マントラと独創性・個性化

 私は日常的にマントラを唱えています。ほとんどはヴェーダマントラですが、ヴェーダでなくても気になるマントラは唱えています。たとえばソーハム(私はそれ)やI am I.(私は私)などです。ソーハムについてもI am I.についてもこのブログで書いたことがあります。

 私はヴェーダをインドの方に直接教えていただいたのですが、その方によれば、ヴェーダを唱えると、ヴェーダの方からそれを唱えるものに意味を授けてくれるとのことでした。ヴェーダサンスクリット語ですが、サンスクリット語を理解してなくてもヴェーダが意味を啓示してくれるようなニュアンスでしたが、私は最低限サンスクリット語の基本的な意味と日本語の概訳を理解した上で唱えています。

 今日はヴェーダが私たちに啓示するその意味にまつわることです。

 先日、梶川泰司氏の次のような言葉に出会いました。
「他人のアイデアとの違いを求める行為から独創性は生まれない。独創性は自己の無数の経験の秩序化に関わっている。その結果どんな他人のアイデアにも似ていないアイデアが生まれるのである。Think differentは物事を変える行為を外から見た時の他人の助言だ。」

 あるマントラ、たとえばガヤトリーマントラを唱えていて、10人が10人同じ意味を啓示されるかといえば、私がこれまで15年以上このマントラを唱えてきた感触からいえば、そうではないと思います。ガヤトリーマントラを構成する単語の意味はそれほど多様ではないでしょうが、しかしガヤトリーマントラの意味を憶念しながら繰り返し(何百回、何千回、何万回と)唱えていると、単語の意味のつながりがさまざまな可能性を示唆します。ガヤトリーマントラを構成する単語の意味が大きく変わるわけではないのですが、それらのつながりが啓示するものは、同じ人が唱えても多様です。それはその人の霊的レベルに応じた啓示だといえます。個人においてそうなのですから、人生体験や霊的レベルが異なる人では、ガヤトリーマントラが啓示する意味もさまざまだと思うわけです。

 さて引用した梶川氏の言葉の中に「自己の無数の経験の秩序化」という文言があります。そうです。マントラの意味を憶念しながら倦むことなく(愛を込めて、つまりマントラに対して誠実な態度で)繰り返し唱えていると、「自己の無数の経験」が整理されてくるのを感じます。人の経験は千差万別です。その人の背景が異なれば文章を読んでいても理解が異なるように、マントラを唱えていても、その人の経験がその人固有のマントラの意味探求へ誘(いざな)います。私の経験上、マントラを唱えていると自らの体験がゆっくりとですが整理されてくるのは間違いないことで、自らの体験が整理されることと、マントラが意味を啓示してくれることの間には大きな相関があるように思われます。

 各自の体験は世界で唯一のものであって、その体験が整理されることがその人の独創性をもたらすと梶川氏はおっしゃっているのですから、マントラは独創性と同時にそれを唱える人の個性化を促し、ひいてはその人の内的自立を与えてくれるでしょう。

 インドにはガヤトリーマントラだけに人生をかけている人々がいると聞きます。ほんの10いくつかの単語で構成されるマントラですが、おそらくそれがもたらす恩恵は計り知れないがゆえに、そういう人々がいるのであって、ヴェーダを習う機会はなかなかないかもしれませんが、ガヤトリーマントラはアマゾンで検索すればそれに関する書籍や音源(CD)が容易に手に入ります。

 私は真言宗徒のことはまったくわかりませんが、彼らもマントラに人生を捧げた人たちなのでしょう。マントラの示す完成に至るには、そのマントラを何百万回、何十年にわたって真摯に唱え続けなくてはならないかもしれませんが、それに見合う何かがマントラにはあると思うようになりました。

 真言宗徒でない現代の日本人に勧めるとすれば、私はガヤトリーマントラを勧めます。ガヤトリーマントラマントラヴェーダ)の母とされています。