愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

すべてを捧げる

 

先週はこれではない、これではないという探求とともに、奉仕や犠牲について触れました。私の中では、これではないという探求、奉仕、犠牲という三つの概念は同じではないにしろかなり重なる部分があって、近い意味として取り上げているのですが、人によっては非常にわかりにくい部分があると思います。このことについて改めて触れてみます。

 

これではないという態度は探求です。奉仕は一般的には困っている人に対する状況と時にかなった手助けですが、これは深い内容を含んでいて他にもさまざまな見方ができます。ただ時間やお金などを使っても報酬を求めないことが多いので、何かを手放すという側面は確かにあります。犠牲も人によって捉え方はさまざまでしょうが、私の受け止め方は、より価値のあるもののためにより低いものを手放す、あるいは自分でいるために自分でないものを手放していくというものです。なので少なくとも手放すという意味を三つの概念は共有しています。

 

これではないという探求、奉仕、犠牲と三つに分けずに、一つの態度としてそれを理解することも可能です。それはすべてを捧げるという態度です。私たちは朝目覚めて夜寝床につくまでさまざまな活動に携わります。洗面をしたり、食事をとったり、家事をしたり、仕事をしたり、娯楽を楽しんだり、何かを読んだり聞いたり、人との会話を楽しんだりなどなどさまざまです。それらのいくつかは習慣として行っているものもあるでしょうし、また別のいくつかは好んで行うこともある一方、嫌々行っていることもあります。行為の結果をまったく気にしていないことも多いでしょうが、行為の結果を念頭に行為しているケースもあります。行為=カルマの理論は深く、私のような人間にはなかなか理解できない部分が多いのですが、とにかく人間は小さなことから大きなことまで多くの行為にいそしんでいます。それらの行為を行う上で大切な態度はすべての行為を捧げることではないかと今は思っています。

 

行為を捧げるとは、一つは行為の結果を求めないということです。一般的には努力をすれば多くの場合その結果が得られると受け止められているでしょうが、実際には努力をしても得られないものがある一方で、努力をほとんどしなくても何かが得られることがあります。何はともあれ、行為の目的は行為そのものにあって、その結果ではないという態度を私は少しずつ育んできました。これが行為を捧げるということの一つの側面です。

 

次に例えば家に仏壇などがある人はわかるかもしれませんが、何かを捧げる際には、できるだけいいものを捧げます。仏壇には収穫の初物を捧げたり、買ってきたばかり、調理したばかりのものを捧げます。古くなったもの、腐ったものや自分が食べた食べ残しを捧げたりはしません。つまり行為を捧げるというとき、その行為が自分の悪い性質を伴わないように、できるだけ質がよく、清らかな行為を捧げます。とはいっても私は完璧な人間ではなく、頑張って98点までは何とかできるにしろ、100点満点の行為を捧げることは非常に困難なことが多いです。しかし時間や能力の制約のもと、できる範囲でできる限りのことを淡々とするよう努めています。

 

私は信仰のある人間ですので、すべてを捧げるという際、信仰の対象である超越者に捧げるのですが、正確にいえば超越者の計画に捧げているといえます。私は自分の生活に必要なものをすべて自分の自力でまかなうことができず、一方超越者は完全であるので私が何かを捧げなくても満ち足りていますから、私が何かを捧げるのはおこがましい気持ちがあります。しかし超越者の計画に捧げるという場合は、私の行為の結果が私に帰ってこなくてもいいですし、他の必要なところに配分されればいいわけです。超越者ご自身が受け取ってくださってもいいです。その逆も真で、誰かの行為の結果を超越者の配分によって私が享受していることもあると思っています。私は自らの行為の結果によってではなく、超越者の配分、超越者の庇護のもとに生きています。

 

このように、すべてを捧げるという態度は、私自身が行為でも行為の結果に縛られるものでもないという探求に似た態度でありますし、可能な限り良質のものを見返りを求めずに行為の受け手に捧げる奉仕でもありますし、結果を手放す以上犠牲でもあります。一日の行為をすべて捧げ物の態度で行えば、夜寝床につく際に安らかな気持ちでいれます。それは私のここ何年にもわたる日常です。(たまには怒りやちょっとした不安などにとらわれることもありますけれども)