かつて下の詩について約2年前に書いたことがあります。
Bear all, do nothing.
Hear all, say nothing.
Give all, take nothing.
Serve all, be nothing. (saibaba)
(すべてに耐え、何もしないでいなさい
すべてを聞き、何も言わないでいなさい
すべてを与え、何も受け取らないでいなさい
すべてに奉仕し、何ものでもない状態でいなさい)
今日はリンクをはった記事に書いてあることとかなり内容が近いのですが、Serve all, Be nothingについて少し考察を付け加えます。Serve all, Be nothingは「すべてに奉仕し、何者でもない状態でいなさい」あるいは「すべてに奉仕し、無名でいなさい」と訳せるでしょう。
先週、自己実現とは何かをしないことに関わると述べました。人生の残り時間が少ない者にとっては時間ほど貴重なものはありませんから、時間を大切に使いたいのです。つまり、これではないこれではないという探求と実際に手放すことの繰り返しが自己探求や自己実現につながるというわけです。私の尊敬する一人に河合隼雄氏がいますが、彼は自己探求は玉ねぎの皮をむくのに似ていると語っていました。玉ねぎの皮を一つ一つむいていくとどうなるでしょうか?当たり前のことでしょうが、すべての皮をむいていくと何も残りません。何もないのです。しかしこれは実際のところ自己探求といえるのでしょうか?
serve all, be nothing(すべてに奉仕し、何者でもない状態でいなさい[無名でいなさい])も似たようなことを意味しています。serve all(すべての人に奉仕する)とは自分あるいは自分のものの一部を犠牲にして必要としているすべての他者へ捧げることです。奉仕に関しては、かつて欲望の節制(欲望を節して余ったものを奉仕に役立てること)との関連で触れたことがありますが、自分に必要なもの以外のものをそれが不足している方に捧げることが奉仕です。主にお金、食物、エネルギー、時間を活用することが奉仕を構成します。奉仕がエゴや執着を減らすのに役立つことは、それに長年携わってきたものには理解できます。世間の人は富や名声、地位などに関心があるかもしれませんが、奉仕に携わる人は、苦しんでいる人や困っている人、虐げられた人たちが多少なりとも喜びや平安を味わうことに関心があります。奉仕をよい評判を得るために行っている一部の人がいますが、実際のところ奉仕は自分が「貧しくなる」ことが目的です。つまりエゴにおいて貧しく、執着において貧しく、自分が何者でもない存在になるために行っています。
玉ねぎをむいても何も残りません。自分が「貧しくなる」ために奉仕を行います。そういうことにどれほどの意義があるかということです。これではない、これではないという生き方にどれだけの人が惹かれるかということです。2つだけその利点をあげておきましょう。
私の師であるサイババは、何ももっていない両手を人に見せて、「ここに何がありますか?」と問いました。問われた人は「何もありません」と応じました。サイババは「そうです、何もありません。しかしこれがすべてなのです」と答えました。彼は「何ももたないことは実はすべてを掌握していることを意味する」と示唆したのですが、ほとんどの人はそういわれても意味がわからないでしょうし、また何ももたない状態、そしてすべてを掌握しているだろう状態に耐えれません。アートマ探求が非常に困難なのはここに一つの理由があるでしょう。
もう一つの利点は科学と霊性の調和に関することです。私はここ最近意識的にものを考えることはほとんどありません。本やニュースを見ていますが、多少なりとも情報に精通しておくためです。頭は自然に働くにまかせています。私の意見では、思考というものは自らの前提が変われば自然に働くものです。つまり、これではないこれではないという取り除く作業によって、自らの前提にわずかなりとも変化があれば、それに調和するように頭は働くということです。自らの霊性(前提)に応じた科学(頭脳)がそこにあります。霊性の重要性がこのことからもわかります。
serve all, be nothingはこれらのことを象徴的に意味しています。