アートマであり続けることが奉仕であることについて

 

プルシャスークタムというヴェーダマントラがあります。プルシャを称える讃歌(スークタム)です。私の理解がごく僅かで申し訳ありませんが、プルシャとはブラフマン、神を人間のような姿になぞらえたもののことです。「サハスラシールシャプルシャハ サハスラークシャサハスラパート(神は千の頭と目と足を持つ)」は有名ですが、このマントラが啓示された大昔は人類は千人単位ほどしかおらず、つまりはすべての人間が神のものであるということを意味するマントラだとされます。いま地球上に70億人以上の人間が存在していますが、それらの頭や目や足はすべて神のものです。またこのプルシャスークタムの中に、ブラーミン(僧侶)はプルシャの頭から、クシャトリヤ(為政者)はプルシャの肩から、ヴァイシャ(商人)はプルシャの腿から、シュードラ(一般人)はプルシャの脚から生まれたなどの記述があります。このプルシャスークタムはヴェーダマントラの中では有名なものに入るのでしょうが、私にはなかなか理解するのが難しい面があって、大雑把ですが、「この宇宙すべてはプルシャが自らを犠牲にして作り上げたものであり、地球は将にプルシャに習って犠牲を捧げるためにある星である」と今は受け取っています。

 

「子供を持つということは、自分の持っているものの7〜8割を強制的に入れ替えさせらる感覚に近い。結婚ではそんなに変わらなかったけど、子供を持ったことで、7〜8割の既に持っていた水を捨てさせられ、そこに全く新しい水が入ってきてバケツを満たした、という感覚。半ば強制的に循環させられる。(うさこぱん)」

 

これはツイッターで見かけたツイートです。私本人は男性ですので出産を経験していませんし、また子を持つこともありませんでしたので、うさこぱんさんのように子を持つことによって自分が入れ替わったわけではないのですが、ある程度苦労の多い人生の中で自分が入れ替わるという経験はしてきています。7~8割といわず9割以上すでにもっていたものを捨てさせられました。そしてそれはうさこぱんさんのいうように、半ば強制的なものでした。ここに書いておきますが、次のようなことが言われています。「学校の教師は普通の人より10倍優れている。霊性の教師(グル)は学校の教師より10倍優れている。父親は霊性の教師より10倍優れている。母親は父親より1000倍優れている。(サイババ)」母親の偉大さは取りも直さず犠牲を捧げることができる点です。この世で最も神の愛に近いのは母親の愛だとされます。うさこぱんさんがいう「自分の持っているものを強制的に入れ替えさせられる感覚」は犠牲を意味していると思われますし、そしてそれは冒頭に上げたプルシャスークタムにあるプルシャの犠牲を思わせるものです。

 

自ら=アートマであり続けることが奉仕であると前回書きましたが、自分自身でいることをエゴを保ち続けると解釈してもらっては困ります。自ら=アートマであり続けることが奉仕になるのは、私の見解では少なくともうさこぱんさんがいうように、自らのかなりの部分を入れ替えた人、そして新しい水=愛でそこを満たした人がその状態を維持する場合です。その状態を維持するには、周囲の人や環境が適切な調和の取れた状態であることが望まれ、その適切な状態を維持するために実際に行為としての奉仕が少なからず周囲の人に対して行われている必要があると私は思っています。アートマでい続けるための些細かもしれない行為の積み重ね、それは一見奉仕と見えない場合でも奉仕だと考えられます。

 

愛!愛!愛!、ただこの一言に生きるだけで人生は成就するとされます。それはアートマであり続けることとほぼ同義といっていいでしょう。