事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ

 毎日見るようにしているコラム「折々の言葉」に1ヶ月少し前に載っていた言葉がタイトルにある「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ(ニーチェ)」。これが起こった、あれが起こったというとき、私たちは事実を指し示しているのですが、ニーチェは事実なるものはないといいます。

 事実を意味する英語のファクトはラテン語の「作られたもの(ファクトゥーム)」に由来するとのこと。工場は英語でファクトリーといいますが、工場は物を作るところです。つまり語源的にはファクト(事実)とは作られた何かです。

 この世で起こっていることは多様です。私は自然に囲まれたところに住んでいますが、たとえば家の外に目を向けると、山や田畑、近所の家々、野の草花、空や雲が目に入ってきます。そこで何が起こっているかといえば、多分言葉で語りつくすことのできないほどたくさんのことが起こっています。草が風に揺られている、地面を虫が這っている、雲がユニークな形を取っている。太陽の光が大地に陰影をもたらしている…。科学者の目から見れば、さらに多くのことが観察されるでしょう。その中から私たちは、自分の心に訴えかける何物かを取り出し、「今目の前でこうこうこういうことが起こっている」と表現します。それは実際に起こっていることの一部を切り取って構成しなおしたものです。

 事実というのは起こっていることのごく一部を切り取った断片であって、それはニーチェのいうように、多様なものを人間の認知のレベルで解釈したものに過ぎないでしょう。しかしながら、ただ認知(認識)のみがあると私は結論付けたくはありません。

 私たちが世界を見て解釈するとき、それが認知される以前に何かがあったはずです。それは実在と呼ばれるものなのでしょうが、私は言葉に表現される以前のそれ(実在)に関心をもっています。私はそれは神御自身に他ならないと受け取っていますが、人はそれをさまざまに理解します。それらの理解はすべて一面で正しいものではあります。

 多分この世界は鏡のようなもの。それについて私たちが何かを語るとき、私たちは鏡に映った自分自身の何かについて語っているのです。私たちが何かを美しいというとき、私たちの内に何か美しいものがあることを示しています。誰かを悪というとき、目の前の何かに映った自らの悪について彼は認識しているのです。それは目の前に見えるものについての解釈です。

 (いつも火曜日にブログを書くことが多いのですが、3日は一日中外出していて書くことができませんでした。来週からまた火曜日に書くつもりでいます。)