ギータ(あるいはヴェーダ)

私は若い頃から、その時々にさまざまなことに関して知的関心がありました。学生時分は数学あるいは科学論特に数学を通してみた科学論に関心があったでしょう。後に霊性に関して関心をもつようになり、今もそれは継続しているのですが、それとは別に経済に関しても多少関心があります。さらに、今の私には少し大き過ぎる課題ではありますが、ヴェーダにも関心があります。"知的"関心という時、関心の対象を"知的"に理解したいという気持ちが込められています。知的に理解したいというのは、必ずしも学者のように理解したいというのではなく、自分が納得できる解像度まで、腑に落ちるまで理解したいということです。自分が納得すればいいわけです。他の人以上とか以下というのではなく。このことはある意味楽ですが、ある意味絶対性が要求されますので、厳しさもあります。

 

今は経済に関する資料をコツコツと読むことがあるのですが、霊性の学習も続けています。その一つにヴェーダがあります。ヴェーダとは、サンスクリット語世界文化遺産に登録されているいわゆるヴェーダのことですが、それとは別に、サイババが定義し直された「エデュケアは21世紀のヴェーダです。」も含まれています。またヴェーダは神の呼吸ともいわれ、神が口にされたものとしてのバガヴァッド・ギーターのありようにも関心があります。仏教やキリスト教はお釈迦様やイエス様のような人間由来ですが、ヴェーダは人間由来ではなく神由来であるとされます。それは特定の個人の思想などではありません。実際にインドで継承されてきたサンスクリット語ヴェーダに触れている人はわかりますが、それは高度に象徴的です。表面的にしか理解しない人はそれを子どもの詩のようなものと受け取ることがあるようですが、まったくそういうものではありません。それはシュルティ(聞かれたもの)であり霊視されたものです。これらは極めて清らかな聖者たちによって感知されます。

 

私は、インドでヴェーダを教えていらっしゃるヴェーダナーラーヤナン先生という方に「失われたヴェーダを取り戻すことはできないのでしょうか?」と尋ねたことがありますが、先生の答えは「取り戻すことはできません。」でした。私は現代のように人間や社会、自然が汚染された時代には無理かもしれないけど、すべてが再び清らかになった暁には、聖者方が取り戻す可能性は少しはあると思っています。しかしそれは少なくとも数千年は先のことでしょう。また例えばヒマラヤの聖者方がヴェーダを感知したとしても、それが社会に伝わるまでに少し時間がかかるでしょう。さらに、誰かがヴェーダを感知したとして、誰がそれを真のヴェーダと認めるかという問題もありそうです。

 

またサイババの学生さんが語っていたことによれば、「昔はインドだけでなく世界中にヴェーダがあったけれども、それが現代まで残されているのはインドだけです。」とのことでした。私はさらに「日本人は太古の時代にサンスクリット語を理解していたのですか?」と聞くと、「必ずしもサンスクリット語だけによってヴェーダが保存されていたわけではありません。」とその方は答えられました。

 

「エデュケアは21世紀のヴェーダです。」という時、エデュケアとは「内から引き出されたもの」という意味です。またサティヤサイスピークス1巻に含まれていますが、サイババの1960.9.27の御講話には、If you develop that ekaagratha(one-pointedness)  in the Kurukshethra of your own particular 'battlefields' ,you can assuredly also listen to the Geetha … the Bhagavathgeetha or the Sai Geetha or the Sathya Sai Geetha, intended for you. 

(もしあなたがそのようなエーカグラタ一点集中をあなた固有の戦場であるクルクシェートラで育むならば、あなたもまた確かにギータを聞くことができるでしょう。バガヴァッド・ギーター、サイギーター、サティヤサイギーターと呼んでもいいのですが、あなたに意図されたものを。)とあります。このような意味でのエデュケアとしてのヴェーダあるいはギーターならば、私は受け取っているといえるかもしれません。私にとってこの人生はほぼ絶え間ない戦場でしたから。

 

前回リーダーシップについて書いた際、精神的化学変化が最終的に形をとった時にそれを表現する、言葉にするといいましたが、まさにそれは私が内から引き出したもの、あるいはサティヤサイギーターといってもいいのではないかと私個人は思うのです。私のこのブログは、それに少しばかりいろいろ付け加えふくらませていますので、エッセンスは少し薄まっています。

 

「神が用いる言語は沈黙である。」という言葉があります。ルーミーだったでしょうが、私たちの言葉はそれの舌足らずな翻訳にすぎないようです。私は最近仮説について書きましたが、私が書くものはあくまでも仮のものです。ルーミーのいうpoor translationです。神の呼吸=ヴェーダは呼吸するもの=神の存在を示唆します。たとえpoor translationあるいは仮説であろうとも、それが真理を少しでも示唆することができれば、最低限の役割を果たしているといえるでしょう。

 

思いと言葉と行動の一致が大切です。私が書くものは多少なりとも私の行動の結果を含んではいますが、これからも自分の学びを継続して誠実に実行していきたいです。この思いと言葉と行動の一致はリーダーシップの一つのありようでもあるようです。ヴェーダについてはまだ語りたいことはありますが、今後さらに学びを深めてからのこととしたいです。