人生の意味2

 

約1年ほど前に人生の意味について書きました。

aitasaka.hatenablog.com

そちらに書いてある通りなのですが、少しばかり補足的なことを今日は書いておきます。

 

前回の記事の中に次のような引用があります。
"Perfect freedom is not given to any men on earth because the very meaning of mortal life is a relationship with and dependence on another."
(完全な自由は地上の誰にも与えられていません。なぜなら、この世における人生の意味自体が、他者と互いに関わり合い、依存し合うことにあるからです。)(1979.10.20)(『プレマダーラ 愛の流れ』p62)

 

基本的にこの通りなのだと思います。人間はある意味不完全だということです。つまりは人間は皆ある種の障害者なのです。科学技術は障害者のためにも有用ですが、そもそも人間皆が障害者なのですから、自然に自然に反する人間存在にとって科学技術はある種とても人間的です。私は若いころ科学技術に対して反感をもっていて、人間は自然に還るべきだというような考えを強くもっていましたが、年を取って、また私が健康を害しある種障害を自覚するするようになって科学技術と折り合いをつけることができるようになりました。私はサイババを敬愛していますが、サイババは最後の8年間ほど車いすの生活を送ることが多く、それは私には障害者としての生き方、障害者への慈しみを示しているように感じたものです。不完全さに関しましては、私はゲーテルの不完全性定理に大いに関心をもってきましたが、それは論理学の不完全さ、理性(reasoning)の限界を示唆するものですが、それに加え人間は存在の不完全さにも思いをはせるべきです。ジグソーパズルは一つ一つのピースに出っ張っているところと凹んでいるところがあり、それらが互いに補い合いながら一つの絵を作りますが、人間社会もそれに似て個々の人間が何らかの形で補いあいながら形成されるものです。

 

さてさらに付け加えますと、似た言葉にoperation(操作)とcooperation(協力)があります。依存関係にある人間に求められることは、基本的にcooperation(協力)の方です。operation(操作)とは何らかの形での権力の行使といえるでしょう。現代社会が生きがたく感じるのは、社会にoperationが満ちていて、cooperationが欠けているからです。SNSを見ているとしばしば見かける言葉ですが、DVとかマウントとかというのはoperationつまり自分の好きなように人を操作しようとすることです。もちろん特に大きな社会集団になると政治的決断をせざるを得ないことはあり、往々にして政治的決断にはそれで利益を得る人と一時的に損失を被る人がいて、それもoperationの一種といえますが、しかし私は現状最低限の政治的判断は人間社会に必要だと思っていますので、定められた手続きに沿った形での政治は尊重しています。私は政治家とかかわりをもっていませんし、また特定の政治活動をしているつもりもなく、例えば国会で法律が定められたら基本的にそれに対して協力的(cooperative)な態度でいたいと思っています。大切なのはあらゆる場における協力的な態度でしょう。自分で自分の面倒を見ることから始まって、家族、地域社会、職場などなどでできる範囲で補いあうということです。operationではなくcooperationがより広がれば、世の中はもっと住みやすくなるはずです。少人数の手本からそれは広まっていくのかもしれません。

 

1年ほど前に書いた記事に関連して、諸関係からの解放ということがあります。人間関係の網の目からどのようにして解放されるのかということです。一つの考え方として全託というものがあります。全託は超越者にすべてを委ねることというような意味ですが、つまりその場合関係は自分と超越者との関係だけになります。全託はたやすいものではありませんが、物事をシンプルにしたい人にとっては全託に挑戦することは一つの選択です。一生をかけて取り組むだけの価値はあるでしょう。私は未だに十分な理解と実践ができていません。

 

人生の意味に関連して、生きがいという言葉があります。世の中にはこの生きがいという言葉を好む人がいるのを私は知っています。生きがいという言葉が広まったのは神谷美恵子氏によるところが多いでしょうが、私は神谷氏の著書を読んだことはありますが、生きがいという言葉は私にはしっくりこない、あるいはあまりピンとこない言葉、概念です。何かに携わっていることに人生をかける甲斐があるというようなことでしょうが、その携わることに霊的な理解や観点がなければあまり意味がないと思うのです。実際のところ、私にはこれが生きがいであるというようなものはありません。

 

人生の意味について人は深く悩むのかもしれません。たとえば大きな困難や苦痛に直面した際、困難や苦痛自体よりも、それらに何の意味があるのかわからないことがより苦しいと感じるかもしれません。私は今人生の意味について迷うことはほぼありませんが、私の書くものによって、読む人の悩みが少しでも軽減されればうれしく思います。