愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

横超

 

先週書いたことに関連して、仏教特に浄土真宗で用いられる横超という言葉に関して今日は書いておきます。なかなか難しい言葉ですが、素人であるがゆえに書けることもあるでしょう。親鸞聖人が強調されたことから一般に真宗では横超という言葉が竪超という言葉に対して用いられます。竪超は真宗以外の宗派のあり様を指すことが多いようですが、合理的に道筋を立てて漸進的に問題に対処することのようです。それに対して横超は理論や段階と関わりなく問題を超えていくという意味合いのようです。親鸞聖人にとっては、阿弥陀様にゆだねたらどんな人でもすでにすべての問題は解決されたことになります。私個人は、ゆだねるべきものにゆだねさえすれば、すべては解決されたも同然という点に関しては同意できます。ある意味真宗が頓教(たちまち成就する教え)であるのは確かです。しかしながら私のわずかばかりの体験に従えば、ゆだねた後でさえも「油断」せずに日々の生活において地道な努力をする必要があり、漸教(少しずつ成長し成就へ向かう教え)の側面はあります。

 

先週次のように私は書きました。
「神への愛とは神へ向かって歩むことであり、神へ向かって歩むことは人間社会(人間関係)から少しずつ離れていくことを意味します。一方で人間は本来社会的存在です。人間社会から離れることは多少なりとも不安を伴います。それを補うのが祈りということになります。」
神への愛は帰依であり、日本の仏教宗派の中では帰依の側面を最も強調するのが真宗です。帰依は全託(すべてをゆだねること)によって成就します。

 

詳しく学んだことはないのですが、西洋と西洋の影響を強く受けた地域では弁証法が強調されます。ヘーゲルの名が有名です。ある命題とそれに矛盾する命題がその2つを止揚した(本質的に統合した)命題に置き換えられることといっていいのでしょうか?これが正確な理解かわかりませんが、思考によって真理を探求する一つの手法なのでしょう。この弁証法仏教用語でいうところの竪超といっていいものです。他国は知りませんが、現代日本ではこの竪超が幅を利かせています。一方先週の私の言葉にあるように、神への愛に従って人間社会から少しずつ離れていくことは、ある意味理屈を超えたことであり、横超といえそうです。

 

コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の日本語訳が発売されたのが1988年のようですが、私は多分これが発売されてすぐに読んでいます。ニーチェなどはアウトサイダーらしい人ですが、プラトンアウトサイダーとして扱われていたかもしれません。この本に取り上げられたアウトサイダーたちは際どい人が多いですが、帰依の道を歩み社会から少し距離を取る人もある意味アウトサイダーです。ただし心の中は至って平穏で社会人としてはごく常識的な人が多いのですが。コリン・ウィルソンはその本で西洋の弁証法的なあり様=竪超に異議を唱えたかったのかもしれません。

 

親鸞聖人はある意味アウトサイダーだったのでしょう。中心的な社会関係の外部にいるものは、内部にいるものと社会との関係が異なります。内部にいる人たち同士の関係はある意味互酬(お互いにやり取りする)でしょう。外部にいるもの、今は神を愛するもの=帰依者たちのことを取り上げますが、彼らは社会とどう関わるのでしょうか?私の見解では、帰依者たちは義務によって社会とつながるのです。ただ義務を果たすことが主眼になります。実際のところ、すべての行為は捧げものとして行われています。それによってどのような人生が待ち受けているか? いえその人はすべてを委ねるだけです。また、先週取り上げた祈り-言葉-行為の三つ組は横超の生活原理といえます。

 

現代は竪超に嫌気を感じ、竪超とは別の生き方を探している人がまあいると思います。それに対して横超という生き方は一つのモデルになるでしょう。私はそこに可能性があると思うのです。今日取り上げたのは、私独自の横超の解釈ではありますが。