愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

個我と神我

 

個我、神我と「我」という字を用いていますが、エゴのことを取り上げるのではありません。私が読む文献においてジヴァアートマを個我、パラマートマを神我と訳していることが多いので個我、神我という日本語を用いるだけです。アートマは真我selfのことですが、今までこのブログで私がアートマという言葉を用いる際神我(パラマートマ)の意味で用いてきたつもりです。一方先週魂について少し触れましたが、この魂は個我(ジヴァアートマ)といっていいものです。ジヴァアートマ個我はそれ以上分割できない単位としての人間存在individualを指し示す言葉です。一方パラマートマ神我を私はブラフマンと同じ意味で受け取っています。

 

結論からいうと、私の見解としては個我ジヴァアートマ=個人の魂=輪廻するものとは、魂にアートマが浸透しているものです。魂ですらアートマが浸透していなければ物体のように不活性なのではないかと思っています。魂+アートマ=ジヴァアートマです。私が普段用いるアートマはパラマートマ=ブラフマンを意味しているつもりで、これは全宇宙に浸透していて、更にそれを超越するものです。それ以上のことは私の理解の限界を超えています。

 

先週鏡としてのこの世界に映った自己像を魂として考えました。鏡に映るものとして、一般に考えられている人間存在以上のものが考慮されえますが、有名なヴェーダマントラであるナカルマナーには次のような詩節があります。

 

ダフラム ヴィパーパム パラメーシマブータム ヤト プンダリーカム プラ マドヤ サグスタム
(肉体という砦の中に、非常に小さな、非の打ち所のない至高の真我の住まいがある。あたかも都市の中心部にある宮殿(プラ マドヤ サグスタム)のような、心の蓮華の中に真我は宿る。)

 

ここに「都市の中心部にある宮殿」という言葉が出てきます。人間の魂というのは、私は思うのですが、単なる人間を超え、社会や世界を包摂した社会像、世界像なのではないかと。上のマントラでは都市の中の宮殿という表現がされていますが、魂とはそういうものであろうかと想像します。少なくとも私の実感としてはそういうところはあります。そしてそのなかに真我(アートマ)はあるとされます。本来好ましくないことではあるのですが、瞑想中に湧き上がってくる思いにはさまざまなものがあります。それは例えてみれば、ゴミで汚れた都市のようなものであり、一方邪念を含め想念がない瞑想はきれいに掃除された都市のようなものでしょう。私は光明瞑想というものを日常的に行っており、毎日ハートに光を迎え入れ、そこで蓮華が開花する様子を思い浮かべていますので、上のマントラの詩節は個人的にはかなり具体的な表現ではあります。

 

先週は魂ですら幻であると述べましたが、人はある時を境に自らを肉体と同一視しなくなり、また後に自らを心と同一視しなくなり、それと同じようにいつの日にか自らを魂と同一視しなくなる日がくるということです。行為の道は肉体と関係があり、帰依の道は心と関係があり、英知の道は魂と関係があり、行為-帰依-英知を超えたその先に無執着があるといいます。花は青い柿の実をつけ、青い柿は熟れて赤くなり、赤い柿は熟して枝から自然に落ちてしまうように、この無執着の境地は人間の成熟の後に自然の過程としてやってくるものなのでしょう。

 

今の時点で輪廻から解放された人がどういう状態なのかを推測するに、死と生の区別がない状態かもしれないなと思います。人間はいつの日にか肉体を脱ぎ捨てますが、その肉体を脱ぎ捨てる過程において動揺というものが一切なく、死の前後で何ものも変わらない状態。つまりNo birth, No deathの境地です。