ヴェーダの時代

 このブログ(「愛に生きる」)をヤフーブログで始めましたが、ヤフーブログが終了することに伴い、はてなブログに移行してきました。ヤフーブログ時代の8年を第1期とすれば、はてなブログ時代はその第2期に当たります。ヤフーブログでの最後の記事を書いたのが8月の上旬でしたが、それから2か月弱、多少涼しくなってきて気持ちを新たに再開したいと思っています。
 
 第2期の最初に何を書こうかと思ったのですが、今後10年、20年にわたる目標にしていること、つまりヴェーダに関して書くことにしました。ヴェーダといえばインドが誇る文化遺産であって、いわゆるヒンドゥー教の支柱ともいえるものです。私はいくつかのヴェーダマントラを記憶し暗唱してはいるものの、サンスクリット語の不勉強により、そこから十分な益を引き出せていません。ヴェーダに取り組むにはまずはサンスクリット語の学習に取り組まなければならないのですが、この半年、1年の間にそれを開始する目途は立っておらず、いつになったらヴェーダを深く学ぶことができるようになるかはわからない状況です。しかしながら、古代日本に仏教が到達したのと同じくらいのインパクトを持った日本へのヴェーダ伝来のこの時期に、ヴェーダの学習という目標を取り下げるわけにはいきません。焦らずにヴェーダ学習の機会が到来することを待ち続けたいと思っています。
 
 Learn to speak what you feel, and act what you speak.
(あなたが感じることを話すことを学び、そしてあなたが話すことを行いなさい。)
 
 シンプルな言葉ですが、これもヴェーダをとらえる一つの視点です。基本的に人間とは、生きていく中で思いと言葉と行動が一致したその総体、領域のことです。なのでヴェーダの恩恵を受けるには、思いと言葉と行動が一致した人でないと難しいと私は思っています。
 ヴェーダの別名の一つにシュルティ(聞かれたもの)があります。心が極めて純粋で清らかな聖者方が神の呼吸、鼓動として耳にした音がヴェーダです。そうであるならば、私たちの心に生じる小さくかすかな波を受け止めることがヴェーダと無関係ではありせん。そうです、心でfeelしたことは、内在する神性の息吹の現れです。聖者方が感知した音をサンスクリット語で記録したのに似て、心で感じたことを適切に言葉に移すことは非常に尊いことだといえます。そして自らが語ったことを行うことは、ヴェーダの教えを実行に移すに匹敵します。
 人の心の純粋度によって適切に感じることができるかどうか違いがあるかもしれませんし、さらに感じたことを適切に言葉に移すことができるかどうかも人によって違いが生じえます。しかしながら、その本質において、感じることを言葉に置き換え、語った言葉を行動に移すことはあらゆるケースにおいて推奨されることではないでしょうか。
 
 少し話は変わりますが、あらゆるものが汚染された現代において、神聖な音を聞くことは稀です。本来ヴェーダとはそういう聞かれたものではあるのですが、こういう時代においてヴェーダは内在するものを引き出すこと(=エデュケア)と再定義されてもいます。つまり内在するものを言葉や行為の形で外に表すことです。
 
 私自身は太古から伝わってきたサンスクリットヴェーダに取り組みたいと同時に、内在するものを外に引き出すという意味でのヴェーダにも何らかの関心を向け続けるつもりでいます。内在するものは深い静寂の中でしか感知feelできないもの、つまり霊的なものです。サンスクリットヴェーダと内から引き出してきたものとしてのヴェーダを共に探求の対象にし続けていれば、いつかはその接点をより深い次元で理解することができるでしょう。私がそこまで到達できるかどうかよくはわからないのですが、ヴェーダに関心を持つ人たちの内の一定の人たちにはそこまで到達してほしいと願っています。ヴェーダに関心を持つ人の大半はインド人ですが、今は世界中にヴェーダ学習の機縁が広まっています。

 このはてなブログ、気長に続けていくつもりでいます。新たな出会いもあるかもしれません。どうぞ今後ともよろしくお願いします。