御名を伝えることについて

 

私はあまり布教というものに関心はありませんが、しかし優れた存在は人に知られていいと思っていますし、ごく少数の人にとっては優れた存在を知ることで人生が大きく変わりうることも知っています。私にとってはサイババがそういう存在です。そのサイババはいわゆる布教には関心がまったくなかったのではないかと思いますが、しかし一点「御名を伝えることに信念をもちなさい」とは仰っていました。御名を伝えなさいといわれても宣伝はしてはいけないとされていますし、実際のところ御名を伝えるということがどういうことなのかわかりにくくはあります。私個人は、人がサイババの教えを思いや言葉や行為に染み込ませるならば御名は自然に伝わると思い、とにかくサイババの指針をできるだけ生活に取り入れるようにしてきました。

 

今旧統一教会のことが問題となっています。問題になっている1つは統一教会の関係団体であることを隠して人々に接近しようとする点です。もしかしたら統一教会だけではないのかもしれませんが、自分たちがどういう集団であるかを隠して人々に影響を与えようとする団体はありそうです。私はサイババに大きな影響を受けて、別にサイババの名前を出さなくてもいいのですが、そうなると統一教会がやっていることと同じことをやっていることになります。私はサイババに帰するだろうと思われる素晴らしいことに関してはサイババの名を出すのが好ましいと思っていて、しかし一方でサイババサイババの宣伝をしなくてもいいといっていましたので、サイババの名前を出すことに関しては少しばかり微妙なところがありました。今は統一教会の問題を考えれば、名前を出すべきところでは名前を出すほうが好ましいと思っています。

 

I know you have the enthusiasm to carry My message among the people of this country and other countries. Let Me remind you that the best and the only successful way in which you can do it is to translate the message into your own lives. Your thoughts, words, and deeds must be saturated with the message. Then they will spread effortlessly and efficiently, and the face of the world will be transformed.(1968.05.17 Sathya Sai Baba)
(私はあなた方が私のメッセージをこの国や他の国々の人々の間にもたらそうという熱意をもっていることを知っています。あなた方に覚えておいてほしいのは、あなた方がそれをなす最善で唯一成功する方法はそのメッセージをあなた方自身の生活に翻訳することだということです。あなたの思い、言葉、そして行為はそのメッセージで満たされていなければなりません。そうしたならばそれらは努力せず効果的に広まっていくでしょう。そして世界の様相は変容することでしょう。)

 

今この文章の中で注目したいのはtranslate the messageという言葉です。サイババの御教えに限らず、仏教の御教えでもキリスト教の御教えでもそうでしょうが、現代においてどのように応用すればいいのかわかりにくいものがあります。そこで鍵になってくるのがtranslate(翻訳)という言葉ではないかと思うのです。翻訳は基本的に別の意味に置き換えるものではなく原文に忠実であろうとするのが普通のことですが、しかし言語が異なるとどうしても多少ニュアンスが違ってきます。そのように、偉大な方々の御教えを実践する際に、趣旨を損なうことなくしかし私たちが置かれた状況において適応的であるために少しばかり翻訳的な操作をしてしまうかもしれません。意図して御教えの趣旨や本質を損なうのは過ちですが、実践面において理解のあり様に手が加わることはあります。それは前回お釈迦様について「お釈迦様が2500年前にされたこともこれに似て、ヒンズー教バラモン教)の概念や文化に新たな光を当てて蘇らせたがゆえに、当時のインドの人たちに受け入れられたのではないかと思うようになりました。どの時代のどの地域の人たちであっても、人々の生きる文脈からまったくかけ離れた言葉はなかなか伝わりにくいような気がするからです。」と述べたように、本質において同じものなのですが、光の当て方を変えるような操作だと思うのです。つまりお釈迦様も多分translate(翻訳)を行ったのです。

 

古代のインドでは「教える」という言葉と「学ぶ」という言葉は分離していなかったようです。インドで教えることと学ぶことが分離したのはイスラム教か西洋の影響であるのでしょう。つまりどういうことかといえば、古代インドにおいていわゆる師は生徒(学ぶもの)たちのリーダーに過ぎず、日々の生活の中で数々の実践に率先して取り組む存在であったということ。そして同じ道を歩む生徒たちが求めた時には自らが実践してきたことを語ったということです。謙虚さをもてば、この世に生があるということはまだ人間として欠陥があるからなのであって(完全な人間は遠からず肉体から自由になってしまうことでしょう)、つまり誰もが等しく向上を目指すものであるわけです。意識的に生きるということが学ぶということであり、それによって整理されたことを機会の求めがあった時に表現することが教えるということです。学ぶことと教えることは1つのものの近しい2つの側面であるわけです。

 

何がいいたいかというと、御名を伝えるということはtranslate(翻訳)であり、そしてそれは学ぶことと教えることが一つになったものでもあるということです。サイババサイババの宣伝をする必要はないといっていましたが、おそらく宗教一般も本来は宣伝や布教などしなくていいのです。御教えのメッセージを人生に染み込ませて、御名を伝える努力をしさえすれば十分だと思うのです。