同値(論理的に同じもの)ではないかと思っています。複式簿記は約700年ほど前に生まれたようですが、今複式簿記で記録されているのは、資産、負債、資本、経費、利益などです。もしかしたら資本主義論とは簿記の構成要素の各論を集めたものにすぎないのかもしれません。web3のことを最近良く耳にしますが、このweb3上では経済のありようがこれまでと少し異なっているような印象を受けます。その経済の流れを適切に記録するよう試みれば新たな簿記の発明につながるかもしれません。新たな簿記が発明されたとして、それによって私たちの目の前に現れる経済の姿は資本主義とは異なる可能性はあります。新たは簿記論は新たな経済論につながります。

 

実際のところ私には真実はよくわからないのですが、アメリカではweb3を好まない有力者が多いようです。また中国政府も暗号資産に否定的な態度を取っているようです。一方日本は暗号資産やweb3に関して制度は遅れてはいますが、それほど否定的な態度ではありません。ある意味日本は有利な立場にあるのかもしれません。仮に日本でweb3が花開いたとして、他国から歓迎される一方強硬な圧力を受けて潰される可能性もあります。歴史はどういう道筋をたどるかはわかりませんが、しかし現段階では日本には大きな発展の余地があります。web3自体に可能性があるのか、あるいはそれを契機とした簿記の発明に可能性があるのかはわかりませんが、50年100年先に経済の姿が今と少しばかり異なっていることはありえます。