ヴィブーティ(神聖灰)について

 

今日はヴィブーティについて私が知っている範囲、記憶にとどめている範囲のことを書きたいと思います。間違ったことを理解していたり、記憶違いのこともあったりで正確ではないかもしれませんが、ヴィブーティを理解するきっかけにはなると思います。

 

バガヴァッド・ギーターにはヴィブーティヨーガというのがあり、確か第10章なのでしょうが、今日の話はそちらには直接関係しません。神聖灰としてのヴィブーティです。日本には馴染みのないものかもしれませんが、サイババが手から物質化する灰がヴィブーティだといえばわかる人はいるでしょう。私が知っている範囲では、一般にヤグニャ(日本の護摩に似たヴェーダの儀式)で生じる灰をヴィブーティというようです。ヤグニャの残り物です。インドの敬虔な人々は金粉よりもヴィブーティに価値をおいていて、金粉よりもヴィブーティを手にすることを好むと聞いたことがあります。ヤグニャは火に供物を捧げ、火の神=アグニがそのエッセンスを世界に届けるものとされます。残ったものがヴィブーティです。例えば木を燃やせば灰になります。米や麦を燃やしても灰になります。果物を燃やしても最終的に灰になります。しかしながら灰はいくら燃やしても灰のままです。つまり灰はすべてのものが最終的に行き着くところのものであり霊的には英知や解放を意味しています。英知は時間が経てば変わるような中途半端な理解ではありません。最終的な理解です。なので霊性の修行者たちはヴィブーティをとても重要視します。

 

またヴィブーティはこの世のはかなさをも表しているようです。日本では人間が死ねば火葬に付されます。骨になります。骨もずっと燃やし続ければ最終的には灰になるでしょう。硬い大きな岩であっても長い年月の間に少しずつ小さくなり石になり、砂になり、最終的に粉になっていきます。ある程度長い間人生を生きれば多少なりとも人生のはかなさを感じる経験をするでしょう。この世の楽しみや富、権力に執着して生きるのではなく、真の幸福を求めるようにヴィブーティは人に教えます。

 

日本の護摩ではそれによって生じる灰をどう捉えているのかはわかりませんが、インドのヤグニャでは灰=ヴィブーティは非常に貴重なものです。しかしヤグニャのような儀式だけでなく、人が自らの行為を神仏に捧げるならば、それはヤグニャに似た行為であり、最終的にそれを受け取るものが行為を灰にして、行為を捧げる人生を歩んできたものに英知と解放を授けます。「捧げる行為は神であり、捧げ物自体も神です。神によって神であるところの聖なる火に捧げられます。神への捧げ物としての行為(ヤグニャ)をし続けるものは最終的に神に到達します。(ギーター第4章24節)」これが主クリシュナの保証です。人生のすべての行いを捧げるものは、英知のみならず人生の最終的な目的を果たすことがこの節で述べられています。自らの行為をすべて捧げその結果を求めなければ、たとえば私はそれでどうやって生活していくのだろうかと不安になったことがありますが、その捧げた行為は最終的にすべてヴィブーティとなり、ヴィブーティとして返ってくるということです。Paramam Vichithram Leela Vibhuthimというヴィブーティマントラの詩節がありますが、多分ですがparamamは至高のという意味で、vichithramはstriking心を打つという意味で、leelaは神の戯れという意味です。ヴィブーティとはそういうものであり、つまりもし私たちが行為を捧げてヴィブーティが返ってくるとしたら、それは神の戯れとして私たちの心を打つ至高の結果が私たちを待っているということになります。通常の行為の結果とは異なります。

 

少なくない人が、サイババが手からヴィブーティを出すことをいかがわしいと受け取っていますが、私自身はそういういわゆる奇跡にはなぜかほとんど気が惹かれることはありませんでした。ただサイババがヴィブーティを帰依者に与えたということは帰依者のカルマを灰にしてしまい、悪い結果が返ってこなくなるようにし、霊的な前進を促すものであると理解できます。一般にヤグニャの残り物である灰=ヴィブーティにもそういう意味はあります。

 

インターネットを検索すればたくさんヴィブーティに関する情報が出てきますので、関心のある方はそれらに目を通して理解を深めていただければと思います。