愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

お釈迦様について

 

私は仏教に関心があります。仏教徒です。しかしもともとは仏教に関心があるというよりはお釈迦様という一人の存在に関心があったように思います。昔のことははっきりと覚えていませんが、お経に価値があるのはお釈迦様が説かれた言葉だからで、お釈迦様が素晴らしいという思いが強かったような気がします。今でもお釈迦様に関心があります。

 

心理学者の河合隼雄氏がかつて、「最近の若者はお釈迦様がなした探究と同じような探究をしています。お釈迦様はそれに成功したけれども、最近の若者のほとんどは非常な困難な課題を抱えています。」とはいっていませんが、ニュアンスとしてはそのようなことを語っていました。お釈迦様がなした探究に成功することは、お釈迦様にある意味肩を並べることです。難しい課題です。

 

人は問います。「お釈迦様の悟りの内容とは具体的にどのようなものであったのだろうか?」、「お釈迦様が人に対してあれ程に説得力をもっていたのは何ゆえなのか?」と。学会である程度見解が定まっているのか知りませんが、お釈迦様が悟られ仏陀になりましたが、仏陀と他の人を区別するものは何なのでしょうか? お釈迦様のお経は現代翻訳ですが読むことはできます。真実かどうかはわかりませんが、大乗仏典偽教説というのもあるようで、私は阿含経(小乗仏典)を最近は好んで読んでいます。日本語訳だけを読んではわかりませんが、なぜこの教えが人々の心をつかんだのかということです。この二つの問いは多くの人を悩ませてきたのでしょう。

 

以下は私なりの拙い見解です。
「お釈迦様の悟りの内容とは具体的にどのようなものであったのか?」 私はおそらくアートマの知識に到達したのだと思っています。人間が到達できる知識ではアートマ知識以上のものはないとされます。知識という観点から見れば、お釈迦様はアートマの知識に到達したのだと思います。しかし悟りという言葉が何を意味するかです。現代では悟りは英語ではrealisationでしょう。サンスクリット語ではもしかしたらグニャーナかもしれません。グニャーナに関してはこのブログでは「4つのグニャーナ」という記事を私は書いています。お釈迦様はプラグニャーナ(般若)の状態に至ったのかもしれません。私の意見は学問的な根拠があるものではありません。現代の知識において仮定しているだけです。

 

「お釈迦様が人に対して大きな説得力をもっていたのは何ゆえか?」 この問いに対する答えも私の想像です。
今年の6月にツイッター
「名越先生が「日本のリベラルアーツは仏教です」とおっしゃっていて、確かにそうだなと思います。リベラルアーツは人を自由にする知識、技法と捉えてもいいのでしょう。」
「私はたまにツイッターやブログで日本の仏教聖典にある概念に私なりにですが現代的な解釈を与えていて、そういう作業は個人的に非常におもしろいのですよね。何百あるいは何千以上もの仏典にある概念が現代に蘇るのを待っていると思います。」
と書きました。ここにあるように、私は気づきがあった時に仏教の概念を現代社会に即して新たな視点から光を与えることを時にしていますが、そうしないと現代において受け入れにくいと思っているからです。仏教の概念の本質に手を加えることなく、ちょっと表現を工夫することで現代人に理解しやすくする、このようなことは仏教の用語だけでなくても、さまざまな分野で必要なことでしょう。我田引水のようなところはありますが、お釈迦様が2500年前にされたこともこれに似て、ヒンズー教バラモン教)の概念や文化に新たな光を当てて蘇らせたがゆえに、当時のインドの人たちに受け入れられたのではないかと思うようになりました。どの時代のどの地域の人たちであっても、人々の生きる文脈からまったくかけ離れた言葉はなかなか伝わりにくいような気がするからです。あくまでも仮説ですが、そういうことを最近思いました。特に岩波文庫にある小乗仏典のお釈迦様の言葉を読んでいてそう思いました。

 

実際のところお釈迦様は知性において非常に優れていただけでなく、人格も卓越されていたはずです。私などがどうのこうのいえるものではありません。ただ古来から人を悩ませ続けてきたお釈迦様に関する問いに対して私は最近思うことがあったので、今日はそれに関する仮説について書いてみました。お釈迦様からまだまだ多くを学ぶことができます。これからも謙虚に学び続けていくつもりでいます。