ヤグニャの場としての身体

今日は少しばかりマニアックなことを書くかもしれません。日本の護摩に似ているヤグニャというものがインドで行われます。私も詳しいことは知りませんが、火に捧げものを捧げ繁栄や平和などを祈る儀式のようなものです。火に捧げられたものは火によって焼かれ、そのエッセンスが火の神アグニによって適切なところに運ばれます。アグニは郵便配達人のような存在だそうです。私たち人間の肉眼では見えませんが、神々の世界における何らかのやり取りに関係する儀式です。

 

さて話は少し変わりますが、生きている人間は健康であるならば、体の枠組みがある程度カチッと保たれており、意識も心(マインド)も堅固であるものです。健康が奪われたり死期が近づくと体がもろく感じられるようになり、意識がもうろうとしてきたりもしますが、基本的に体や心の枠組みはそれを超越することはほぼ無理と思えるほど固く定められたものです。私はこの体と心の枠組みはある種の護摩壇のようなものではないかと思うのです。

 

プルシャスークタムというヴェーダマントラがありますが、それはプルシャが自らを護摩壇への捧げものとしてささげ、この世界を創造したというような内容です。その中に、地球ができた後にプルシャが捧げものとなったとあります。人によって思うことは異なるかもしれませんが、私はこれを「地球はヤグニャのための星」であると理解しました。この広大な宇宙において地球は特異な存在ですが、その特異性はヤグニャによって象徴されるのではないかと。もしそうであるならば、地球に存在するものにとってなすべきことはプルシャを見習ってヤグニャをなすことです。つまり犠牲を払うことです。人間の体と心の枠組みが強固であることはこのためであろうと思うのです。

 

人間にとってヤグニャとは何でしょうか? 私は食事の際にギータの詩節を唱えます。「ブランマールパナム ブランマーハヴィール ブランマーグノー ブランマナフタム ブランマイヴァテーナガンタヴィヤム ブランマカルマサマーディナー」(捧げる行為はブラフマンであり、捧げもの自体もブラフマンです。ブラフマンによってブラフマンである火に捧げられます。フラフマンに捧げものを捧げ続けるものはついにフラフマンに到達するでしょう。)という内容です。これは食物を口から摂取しますが、その食物を胃に運びそこにある消化の火に捧げものを捧げているという意味になります。つまり食事はヤグニャなのです。私はそうして摂取した食物のエネルギーによって行われる日々の活動自体もヤグニャだと理解して、すべての行動を最終的に神に捧げるようにしています。

 

いわゆる食物だけでなく、目や耳などから受け取るものも五感が受け取る食物です。それらは主に心(マインド)によって咀嚼され理解され、行動器官(手足など)による活動へ導かれます。これもヤグニャでしょう。頭脳は大きなエネルギーを消費すると聞きます。例えば知恵熱という言葉がありますが、感覚器官を通じてとり入れられたものは火に注がれるに似ています。つまりは人間の活動というものはすべてがヤグニャであるとみなすことができるわけです。

 

インドにおけるヤグニャのみならず、日本において行われる護摩のことも私はよく理解していません。しかし何かを火に捧げる際には清らかなものが捧げられるでしょうし、それが燃やされていきつく先はどこであれ尊い理想をもって念じられる場所のはずです。人間の心身の枠組みは堅固ですが、それは一生をヤグニャに捧げるためのもののはず。心身は常に火で焼かれており、若いときはなかなか気づきにくくはありますが、少しずつ弱り老化していきます。最終的にわずかばかりの灰=ヴィブーティ(英知、恩寵)が得られれば、それが人生のすべてです。灰以外のものは、世界によって活用されればそれで十分なのだと思います。

 

今はなかなか焚火をする機会はありませんが、火を燃やすとき一度にたくさんのものをくべれば火は消えてしまいます。少しずつ薪を加えていけば長く火を焚くことができます。人生も体と心に浸透する火を消さないようにゆっくり歩むのがいいと思います。体と心に火が燃え盛っているとき、その人は若さを保ち輝いて見えるでしょう。インドにはtejas(輝き、活力)という言葉がありますが、時に存在の輝きが光って見える人に出くわすものです。そういう方々は、ヤグニャの場としての身体をその目的に沿って上手に活用されているのだろう、つまりは犠牲の人生を歩んでいる方であろうと思うのです。