大乗仏典に関連して

 

このブログを公開する2024年5月23日はブッダプールニマです。お釈迦様が生まれた日として世界中で祝われているのがこの季節の満月の日です。プッダプールニマは陰暦(月の暦)で日にちが決まりますが、日本は太陽暦なので概ねプッダプールニマを祝うことはありません。4月8日に固定されています。今日はお釈迦様に関連する日ですので、仏教に関して私が思っていることの一つを取り上げます。それは大乗仏典に関してです。主に上部座仏教圏がブッダプールニマに関りが深いとされますが、日本は大乗仏教圏です。親の読み残していた大乗仏典に関する書物を見ていて、いろいろ思うことがありました。その書物とは『お経の話』(渡辺照宏)です。

 

他の古い書物で見かけたことがありますし、今の学説では否定されているのかもしれませんが、大乗仏典偽教説というのがあります。大乗仏典はお釈迦様の直接の御教えではないという説です。また私が読んだ『お経の話』という本も1967年出版でそれなりに古い本です。ただし渡辺照宏氏は確かな仏教学者です。この『お経の話』という本の中に次のような一節があります。

 

「大乗以外の経典―便宜上、小乗経典とよぶことにしよう―はだいたいにおいて出家教団のために説かれたものであるが、一応、現実の描写を立て前とし、常識の世界からあまりかけ離れていない。その教義は教訓的であり実際的である。神秘や奇跡の要素もないわけではないが、だいたい日常経験の場に統一されている。瞑想(禅定、三昧)を説くが、その霊的体験の内容はあまり語られていない。
大乗経典はさまざまな聴衆を予想しているが、その根本的特質は瞑想の体験の描写であるということができよう。日常経験を超越した世界の体験を生き生きとした具体的な形象によって表現する。たとえば一座の指導者である仏陀が瞑想に入ると、その瞑想中の体験―十方の無数の世界にいる無数の仏陀やボサツやその他の生きものの行動や言語など―を列席者がすべて具体的な形象として把握する。そこには距離や時間やその他の制約はもはや存在しない。したがって瞑想中の仏陀が一言もいわなくても聴衆はさまざまな教えを受けとる。瞑想からさめた仏陀と聴衆との問答はただ補足的な意味を持つにすぎないこともある。」(p120~121)

 

これをどう受け取るかということです。渡辺氏の言葉を見る限り、大乗仏典の内容はお釈迦様の在世中に分かち合われていたような印象を受けます。ただ歴史学者によれば、大乗仏典が編纂されたのはずっと後のことですし、龍樹菩薩がその創始者であるという説があります。ウィキペディアによれば、中村元氏は大乗仏教は諸法の実相を説くことを目的としているといっていたようです。実相とは無形のことのようですし、形のないものを瞑想的表現で表したものが大乗仏典なのだということなのかもしれません。

 

以前このブログで書いたことがあるかもしれませんが、私の性質からすれば大乗仏典の荒唐無稽さ(!?)はあまり好みではありません。私などは大乗仏典はお釈迦様の瞑想の内容ではなく、弟子たちがお釈迦様の御教えを瞑想した上でのお釈迦様の御教えの解釈のような印象を受けさえします。私はお釈迦様とお釈迦様の御教えに価値を置いているのであって、大乗仏典への疑義は払拭しきれていません。

 

たとえば私はサイババの御教えを自分なりに理解して実践し、そこから何らかの果実を得てきましたが、私がこのブログで書くことはサイババの御教えであると主張することはまったくできません。私は多くの時間をサイババの御教えや諸マントラの瞑想に費やしてきましたが、それは私の個人的体験です。サイババサイババ、私は私です。私がサイババに向き合ったことは確かな事実であり、私がサイババに多大な影響を受けたことも事実ですが、サイババの御教えと私の書いていることを混同してはなりません。それと同じように大乗仏典とお釈迦様の御教えは異なる可能性があるのではないかとの思いは消えません。方便という意味で大乗仏典にお釈迦様の御教えが含まれているのは確かかもしれませんが、それ以上のことはよくわかりません。約2500年間にわたり、あるいは日本に伝わってきて1500年近くでしょうが、さまざまな文化を育んできたその価値は尊んでいますが、私は盲目的にあるいは断定的に大乗仏典とお釈迦様を同一視していないでしょう。

 

お釈迦様の御教えをバーラタ(インド)の文化の中で育った方が瞑想授受した場合と、他の文化の中で育った方が瞑想した場合とでは、その記述は異なることでしょう。そのこと自体を理解していれば害はありません。それらはともに立派な仏教といえます。ただそれがお釈迦様の御言葉そのものかといえば、また別です。他の人の信仰を否定するつもりはまったくないのですが、私の性質が大乗仏典を以上のように受け止めるというだけのことです。

 

日本人にはどこか空想的なところがあります。大乗仏教が栄えた地である朝鮮半島(私が知っているのは韓国ですが)の人も文学が好きで空想に淫するのは日本に少し似ています。物語好きな点が共通しています。世界各地のことは知りませんが、日本と朝鮮半島に大乗仏典が与えた影響はありそうです。

 

もしかしたら、最新の学説に従えば、大乗仏典に関してまた別の考え方をするかもしれません。今日書いたことは一つの観点の提示と受け取っていただければ幸いです。