オーム ナモー ナーラーヤナーヤ

 

今日は一つの御名について書いてみます。その御名は「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」です。その前に少し触れておきますが、日本人のほとんどの人は御名というものにあまり関心がないでしょう。もしかしたら単なる音の羅列に何の意味があるのかと考えている人もいるかも知れません。日本で最も有名な御名は多分「南無阿弥陀仏」でしょうが、口に南無阿弥陀仏と唱えるのを習慣としているわずかばかりの人が日本にいます。その中のさらにわずかな人がその御名を唱えることによって喜びと勇気を得ているでしょう。御名とは実際どのようなものであるのか? 

 

私の家には『浄土真宗聖典』があります。1800ページほどです。2回ほど通読したことがあります。この他に、祖師方の御教えを集めた七祖編があります。こちらは1600ページあまりです。合わせて3400ページでかなりの量です。私にいわせれば、この3400ページは南無阿弥陀仏の六字を解説したものと捉えても大きな間違いではないと思います。また浄土真宗以外の宗派でも南無阿弥陀仏という御名に対する理解や解釈があるでしょうから、日本だけでも南無阿弥陀仏という一つの御名にどれだけの意味が込められているかがわかります。実際にそれだけの内実があると私は思っています。

 

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さてインドでは主な神様には1000ほどの御名があります。また有名なものには「オーム ナマ シヴァーヤ」や「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」があります。インド人は挨拶を交わす時に「ラーム ラーム」ということもあります。これはラーマ神の御名です。おそらくインドには宗教や霊性に関する文献が桁違いにあって、「オーム ナマ シヴァーヤ」や「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」という御名の包括的な解説書を書こうとするならば、万を超えるページ数になるかもしれません。一つの御名にはそれほどの文脈や意味が込められていて、実際にそれらの背景を背負った力をもっていると私は思っています。私のようなほんのわずかばかりこれらの御名に関心があるものですら、何ページかそれらについて書くことができるでしょう。御名は一つの世界であり、それはこの世と並行して存在するパラレルワールドのようなものですらあります。

 

今日は「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ(ナーラーヤナ神に帰命し奉る)」についてヴェーダに沿って少しばかり書いておきます。ナーラーヤナウパニシャッドにこの「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」ついてい触れた章があり、そこには次のようにあります。
「オーミッティエーカークシャラン ナマイティドヴェー アクシャレー ナーラーヤナー イェーティ パンチャークシャラーニ」
(オームは1文字であり、ナマは2文字です。ナーラーヤナーヤは5文字です。)
サンスクリット語表記の事実を述べただけですが、これを次のように理解する人がまあいるようです。「1はすべてが一つであること、唯一者しか存在していないこと。2は二元性あるいは神と帰依者が存在する条件付き不二一元論。5は五大元素で私たちが感覚で知覚するこの世界のこと。多様性のこと。」と。1と2と5は人の状態の有り様を三分したものであると。そしてオーム ナモー ナーラーヤナーヤというマントラあるいは御名はこれらすべての見解を統合するものであると理解されます。多分このような理解は適切なのでしょう。「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」という御名の直訳は「ナーラーヤナ神に帰命し奉る」というものです。ナーラーヤナ神とは世界を維持するヴィシュヌ神のことです。日本では那羅延天(ならえんてん)として受け取られています。

 

ナラヤナウパニシャッドには次のような詩句もあります。
ヴィンダテー プラジャーパティヤグン ラーヤスポーシャン ゴーパッティヤム
(この御名を唱える人はプラジャーパティの地位に達する。)
プラジャーパティは至高のブラフマンの一歩手前の存在のようです。最高の至福はブラフマーナンダといわれますが、その次に喜びの大きい至福がプラジャーパティの至福です。つまり、「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」の御名を唱える人は非常に高いところにたどり着くわけです。私個人は、ここで重要なのはナモー(私ではなくあなた)というエゴの否定ではないかと考えています。つまりナモーの態度を維持できる人は人生の目的を達成することがかなり確実であることが、このウパニシャッドの詩句から推察されるのです。南無阿弥陀仏もそうですね。

 

御名はそれに関する知識を得ていけば、知的にも非常に面白いものですし、知的な面だけでなく信仰の面でも多くの恵みをもたらしてくれるといえます。先程も述べましたが、御名はそれだけで一つの世界です。宗派がどうのこうのというのには関係なく、多くの人が好みの御名を味わってほしいと思っています。