愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

24時間神を想う

 もうだいぶ前になりますが、『24時間神を想う』というテーマである方が話されていたのを聞いたことがあります。ずいぶん以前なので、詳しい内容については忘れてしまいましたが、24時間神を想いながら過ごすことが大切だということを力説されていたように記憶しています。

 その話を聞きながら、いろいろと疑問が湧いてきたものです。睡眠中はどうやって神を想えばいいのだろうとか、何か仕事をしている最中は意識がそちらに向かってしまって神を想うことなどできないのではないかとか、そういう類のことです。当時は私は今より未熟でしたから、そういう疑問に触れるような内容も話されていたかもしれませんが、私には理解できなかったのだと思います。

 本当に深く深く神様を想っているならば、夢に自分の崇める姿で神様が現れてくれることはありますが、それでも毎日ではありません。夢の内容は自分でなかなかコントロールできるものではなく、奇妙奇天烈なものが多くあります。また熟睡しているときは意識の存在すら感じません。ならば、睡眠中に神を想うとはどういうことなのでしょうか?

 何の仕事でもいいのですが、目の前の仕事をそれなりに丁寧にしようと思えば、意識はそれにとらわれて、神様のことは頭の中から消えてしまいます。神様のことを思いながら、同時に目の前の仕事をきちんとこなすことは、ある種の曲芸のようでもあり、果たしてそれが可能な人はどのくらいいるのでしょう? 例えば車を運転するときは道路状況に気を配らなければならないでしょう。

 このような疑問をずっと抱えていたので、24時間神を想うことについてあまりこだわりはありませんでした。ゆっくりとした時間があるときだけでも、可能な限り神様を想えばいいやと。

 ところが最近一つヒントを得ました。「自分の仕事を神に捧げるならば、その仕事をしている間に直接神を想っていなくても、仕事をすべて捧げてしまった時点で、仕事中に神を想っていたことになる」というような文章に出会ったのです。

 ある仕事をしてそれを捧げるとは、「私」がそれをしたという行為者意識がなく、かつ行為の結果を私は放棄するという態度の両方を含みます。もしある仕事を真に捧げたならば、その行為が終わった後、短い時間の間にその行為のことをある種忘れてしまうでしょうし、少なくとも何らこだわりがなくなるはずです。そしてすぐに神に集中できる状態でいれるでしょう。右手のした善行を左手に教えてはならないと聞いたことがあります。神様に捧げるならば、それなりの質が必要ですが、それをなしたことをすぐに忘れてしまえるならば、その人は真のカルマヨーギといえます。

 1日24時間のうち、直接神を想っていない時間に関する記憶がなくなること、これが24時間神を想い続けるということなのではないかと思うようになりました。

 自分の仕事に執着があれば、意識はずっとそれにひきづられます。もし悪いことをしたならば、ばれるのではないかと気が気でなくなります。そのような状況を避けることで、24時間神を想い続けることができるようになる気がします。