約1年1ヶ月ほど前にエデュケアとエデュケーションについて書きました。その時はエデュケアを「内から引き出すこと」と定義しました。それは間違いはありません。今日はそれにもう一つ意味を付け加えたいと思います。
エデュケーションは日本語の教育で、つまりいわゆる日本いえ世界中で行われている教育のことです。本に書かれていることや外界に関係することを対象としています。エデュケアとは「価値を与えること」とも定義できます。私たちが学校などで学んでいることに価値を与えることがエデュケアです。しかしながら実際のところは自らに価値がなければ果たして自ら以外のものに価値を与えることが可能でしょうか? 富をもっていないものに富を分け与えること(慈善)は可能でしょうか? 自らが知識をもっていないものが他の人に知識を与えることができるでしょうか? それと同じでまず自分に価値がなければそれ以外のものに価値を与えることはできません。自分以外のものに価値を与えることができるのに自分に価値を与えることができないということははたしてありうるでしょうか? それは単に言葉遊びのようなものであり、自らに価値があってこそそれ以外のものに価値を与えることができるのです。
自らに価値を与えるとはどういうことでしょうか? まずはそれが出発点です。私の見解では、自らに価値を与えるとは、自ら(人間)の構成要素を理解し、それを正しく適切に用いることです。人間は身体と心と存在から成り立っています。5つの行動器官と5つの感覚器官を備え、生気(呼吸など)によって日々の活動が維持されています。心はエゴや記憶、知性、思考などから成り立っています。知る力、行動する力、意志の力なども備えています。これらを正しく用いることが人間(自ら)に価値を与えるということです。例えば金(きん)があったとします。それを石ころのように庭に捨てて雨にさらしておくでしょうか? 例えば食物があります。買ってきた食物の半分でもゴミに捨てることがあるでしょうか? 例えば靴があります。靴を頭の上において歩くでしょうか? それと同じように、人間の構成要素も適切に用いるようにできています。適切な思いを抱くことが心の正しい用い方であり、優しく真実を語ることが舌の正しい用い方であり、義務を果たすことが体の正しい用い方です。お釈迦様は八正道によって、人間の構成要素を正しく用いるよう弟子たちに勧めました。
人間がその構成要素を正しく適切に用いることは、人間性や道徳性といわれます。なのでエデュケアつまり人間に価値を与えることは人が道徳的に振る舞うことを促進します。そして人間が道徳的であるとき、その道徳性に沿って知識を活用することが、教育に価値を与えることになります。まずは人間に価値を与え、その上で人間以外のものに価値を与えていきます。人間はまずは自らの力を頼りにしその上で文明の利器を活用するのと同じで、まずは自らに価値を与えその延長上に人間が他のものを活用する上で価値を与えます。エデュケーション(教育)が与えられても、それが活用されなければ(活用法であるエデュケアが身についていなければ)意味がありません。
人間の構成要素である身体や心、知性などは自動車に似ています。心(ハンドル)を動かせば、車体(身体)は動きます。心(ハンドル)を動かすためには事前の計画と目的地(知性)がはっきりしていなければなりません。自動車を運転するのに、アクロバティックなことは必要ありません。そんなことをすれば事故が起こり、命が危険にさらされます。安全運転が大切です。同様に、人間が人間として振る舞うのに、アクロバティックなことは必要ありません。適切に正しく生きることが大切です。
私の人生は私が生きます。私の人生を生きるということは、自分に価値があり、そして他のものに価値を与えることができるということです。他の人のいうことを聞いても、その人が私が病気になったときに代わりに苦しんでくれたり、死ぬときに代わりに死んでくれるわけではありません。他の人のアドバイスを参考として聞いてもいいですが、他の人の人生を生きてはなりません。思いと言葉と行動の調和は人生の骨格をなします。私が教育を活用します。これがエデュケアです。
おそらくここでエデュケアについて書いたようなことは日本ではあまりゆき渡っていません。なので教育エデュケーションはあっても、それが活用されず、死んでしまっています。死んだ教育は心に闇をもたらします。少ない教育であっても実践されるならば、実践されない多くの教育を受けるより好ましいはずです。