self realization(自己実現)

 

self realization(自己実現)にはいろいろな解釈があります。ほとんどの人がそれを達成していないので、それにまつわる推測しか耳にすることはありません。私がself realizationの定義としているのは、experiencing of the Atma as Reality(アートマを現実として体験すること)です。self realizationに関して最も不満なのはそれが自己の悟りと訳されることがある点です。それが間違っているとはいわないけれども、小悟と大悟がごちゃまぜになったり、単なる知識と混同されてしまうのではないかという心配をしてしまいます。この意味でself knowledgeならば自己の悟りと訳してもいいのではないかと思いますけれども。強いていえば、自己の悟りを得たとして、その気付きが単なる一時的なものではなく24時間維持して生きることが真の自己実現といえるものではないでしょうか?

 

歴史的にself realizationが多くの探求者をひきつけてきたのですが、一方他のrealizationというものも考えられます。たとえば私はサイババを師としているつもりですけれども、自らの生活の中で可能な限りサイババの御教えを取り入れようとしています。彼の御教えは非常に多いので、特に私の宗教である真宗の御教えに関連の高いものを中心に取り入れています。そんな中で、たとえばサイババの御教えを24時間実践するとなると、それはsai realization(サイババの実現)といえなくもありません。いえもしお釈迦様の御教えを24時間実践するとなるとそれはbuddha realizationで、イエス様の御教えを24時間実践するとなるとjesus realizationといえるものでしょう。それが真の宗教であるならば、その御教えを24時間実践するならば、効果としてself realizationと同じものが得られる、つまり人生の目的を成就することができるはずなのです。

 

近代インドの聖者であるラーマクリシュナパラマハンサは、ヒンドゥー教の聖者でありヒンドゥー教の教えに従ってサマディ(三昧、涅槃)に達した方ですが、彼はイエスの御教えも試しており、イエスの御教えを実践することで等しくサマディ(三昧、涅槃)の境地に達することができると実際に体験しています。私はラーマクリシュナのような器用さも霊的卓越性もないのでさまざまな御教えをいろいろ試す余裕はないのですが、彼の体験が示唆するものは大きいと思うのです。

 

一般にself realization(自己実現)を求めるのは英知の道を歩む人であるかもしれませんし、一方私が上に書いたsai realizationやbuddha realizationやjesus realizationは帰依の道といえるでしょう。しかしながらたどり着くのは内なる神性のrealizationつまり内なる神性がリアルなものとして体験されるということです。神性divinityがselfと呼ばれたり、saiと呼ばれたり、buddhaと呼ばれたり、jesusと呼ばれたりするだけのことです。buddhaと呼ばれたものが日本では仏性とされるものです。

 

たとえばsai realizationのことを語れば、saiの御教えを実践するということはsaiの性質を自分の一部とする試みなわけで、それを24時間何十年も実行し続けることができたならば、私の本性とsaiの本性は似てくるのは間違いないでしょう。buddhaやjesusについても同じことがいえるわけです。なので私はself realizationだけにこだわらず、sai realizationやbuddha realization、jesus realizationも同じように世間に広まればいいと思うのです。すべては同じ実現です。つまりリアルなものとして体験することです。「名は多くても実現は一つ」といえます。

 

realizationというものを考える上で、何がreal(現実)なのかが大切です。普通の人には私たちが知覚する外界、この世界がリアルなものとして受け取られます。しかしたとえばself realizationという観点からは、self(自己)が現実でこの世は夢です。眠っているときに見る夢がnight dreamであるのに対して、起きているときに見ている外界はday dreamです。realizationはdream(夢)との対比で考えたときに意味をもちます。問いとなるのはselfとこの世界のどちらが現実かということです。