愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

意識の考古学

大層な表題を付けてしまいました。私はかつて児童文学あるいはファンタジー文学に興味を持っていた時期があり、よく読んだ作家の一人にミヒャエル・エンデがいます。彼の配偶者は日本人で日本と縁の深かった方です。このエンデの書いた本に『闇の考古学』というものがあります。かなり昔に読んだことはありますが、父のエドガー・エンデを語ったもののようで、今は内容はほとんど忘れています。エドガー・エンデは画家だったのですが、彼がどこから着想を得て絵を描いていたかに関する本だったと思います。エドガー・エンデは一人暗闇の中でじっとしていて、イメージが湧いてくるのを待っていたようです。イメージといってもいわゆる想像作用によるものではありません。私の受け取りとしては、瞑想中に伝わってくるメッセージ性を感じる絵や映像に近いようです。その絵像は化石を掘り起こしたもののようにあらかじめ存在していたものといえます。

 

今日私が書きたい意識の考古学もそれに関してです。若い頃の私は一生懸命に無理して思考するところがありました。ある種何かと格闘するかのようにです。それで何か実のある思考ができたかといえば必ずしもそうではありません。今の私は強いて思考することはほとんどありません。頭が半自動的といっていいように動いています。そして自動計算のように時々何らかの結論を導き出しています。当然ほとんどのアウトプットはかなりの程度インプットに依存しています。私の思考はたとえばぼんやりと編み物をしたり、歩いている際に行われます。思考は内なる世界に浸っていて、それは意識との触覚的な相互作用と言えるかもしれません。思考の多くはとりとめのないものなのですが、ときに思わぬものが思わぬものと結びついて新たな知識が得られます。それは意識という地層から化石を見つけるに似ているといってもそれほどおかしくない作業です。ぼんやりしているとき、私の思考は時空を超えて自由にさまよっていますので、他地域の文化について思考していたり、あるいはずいぶん昔の時代のことを考えていたりします。そういう時間をある程度確保することで少しばかりの知識が得られます。

 

少し話は変わりますが、ヴェーダは別名シュルティ(聞かれたもの)といわれており、極めて意識が純粋な聖者たちによって感得されたもののことです。つまり聖者たちによって聞かれたものをメロディとサンスクリット語によって補完し、保管されたものがヴェーダです。またヴェーダは聖者たちによって霊視されたもののことだといわれることもあります。聞かれたものであれ、霊視されたものであれ、同じことをいっているのでしょうが、人に聴覚人間と視覚人間があるように、多少ニュアンスが異なるのかもしれません。

 

ヴェーダは人間が勝手に考えたものではありません。マホメットは啓示を受けたといわれていますが、それよりももっと純粋なものでしょう。仏教やキリスト教は基本的にお釈迦様やイエス様が語ったことが経典になっています。ヴェーダは神の呼吸だとされます。それはこの世界ができる前から存在し、この世界が消えてなくなった後も存在するとされます。生気が体を隅々まで満たしているように、ヴェーダはこの世界を隅々まで満たしています。おそらくですが、桜のヴェーダとか微生物のヴェーダとかそういうものもあるはずです。

 

私は意識の考古学に携わっているつもりでいますが、それでもかなり粗雑なことしかできていません。日本で可能かどうかはわかりませんが、意識を極めて純化したとき、その状態で意識が開示されたならば、そこにヴェーダが常に存在していることでしょう。その根源状態にあるヴェーダを直接聞いてみたいという好奇心はあるのです。耳を両手で覆えば、ゴーという音(これがプラナヴァ=オームです)が明らかに聞こえてきますが、これと同じ程度に明らかな音としてヴェーダを聞くことはどうすれば可能だろうかと思います。それはおそらくですが、意識の考古学を進めていったその先にもしかしたら可能なのではないかと勘ぐってはいます。