3-1=1

 

一般的には3-1=2です。しかし3-1=1なる方程式が存在します。3つのものがあります。実体と鏡と鏡に写った映像の3つです。この3つの内鏡を取り去ると鏡に写った映像もなくなり、実体だけが残ります。それが3-1=1の意味です。この方程式はサイババが取り上げていました。

 

今私というものが何なのかはさておき、一つ私というものがあります。これが実体です。さて実体の前に鏡を置きます。今取り上げる鏡は朝晩に顔をのぞき込む鏡のことではありません。銀箔の上にガラスを置いた鏡は肉体を映し出すだけです。肉体だけではなく心や魂も映し出す鏡を考えます。それはこの世界です。もう少し具体的にいえば、感覚されるもののことです。目で見えるもの、耳で聞くことのできるもの、触れることのできるもの、匂い、味覚です。それにさらに付け加えれば仏教では以上の五感に加えて心を加えて六識といいますので、心の痛みや喜びも含めることもできます。つまりこれらすべての感覚されるものが鏡です。

 

目で何かを見ます。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。耳で何かを聞きます。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。私たちは心と体で何かを体験します。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。感覚されたものに対してその反映、反響、反動はこの世界=感覚されるものに映し出された「私」です。この世界に生きる私たちは四方八方を鏡で覆われた部屋にいるといえます。ある種の動物や鳥は全面鏡で覆われた部屋に入れられると、自らの姿を見て攻撃を始めるといいます。人間の中にもこの世界でやたら攻撃的な人はいます。あるいは全面鏡で覆われた人の中には落ち着きを失ってしまう人もいるでしょう。あるいはそれがすべて単なる映像だと知って穏やかな人もいます。

 

私たちは生まれたとき、つまりこの世に放り込まれた瞬間から心が活動し始めます。この世界を見て(知覚して)心はそれに反応し、心は何物かを作り続けます。たとえば科学というものは、何かを見て想像力が喚起されてその想像の領域を数式や論理で補強したものが基盤です。誰かと付き合います。長年付き合えば、その人はこういう人だというその人の像ができあがります。家事を長年やっていると、手を抜いていい部分ときちんとしておきたい部分を分けて対処することがあります。その人なりの「家事」ができあがります。私の見解では、このようにこの世界を見て(知覚して)心は自らにとっての存在(existence)を作り上げます。「私」というものが鏡なるこの世界に映し出され、映し出されたそれを少しばかり修正した「自己像」というものができあがります。確か西洋哲学では語られるものが存在するものだといわれていたと思います。私たちが馴染んだものについて私たちはある程度語ることができ、それが「私」であるとされます。

 

おそらくですが、人間が死んだときにもっていけるのはこの「自己像」です。富も家族も地位も名声も肉体ももっていくことはできません。ソウルメイキング(魂の形成)という言葉がありますが、「自己像」の形成は魂の形成であり、魂とそれに関わりがあって魂に溶け込んだ思考(心の断片)こそが私のすべて、あるいは輪廻するものです。魂というものはこのように考えれば存在するものです。

 

存在(existence)、真理(truth)、現実(reality)などの言葉があります。これらの言葉はなかなか区別し難く、他文化ではどう区別しているのかよく知りませんが、私は存在は上記のように受け取り、真理truthは時間や空間によって変化しないもののことと受け取り、現実realityは先週のべたように夢dreamと対比されるもの、真理の所在地のことと今は受け取っています。

 

クリシュナムルティに次のような言葉があるようです。
「自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。」
ここにも「私」と「鏡」と「私の姿」という3つが出てきます。強いていえばここでは自らの心や魂を観察しているのですが、それすらも幻であると理解したならば、私たちは進化の終着点に到着することになるのかもしれません。