今日は近代インドの聖者であるヴィヴェーカーナンダについて書いてみます。これまでこのブログで何回か彼に触れていますが、改めて彼について書いてみる気になりました。というのも、昨年の秋に私は小倉駅の古本市で彼に関する本を2冊手に入れ、そして少し前にそれを読み終えたからです。その2冊とは日本ヴェーダーンタ協会から出ている『シカゴ講演集』と『立ち上がれ 目覚めよ』(Arise Awake)です。だいぶ前から関心のあった本ですが、古本市で見かけて思わず手に取り買ってしまいました。
1893年にヴィヴェーカーナンダはシカゴで開かれた世界宗教会議で講演を行い、たちまちその名が世界にとどろくこととなりました。その時の講演集が『シカゴ講演集』です。ヴィヴェーカーナンダは特にインドでは霊性の獅子(ライオン)(spiritual lion)といわれますが、まさにライオンが吠えるかのような講演内容になっています。その中の言葉をいくつか取り上げてみたいと思います。
「(この事実は、)意識は心という大海のほんの表面であるにすぎず、その奥底には、我々の経験のすべてが蓄積されているのだ、ということを示しています。努力してご覧なさい。それらは現れてきて、あなた方は自分の過去世までも思い出すでしょう。」(p22)
インドではどう受け取られるのかはわかりませんが、私にはとてもユニークな見解に思います。なぜなら、私は自分の過去世を信じてはいますが、それを思い出そうという意欲はほぼないからです。なので過去世を思い出そうという努力をしようという思い自体を抱いたことがありません。ところがヴィヴェーカーナンダは努力すれば過去世は思い出せるといいます。私は意欲がわいてこないので今後もそちらの方面の努力はしないのではないかと思いますが、しかし自らの過去世に非常に強い関心がある方ならば、それは不可能ではないようなので、努力してみるのもいいでしょう。ヴィヴェーカーナンダはそれを励ましてくれます。
「多様の中の単一、というのが自然の計画でありまして、ヒンドゥはそれを認識しています。他のあらゆる宗教は特定の教条をもうけ、それを採用することを社会に強要します。」(p41)
ここで多様の中の単一というのはunity in diversityのことでしょう。ヴィヴェーカーナンダの文脈では、特定の教条をもうけ、それを社会に強要することはunity in diversityではありません。多様の中の単一(unity in diversity)ということに関しては大きな誤解があります。私にとっては、外部は多様であって内部は一つであるということです。ハートが一つで肉体は多数ということです。私を内から動機づけているのと同じお方が他の人を内から動機づけているということです。あるいは人は世の中の多様性に長い間もまれながら、いつかは内在する神性に気づかなければならないという命題を言い換えたものととらえることもできるでしょう。必ずしも同一の考えをすることや同じ倫理規範に従うことが多様の中の単一なのではありません。多様なものの中で生きることを通じて一つであるものに気づいていくということです。一定の教条を多数の人がまとうことはたんにその集団がカルトであることを意味しているのではないでしょうか? 誤解する人がいるかもしれませんが、ある組織の規律は規律です。規律を通じて各人がどのような見解に導かれるかは人それぞれでしょう。
「シャカ・ムニは、一つも新しいものを説こうとしてきたのではありませんでした。彼もまた、イエスと同様に、完成するために来たのであって、破壊するために来たのではなかったのです。ただ、イエスの場合には彼を理解しなかったのは古い人びと、ユダヤ人であったのに、ブッダの場合には、彼の教えの意味を悟らなかったのは彼自身の信奉者たちでした。ユダヤ教徒が旧約聖書の完成を理解しなかったのと同様に、仏教徒は、ヒンドゥの宗教の完成を理解しなかったのでした。」(p52~53)
非常にユニークな見解だと思います。私はこの個所を読むまでこのようなことを語っていた人をただの一人も知りませんでした。日本の密教はヒンドゥー教だといっていた人は知っていますが、仏教がヒンドゥー教の完成だというのは思いもかけない見解でした。このような見方をするならば、仏教の歴史的意義はまったく書き換えられなければなりませんし、しかし日本の仏教関係者たちがこれを認めることが困難であることも理解できます。私はほんのわずかばかりのさわり程度ですが、日本人はあまりにもヒンドゥー教を知りません。
ヴィヴェーカーナンダがシカゴで講演をしたのは1893年9月だったようです。そのちょうど100年後の1993年にサティヤサイババの御名が大々的に日本に伝わってきました。今のアメリカの現状を見るにつけ、ヴィヴェーカーナンダの訪米は、彼の御名を高めはしたものの、アメリカ人たちは彼の語ることを理解できなかったように思われます。一方日本ではサイババの御名が日本に伝わってきて30年が経ちましたが、非常にゆっくりではあるにせよ、彼の神性に関して着実な広がりがみられるようではあります。ヴィヴェーカーナンダは訪問する国を間違えたのかもしれません。
もう1冊の本『立ち上がれ 目覚めよ』について触れることができませんでした。こちらも啓発的な内容でいっぱいです。宗教に関してまたインドの霊性に関して理解を深めるのに、彼の書物は非常に役立つことでしょう。関心のある方は手に取ってみるのがいいと思います。