愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

エデュケアとエデュケーション

検索していただければわかりますが、エデュケアについてはこのブログで3回ふれたことがあります。エデュケアはサティヤ・サイババが強調した概念です。さまざまな定義ができるのでしょうが、わかりやすくいえば「内から引き出すこと」です。先週書きましたように、意識あるいは心の世界にあるものを言葉(や行動)を媒介として引き出すこともその一つです。一方エデュケーションはいわゆる日本や他国一般で行われている教育のことです。読み書きそろばんのように言語や数学などの扱いに長ずることやさまざまな知識(情報)に関連することです。今日はこのエデュケアとエデュケーションの関係について少し触れます。

 

先週「意識の考古学」と題して、化石を取り出すように知識を得ていると書きました。私は漫然と頭を動くにまかしているところがあり、風が木々にまとわりつくように、水が川底の石をなでるように、頭は何かの対象について思いを巡らせています。特に霊性に関心がありますし、他にも経済や教育、山歩きや地域のことにも関心があります。ニュースアプリで現在起こっていることも大雑把に把握しています。頭が何かの対象について思いを巡らせているとき、大体それらのインプットに応じた思考が行われています。子どもがレゴブロックをいじるような感じで頭は思考対象をいじっています。意識的な目的はほぼありません。そういう時間をある程度確保していたら、そのうち何らかの新しい気付きが得られます。それは私が想像=創造したものというより、見つけたものです。発見とは見が発するということです。何らかのパースペクティブ(視野)が与えられると同時に新たな光で照らされた何かが見えてきます。それはそこにあったものといってもいいでしょう。また発見は英語でdiscover=dis+cover(覆いを取り除く)と書きます。覆いを取り除くことで埋もれていた何かが現れるということです。私にとって思いを巡らすことは、レゴブロックのように何かと何かが思わぬ結びつきを示し何かを見るレンズが形成されることでもありますし、あるいはスコップで土いじりをしているとき、土の中に何かを見つけるような作業にも似ています。それは内にあるものを見つける、そしてそれを言語化することによって少しばかり引き出してくる、つまりエデュケアの過程の一つといえます。

 

霊性のことについて思いを巡らしているときには大抵霊性に関する知見に到達します。経済のことについて思いを巡らしているときには経済に関する知見が得られます。いわゆる知識=情報は教育に関することですが、それらがきっかけとなって内なる探索が行われています。教育=エデュケーションとエデュケア(内から引き出すこと)は私の中でこのように関連しています。私が内から引き出してくることにどれだけの価値があるかは、他の人にとってはあまりどうでもいいことでしょう。実際私がこのブログに書いていることに価値を与える人は相対的に少ないわけです。あくまでも私の人生に関係する価値ということです。

 

まったく学校教育を受けていない人でも、家族や地域などで人と関わることで何らかの知識を得ていますし、まずはそれらを契機としてだれでも内なる探索、探究は可能です。私が大切だと思うのは、学校教育で高度な知識を与えられていようとあるいはそうでなかろうと、自分に今備わっている知識をもとに内なる探究ができるかどうかです。なので私はいわゆる教育と同時にエデュケア(内から引き出す)の訓練が必要だと思いますし、エデュケーションとエデュケアが両輪となって人生を歩むことが人生に実りをもたらすと思っています。

 

サイババの学校ではこのエデュケアの訓練がカリキュラムに組み込まれていますし、内から引き出すことになじんでいる人は、自分のなじみのない分野でも少しばかり時間をかければ物事を理解できます。私が個人的に思うのは、エデュケアの能力を発揮するには、思考の自律性、自立性やさまざまな人生の実体験を重ねていくこと(経験的知識)、あるいは遊びの要素、心の余裕、ある概念に関する手本、先達が身近にいることなどが必要に思います。

 

霊性の世界では外界と内界は対応しているといわれます。外に私たちが見るものはすべて私たちの内にある。なので外にあるものを調べるときには内なる世界を調べなければなりません。外にあるものを外を見て調べるのがエデュケーションであり、外にあるものを内を見て調べるのがエデュケアです。基本的に態度が異なります。付け加えれば、内と外との間に対応関係があると理解していることは英知の特徴の一つでしょう。