愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

八正道

 

今日は八正道について書きたいと思います。お釈迦様の御教えの中心となるものです。ただし日本の仏教宗派においてこの八正道を生活実践の中心においているところはもしかしたら少ないかもしれません。しかしながら仏教を語る上でこの八正道は避けて通れないでしょう。

 

父が読んでいただろう本に『増谷文雄名著選Ⅱ 親鸞の生涯 歎異抄 親鸞の思想』があります。私は親鸞聖人よりもむしろ蓮如上人や妙好人に惹かれるところがあったので、親鸞聖人について書かれた本はそれほどは読んだことがありませんでした。しかしこの増谷氏の本に少し目を通してみて、とてもわかりやすいという印象があり、まだ読んでいる途中ですが、親鸞聖人に関して理解が深まるのは間違いないだろうと思っています。増谷文雄氏のこともまったく知りませんでした。この増谷氏の名著選が面白いので、アマゾンで増谷氏の本を検索し、評価の高かった『仏教百話』も注文しました。こちらも面白いです。増谷氏は阿含経原始仏教、あるいは小乗仏教に関係するよう)と日本仏教の祖師方に関する著作が多いようで、仏教の原像とでもいうものに少しばかり関心がある私も興味深く『仏教百話』を読んでいます。そこにも書かれていましたが、やはりお釈迦様の中心となる教えに八正道があります。

 

八正道はお釈迦様が求道に入られた原因である苦を取り除く解決策です。また実際のところお釈迦様が悟りを開かれたのは苦行を捨てて中道に至ったからなのですが、中道とはすなわち八正道のことでもあるようです。中道は苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない生き方です。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことです。場合によっては正聞など他の要素が加わることもあるようですが、そのあたりのことは今はおいておきます。この八正道については多くの理解、解釈があることでしょう。私はそれらに精通しているわけではありませんので、今日書くことは私の個人的な理解、見解になります。

 

正見。まずは見ることから始まります。感覚器官による外界の受容です。現代的な用語ではインプットです。外界を見ることでさまざまな思いが起こります。見るものによって思いが異なります。私はかつてこのブログで正見とは色眼鏡なしで裸眼で物を見ることではないかと書いたことがあります。できるだけ偏見なく物事を観察し、そしてできるだけ清らかなものを見ること、これが正見だと思います。そこから思いが生じ、思いから言葉が生じ、思いと言葉から行動が生じます。この3つが正思、正語、正業に関係します。思いと言葉と行動の3つが邪でなく清らかであるならば、正思、正語、正業といえます。正命は正しい生活です。思いと言葉と行動を一致させる生活をしていたならば自ずと生活は適切なものになるでしょう。日々の義務を適切に果たすことも正しい生活でしょう。正精進は原語はサムヤク サーダナ(正しいサーダナ=霊性修行)のようで、つまり正精進は私にとってはサーダナを行うことです。称名、瞑想、奉仕、礼拝などなどです。正念は正しく念じること。これもさまざまな解釈はあるでしょうが、今私は正しく人生の目的を定めそこから思いを離さないことの意味に解釈しておきます。人生の目的には自らが思い定めている神仏の御名や御姿を含みます。そして正定は思い定めている目的地への誠実な歩み、あるいはそこに到達することです。以上が私にとっての八正道です。

 

中道は八正道のことで、中道は苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない生き方だと先に書きましたが、八正道を意識して実践するかどうかは別にしても、しかし多くの人に中道は勧めたいと思います。苦行主義にも快楽主義にもどちらにも弊害があるでしょう。それは仏道においてだけでなく、宗教とは関係なく普通の人の日常生活においてです。苦行主義にも快楽主義にも陥らないように心がけ、しかしそれが困難に感じるときは八正道を思い浮かべればいいのかもしれません。八正道は現代生活を改善するのに適切な方法論を提供すると思います。欧米で禅や瞑想をもとにマインドフルネスが盛んになり、それが日本にやってきましたが、八正道が欧米で見直されて日本にやってくるのを待つのではなく、日本人は自ら八正道を振り返り、現代に取り入れていくことができます。