愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

自己実現

 

自己実現という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。特にマズローの欲求5段階説が有名です。生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求の5段階です。自己実現の欲求は精神的欲求、成長欲求とされています。マズローのいう自己実現は英語ではself actualizationとつづるようです。

 

マズローの説は心理学における自己実現論ですが、霊性の領域においても自己実現が説かれます。私が知っているのは、自己信頼、自己満足、自己犠牲、自己実現の4段階です。マズローのいう自己実現霊性の領域における自己実現は日本語では同じ表現になりますが、しかし霊性でいう自己実現は英語ではself realizationとつづります。self actualizationとself realizationは異なっています。私は当初この2つの違いがよく理解できませんでした。というより、マズローのいう自己実現は何となく分かるのですが、霊性の領域でいう自己実現がよくわからなかったのです。

 

私はかつて人に聞いたことがあります。「self realizationというのはselfを体験(experience)することと捉えていいのでしょうか?」私が質問した相手はそうではないと返答しました。experienceは自分でないものを体験することで、experienceではなくrealizeですといわれたのですが、英語の単語から刺激される想像力の幅が狭くて、realizeという言葉が何を意味しているのか結局よくわかりませんでした。私にとっては現実化というような意味の言葉だったのです。悟るという意味もありますが、それは少し違うような印象をもっていました。

 

最近次のような言葉を見かけました。
Religion is realization(endurance, tolerance leads to peace) of his identitiy with all, all mankind and all beings, alive and inert. (Baba)「宗教とは実現であり(持続と我慢は平安へと導きます)、すべてを自らのアイデンティティとみなすこと、すべての人類とすべての存在、生きていようと動かないものであろうとすべてと同一になることです。」(英語の日本語訳の拙さは許してください)

 

もし自己実現の実現realizationの意味が、ここでの宗教を定義する実現realizationと同じ意味であるならば、自己実現についての理解は深まります。前回のブログでも少し触れましたが、すべてもの、この世界すべてを自分とみなすことです。もしかしたらこの世界だけでなく別の世界を含めてもいいかもしれません。つまり私はすべてであり、すべては私であるということが現実になった状態のことです。この状態が一時的ではなく、その状態をずっと保って生き存在することです。

 

この状態にたどり着くためには、いわゆる肉体を自分だと受け止めている状態から脱却しなければなりませんが、その脱却の作業を助けるのが自己犠牲になります。自分と世界を分け隔てている敷居、境界を取り除く作業が必要ですが、これは自己探求(これは私ではない、これは私ではないという作業)によって自分でないものを取り除いていくということです。自己犠牲とは自分でないものを取り除くことです。そうやって自分でないものを取り除いていけば、逆説的にすべてが自らになるともいえます。

 

更にこの前段階として自己満足が必要ですが、上記の引用した言葉の中に(持続と我慢は平安へと導きます)とあるように、自己満足は心の平安をも意味していますが、心が平安な時に私たちは着実な自己探求が可能になるのでしょう。宗教は心の平安をもたらしてくれるものでもあります。

 

実際に私とこの世界が一つになった時、他者との間で共感があったり、動物の痛みがわかったりはするでしょうが、例えば石ころを蹴った時に何か生じることがあるのかどうかは今の私にはわかりません。機会があるごとにさまざまに述べていますが、ただ一つのものが存在するという霊性の真理、ウパニシャッドが述べるところの不二一元が目指すところであるのは確かなようです。すべての存在は唯一者から現れ、郷愁にかられてすべてはただ一つであるところ、状態に帰っていくのでしょう。