愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神々とブラフマン(あるいはGod)

 

今日はさまざまな神々とブラフマンあるいはGodとされるものについて書きます。今さまざまな神々という言葉で表したいのは、多神教であるインドでしたらインドラ神、ガネーシャ神、ラクシュミー女神などなどのそういう神々のことです。個人的には仏教でいうところの阿弥陀仏や諸菩薩なども含んでいいと思っています。一神教ですとこういう神々は少なくとも建前上いないはずです。多神教的な要素のあるヒンズー教や仏教、あるいは神道も含めていいと思いますが、そういう宗教における神々の考察です。ただ私に十分な理解が備わっているわけではありませんので、あくまでも現時点での私の小さな思考の跡といっていいくらいのものです。

 

私には一神教的な要素があります。基本的にすべては一つであり、神も一つであり、その一つのものをブラフマンといったりGod(神)と呼んで、それを普通に受け入れることのできる人間です。しかしながら一つのものをさまざまな名で呼ぶことができるのもまた真実です。地球には海は唯一つしかありません。しかしその一つの海が太平洋と呼ばれたり、インド洋と呼ばれたり、北極海と呼ばれたり、瀬戸内海と呼ばれたりします。海には無数の名があります。それと同じように、一つであるところのブラフマンあるいはGod(神)がガネーシャ神、ヴィシュヌ神阿弥陀仏、アマテラスなどと呼ばれていると誰かが主張しても私は受け入れることができます。人にはそれぞれ好みの名があり、その好みに他人が口出しする必要なまったくないからです。

 

しかしながらもう少し詳しく書いてみましょう。インドではインドラやヴァーユ、アグニなどの神々は役割であるとの説があります。たとえば日本には総理大臣や外務大臣文部科学大臣などの役職があり、役職をいろいろな人が交代で務めています。それと同じように、インドラやヴァーユという役割を人間の魂のようなものが交代で務めているという説があります。実際のところ、インドラの役割を担うよりも人間として生まれることのほうが尊いという意見があり、神々をそのように受け取ることもできます。

 

ヴェーダにはドゥルガースークタムやガネーシャアタルヴァシールシャムなどのように神々の特徴を記述するマントラがあります。私の理解では、それはブラフマンの性質のうちのごく一部を特徴的に備えているものに特定の神の名が与えられているような感じです。ブラフマンの性質の特定の一群はその神のある種キャラクターのようなものです。それに魂が宿ることでその神が機能するということもあるでしょう。あるいはブラフマンの性質の特定の一群というもの自体が魂のようなもので、それにブラフマンが浸透して機能しているのかもしれません。人間がアートマであるように、神々もアートマであるわけです。なので、私からすると、ブラフマンと人間はかなり異なりますが、人間と神々は意外に近い存在です。

 

神々の実体がどのようなものであるかは別として、とにかく人は自分の好む名と姿の神を崇めます。女神様を愛する人もいれば、太陽神を愛する人もいます。仏教ですと観音様を愛する人もいれば、大日如来愛する人もいます。人が自らが愛し崇拝する対象に祈りを捧げ、崇めるならば、私はその思い自体が崇拝の対象を形作るとさえ思っています。ガネーシャというのは一つの「箱」で人々がガネーシャ神を崇めるその思いはガネーシャ神を満たし、ガネーシャ神が確かに生きたものとなる。そしてガネーシャ神はその特性に従って機能し人間に恩寵を授ける。人間と神々は支え合っているといえます。話が少し世俗的になりますが、それは現世においてブランドが機能するのに似ています。私たちが買う商品の特性を知らずとも、有名ブランドのものは確かなものであると思い、ブランド品はよく売れますが、それは多くの人がそれをブランドとして理解しているからです。その意味で私たちの思いは神々ですら創造するといえるのかもしれません。

 

しかしブラフマンあるいはGod(神)と呼ばれるものはそれとは異なります。ブラフマンからしたら、人間という輪郭はないに等しいようなものです。ブラフマンからすれば人間こそが創造されたものです。これは私が唯一なる者の存在を容易に信じることができるから主張できることです。

 

以上の考えにも関わらず、私は神々を崇拝することとブラフマンを瞑想することにほとんど区別をつけません。何を愛し崇拝しようと、人間の思いに応じて人間はその応答を得ると思っているからです。瀬戸内海を大海だと思わなくても瀬戸内海は海の恵を与えてくれるでしょう。便宜的にブラフマンと神々を区別しましたが、大切なのは人間の真摯な思いです。哲学者は神々とブラフマンあるいはGod(神)を区別して論じてもいいでしょうが、私はそれほどの重要性を感じていないのが正直なところです。