愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

河合隼雄氏2

 

今日も河合隼雄氏について少しばかり触れます。河合氏はさまざまな仕事をなし、多様な側面をおもちであって、直接お会いしたこともないので、先週取り上げた本『「日本人」という病』の紹介をもう少しさせていただくだけです。この本は第1章 日本人を生きる 第2章 性を生きる 第3章 自分を生きる 第4章 死を生きる の4章からなり、私は第1章と第4章が特におもしろかったです。先週は第1章から引用しましたので、今日は第4章から引用しましょう。

 

「一方で自然科学の知というものは非常に大事で、我々はこれなしでは生きていけない。しかし、実はそれだけではなくて、神話の知、たとえばギリシャであれば四頭立ての馬車に英雄が乗って現れてくる太陽の姿のようなものが必要なのです。
 その際、重要なことは、ギリシャ人は太陽に関する神話をすごく喜んで話しているから太陽が丸いことを知らないのかというと、ちゃんと知っているということです。しかし、自分の内的体験を語るときには神話のほうがよっぽどピッタリくるわけです。」(静山社文庫p243)

 

よくいわれることですが、自然科学は観察者(人間)がいるのですが、観察者(人間)を排除した理論を作り上げます。科学万能時代における人間の疎外の問題がここから生じてきます。私はこのブログで何回か科学の問題を取り上げていて、繰り返す必要はないのですが、科学というものは結局のところ想像上のものです。想像上のものではありますが、よく作り上げられた科学理論は知覚できる現象をことのほかうまく説明するので科学理論が真実のように見えてしまいます。科学理論というものはあくまでも仮象です。科学は想像と概念と現象の一致するところのものです。

 

科学が人間を疎外するのに対して、観察者である人間を含んだ外界(現象世界)の記述をしようとするならば、それは往々にして河合先生のいわれるところの神話の知となります。神話の知では、太陽が昇るときの状況を四頭建ての馬車に英雄が乗ってくる姿で表現します。太陽が昇る瞬間を見る人間の心に生じる「内的体験」が語られていると河合先生はいいます。つまり自然現象(太陽)と神格(太陽神)と人間の内的体験(太陽神が馬車に乗った英雄と受け止められること)の3つの間(はざま)で生じたものが神話というわけです。世界各地に神話があり、今現在でさえも、それを神話といっていいのかはわかりませんが人間の内的体験に焦点を当てた世界の記述というものはあります。このような知は、人間を疎外せず人間の内的体験を尊重するという意味では価値のある知ですが、河合氏も本の中でおっしゃっているように、個人によって受け入れることのできるものとそうでないものの幅がいろいろです。何はともあれ河合氏は人間を相手にカウンセリングを行ってきて、人間の内的体験を無視できないことをひしひしと感じてこられ、それが神話の知の再評価へとつながったと考えられます。河合先生が一生を通じてなさったことはある意味人間学といっていいものです。

 

話は我田引水ぽくなるかもしれませんが、少しだけ河合氏の見解を別の側面から見てみます。インドにヴェーダがあります。インド文化はヴェーダの上に築かれたものです。日本人のほとんどはヴェーダに馴染みがないので私の述べることがあまり理解できないでしょうが、お許し下さい。

 

ヴェーダにはAdhibhautika, adhidaivika, ādhyātmikaの3つの側面があるといいます。ヴェーダはいってしまえば詩なのですが、その各詩節は自然(外界)の記述Adhibhautikaと神格の記述adhidaivikaと人間のとっての内的体験・内的真実ādhyātmikaの三通りの解釈が可能であると古来からいわれ、その中で最も大切なのはādhyātmika=人間の内的体験・内的真実だとされます。ヴェーダとは聖者の内的体験であって、ヴェーダマントラを瞑想するとはそのヴェーダの啓示を受けた聖者の体験を追体験することだとされます。この点でヴェーダと河合氏による神話の解釈は一致します。私の個人的意見ですが、神話はあくまでも(ほどほどの人によって)作られたものですが、ヴェーダは極めて心が浄化された聖者の人生体験を裏打ちする啓示(聞かれたもの)です。しかしその構造は似ています。私がかつてインド文化を学んだインドの方によれば、古代においてはヴェーダはインドだけでなく世界中にあったということですが、もしかしたら神話の類のことを意味するのかもしれませんし、あるいはインドで古代から継承されてきたヴェーダとまったく同じものなのかもしれません。

 

河合隼雄氏は人間というものに取り憑かれて、納得いく理解を求めて神話や宗教の世界に深く踏み入った方です。私もその一人ですが、人間に関心をもった人は望む望まないに関わらず、いつかは神話や宗教の世界に行き当たってしまうように思います。関心のない人には意味不明なことが神話、宗教、霊性の書に書かれていますが、それらが我流であったとしても理解できるような気がしてくればしめたものです。そこがさらなる探求のきっかけとなります。