理智鞘5

 

久しぶりに理智鞘について書いてみます。理智鞘4について書いたのは5年近く前になりますが、この5年間で少しばかり成長があったのでしょう、理智鞘についてもう少し書けるような感じがしています。

 

大地を掘っていくとその内地下水に到達します。昔の人たちはそのように井戸を掘って生活に必要な水を確保していました。これに似たことが人間には必要です。心の内を掘っていって、内なる地下水である愛に到達しなければなりません。そこまでいって初めて自分のことを霊的であると主張できるような気がします。どうやって大地を掘っていけばいいかはわかるでしょうが、心の内を掘るというのがどういうことかわかりにくい人がいるかもしれません。それは言葉を換えれば探求といっていいのかもしれませんが、探求を頭を使うことと混同する人がいるでしょうから、別の方法を今日は記載します。たとえば、神仏の御名を信仰心をもって何年も唱え続けることは、心のボーリングとなりえます。最初は信念かもしれませんが、その信念をもって内なる神仏を思いながら御名を唱えていると、人間性が深まっていって、心の地下水、愛、内在者に到達します。この過程は総合して理智鞘と呼べます。理智鞘とは愛である内在者を覆っているものを取り除く一連の過程に関することで構成されています。

 

タイティリヤウパニシャッドの中のアーナンダヴァリでは、次のような記述があります。
ヤトーヴァーチョーニヴァルタンテー アプラーピャマナササハ(ブラフマンは言葉で記述できず、マインドで理解できない)
理智鞘の領域に立ち入るとは、こういう領域に立ち入るということです。

また理智鞘は次のように説明されています。
タスヤシラッダイヴァシラハ ルタムダクシナパクシャハ サティヤムッタラパクシャハ ヨーガアートマ マハプチャムプラティシタ(理智鞘は信仰が頭でルタムが右翼、サティヤが左翼、ヨーガが胴体、マハが尾翼の鳥にたとえられる)
理智鞘の領域に入っていくとき、何らかの確証を先に求めることはできず、いつも信仰があって歩を進めることができます。ルタムを私は十分に理解していませんが、サティヤ(真実、真理)に近い概念のようで、つまり真実性(何らかの確からしさ)をたどっていくことが必要だということです。ヨーガはバランスであり、マハは原理原則のようなもののことです。
理智鞘の領域に生きるのは水泳を習うのに似ています。いくら水泳に関する本を読んだり、人に話を聞いても泳げるようになりません。最初は泳げなくても水の中に入らなくてはなりません。つまり信じることが最初に来ます。

さらにタイティリヤウパニシャッドには次にようにあります。
ヴィグニャーナムヤグニャムタヌテー カルマーニタヌテーピチャ(理智を備えるものはヤグニャを行う。またさまざまな行為を完遂する)
ヤグニャは護摩のような儀式ですが、普通の人間にとっては犠牲を伴う奉仕にあたいします。また理智の人は行為の人であるとされます。理智とは実践知(実践を助ける知)のことだといえます。結果を求めず捧げものとして行われた清らかな奉仕活動はサーダナ(霊性修行)であり、心を浄化するといわれますが、心を浄化するとは地面を掘って土を取り除くことでもあります。奉仕活動でなくても、義務などの日々の日常行為に携わり続けることは同じ効果をもたらします。理智は行為を目的とし、行為が理智を深めます。

 

今年の春に仏教について書いたことがありますが、ブッダとはブッディ(理智)を備えている方のことだと書きました。そこではマインド(頭)とハートをつなげるもののことをブッディと呼びましたが、頭とハートの間に詰まっているものを取り除くことがブッディの開発です。それはたとえばハートと頭の間にある第5のチャクラを開くこととも関係しているかもしれません。放っておいても頭とハートはつながりません。あるいはかつては頭とハートがつながっていたとしても、その後怠け続けていたら汚れが入り込んでしまいます。仏教とは頭とハートの間が適切につながっておくような管理に関するもののことでもあります。

 

大地を掘っていくと地下水にたどりつくように、心を掘っていくと愛である内在者に到達すると私に教えて下さったのはサイババです。こういうことを日本人一般は知りません。そのサイババはエデュケアという言葉をしばしば用いますが、これは言葉の字義としては「内から引き出す」ということです。しかし実際には私は心を掘っていく作業のことであり、その結果として愛に到達し、愛に生きることができるようにする過程のことだと思います。

 

理智鞘の開発は心の地下水である愛への到達によって区切りとなります。ハートから水(愛)があふれてくる実感は観念ではありません。人に聞いても適切な答えが返ってこないでしょうが、到達すれば自分でわかります。いつもその状態が維持できていれば、大いに喜んでいいでしょう。そこに到達すれば、次は至福鞘を生きることになります。つまり愛に生きることが当たり前になるように諸調整を行う段階です。

 

私の理解を簡単にまとめれば、理智鞘の段階とは心(主にハート)を掘っていって愛に到達する一連の過程であるといえます。ちなみに今回の記事ではマインド(頭)、ハート、心という言葉を用いましたが、霊的なハートは胸にあります。そしてハートは磁場のようなものであり、マインドはその磁場の影響を受けてさまざまな形をとるものですので、ハートとマインドを統合したものを心と表現しています。