愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

思想を紡ぐ

 私は思想の人が嫌いでした。何となく思想の人は他者に対して高みから攻撃するような印象があって、どんな思想であろうとも暴力性があると感じていたからです。思想の人は人間よりも思想の方を大切にしているようなところもありますし。

 しかし思うのですが、私がこのブログで書いてきたことは、哲学というよりもむしろ思想といった方がいいものではなかったかと。題材は大抵哲学的なものです。正確にいえば、霊性というものに自分なりに取り組んできたと思っています。しかし哲学を述べるというよりは思想を紡いできたのではなかったかと、振り返って思います。

 今私が思想というとき、それはハートの言葉を記録することを意味します。ハートというのはマインド(頭脳)とは異なりますが、マインドと同じように、日本語では心と表現されます。人は心(ハート)の内に宇宙を宿しておかないと正気を失いかねない、と私は思っていて、その宇宙は人によって異なるかもしれませんが、人は心を生きる存在であるわけですし、心の健康な人はみな内なる宇宙のバランスが取れていると思うのです。

 心(ハート)の世界と目に見える外界とどちらが真実に近いかといえば、もしかしたら心の世界のほうが真実に近く、人によっては外界にではなく、心にのみしたがって生きています。心(ハート)はそういう人たちにとっての現実です。外界が真実に思える人によっては、心(ハート)の世界は空想に似たものです。しかしハートが真実と感じる人にとっては、そこはある種の必然が支配する別の種類の世界です。

 この心の世界は探索・探検することができます。バガヴァッド・ギーターや聖書、仏典などを読んでおもしろみを感じることのできる人というのは、実はここでいう心(ハート)の世界の探索・探検ができる人のことであって、そのおもしろさはそれを味わったことのある人にしかわかりません。

 私は元々内向的な人間でしたが、師との出会いによって、この心の世界をめぐるある種の冒険の旅を安全に行う術(すべ)を身につけることができるようになりました。そして、発見といえばおこがましいのですが、漠然とでも自分がそこで見たことの一部をここに記しているわけです。

 哲学がわからない人の中には、哲学は抽象的で人間が自分の都合で考えた作り物と受け取る人がいるかもしれません。私が書くこともそういう風に見えるかもしれないことを知っています。しかしながら、私の態度としては、何か創作を行うというよりは、むしろルポルタージュ(現地の記録)に近いものです。心(ハート)の世界の記録、それを思想と再定義してもいいかもしれません。そういう意味で、私は思想をつむぐ人間です。そして思想をつむぐことは、他の多くの人にも可能です。

 日本には風土に根ざした思想が欠乏していると思います。これまで東アジア大陸や西洋の思想の大きな影響を受けてきましたが、それは日本列島に住む人たちに対してある種の苦痛を要求するものではなかったかという気すらします。それらがあったからこそ繁栄があったのは確かなことではあるのですが。日本で東洋と西洋が交じり合いましたが、それはまだ十分に融合しきっていません。思想の面においても、その融合は行われなくてはならないと私は思うのです。そしておそらくは、多くの人による心の探索・探検がそれを可能にすることでしょう。