シヴァマントラについて

 

毎年この頃の新月前日はバーラタ(インド)においてマハーシヴァラートリーが行われます。マハーは「偉大なる」という意味で、シヴァはシヴァ神のことでラートリーは夜という意味です。簡単にいえばシヴァを思いながら夜を過ごす日のことです。シヴァラートリーは新月ごとにありますが、その中で最も重要なのがマハーシヴァラートリーだとされます。今年は3月9日がマハーシヴァラートリーだったと思います。今日はそれに関連して、私が憶念することの多いシヴァに関するマントラについて触れてみます。一つはオーム ナマ シヴァーヤで、もう一つはシヴォーハムです。

 

まずはオーム ナマ シヴァーヤです。ナマはナモー(帰命する)という意味で、シヴァーヤはシヴァ神にという意味です。オームはこのナマシヴァーヤというマントラに力を与えます。まとめて「シヴァ神に帰命いたします。」という意味になります。シヴァ神はバーラタでは創造維持破壊のうち破壊をつかさどる神様だとされているようです。この世のものをよく観察してみれば、すべてのものが最終的に無(認識の枠外)に帰していきます。最後はもと来たところに帰るのです。この世は循環によって成り立っています。その最初と最後をつなげる神様がシヴァ神です。私はわかりやすくシヴァ神は片付けの神様だと思っています。

 

片付けを肉体・物質レベル、心のレベル、存在・魂のレベルで考えてみます。肉体・物質のレベルでいえば、私たちは日々肉体の清潔を保ったり、さまざまな場所の掃除や片づけをしています。ある程度肉体や住む環境などがきれいになっていないと生活がうまくいきません。そういうレベルの清潔を保ち、創造的な活動の準備をします。心のレベルの清浄に関しては、肉体・物質レベルよりはわかりにくいかもしれません。心がきれいとか汚れているということに日本の教育はほとんど配慮していません。実際の生活やメディアではさまざまに不必要なことが表現され、そういうものの印象が記憶に積み重なっていきます。印象が積み重なるということは自然現象なので仕方ありませんが、部屋にホコリが積み重なって汚れるように、心もそうやって汚れていきます。心が汚れているかどうかは、よこしまな思いがわいてくることが多いかどうかを観察してみればわかるかもしれません。よくない思いについつい浸ってしまうのも心の汚れの印です。心が汚れてしまった場合、どうすればそれが浄化されるのか、日本人の99%は知らないかもしれません。臭いものにふたをしても、汚れが取り除かれるわけではありません。心の掃除の仕方というものがあります。それはつまりサーダナ(霊性修行)です。御名を唱えたり、瞑想したり、礼拝したり、奉仕をしたり、祈りを捧げそれに従って生きる努力をしたりなどなどの行のことです。これらによって、少しずつですが心の汚れは取り除かれていきます。それでは存在・魂のレベルの汚れとは何でしょうか? ヴァサナ(過去生から受け継いだ潜在的傾向)ともいわれますが、今日は過去生から引き継いだカルマ(業)のことを取り上げておきましょう。人間として生まれてくるのは、過去生の善悪の行為の結果だとされます。悪い行いの結果だけでなく、善い行いの結果が残っていても生まれてくるようです。このレベルの清浄つまりカルマを取り除くにはどうすればいいのでしょうか? 私は義務と犠牲だと思っています。自らのカルマにふさわしい人とこの世において縁があることが多いでしょう。特定の人との間にカルマの負債があったりするのです。ならばその人との間のカルマを清算するには義務を果たすことが適切だと思うのです。また犠牲とは、エゴや憎悪、プライドなどを出さずに自らが受けた何らかの害を身をもって受け止めるということ、行為の結果に執着せず必要な状況において手放すものを手放すということです。許しや無執着の類です。このような三つのレベルの汚れを取り除くのを助けて下さるのがシヴァ神です。私はシヴァ神は片付けの神様だと思ってオーム ナマ シヴァーヤというマントラを唱えたり書いたりすることがあります。

 

次にシヴォーハムというマントラについてです。シヴァである私(アハム)、つまり「私はシヴァである」という意味のマントラです。アハム ブラフマースミ(私はブラフマンである)と趣旨は同じです。シヴァ神と私という二元性ではなく、シヴァと私は一つという一元性について触れています。川が上流から流れていき河口において海と最終的に合流するその姿のことです。私とシヴァ神の区別がなくなります。私がシヴァ神に融合するのは、シヴァ神の御教えを実践してシヴァ神の性質を自らに取り入れる努力によってなされるでしょう。一方シヴァ神の側からの私(人間)をシヴァ自らと一つにさせようという作用もあります。たとえば私が食物を口にしてそれを噛み胃に送れば、それは消化されて体の隅々にまで食物のエッセンスは届けられます。それと同じように、シヴァ神は私たちを「食べて」います。自然界には食物連鎖というものがありますが、進化の頂点にある人間はシヴァ神によって食べられます。それは人生で出会うさまざまな苦痛のことです。普通に生きていて、何で自分がこんな目に合うのかと思うことはあるでしょうが、それはシヴァ神が私たち(のエゴ)を食べているのだと受け止めています。そしてそれを通じて私たちをシヴァご自身の一部にしようとしている、そういうこともあると思っています。この世のことは時間が解決してくれます。苦痛はいつかは過ぎ去ると思って耐え、喜びはそれによってこの世への執着を増すことのないように注意し、つまりはバガヴァドギーターにあるように苦楽を等しく見て平穏の内に生きるのがいいでしょう。

 

私は移り気なのかもしれませんが、さまざまなマントラを唱えたり書いたりしています。オーム ナマ シヴァーヤやシヴォーハムを唱えるとき、たとえば今回書いたようなことを思いながら唱えているわけです。これはやってみたことのない人にはわからないかもしれませんが、深い満足を与えてくれるサーダナの一つです。マントラをどう理解すればいいか最初はわからないかもしれませんが、マントラへの信仰がありさえすれば、マントラ自体がその意味を開示してくれるといわれています。自分に開示された意味が、自分の人生にとって最も有益な意味であり得ます。普通の言葉と比べて、マントラは唱えるさまざまな人に適した意味を開示してくれるからこそマントラなのです。