独我論と仏道

 

最近少し独我論について考えることがあり、その中で仏道についても新たな見解が得られました。日本独自の思想として独我論というものがあるのかどうかは知りませんが、西洋ではデカルトヴィトゲンシュタイン、バークリーなどが有名だそうです。また日本仏教ではお釈迦様の天上天下唯我独尊エピソードが知られています。中国に関しては知りません。大雑把にいえば、独我論とは自分だけが存在しているという論です。独我論に従って生きる人がいたらしく、そういう人たちによれば、独我論で生きることは楽だったそうです。しかし私は何となくわがままに振る舞ってしまいそうなので、これまで独我論を人生に取り入れてはいません。しかしながら、バーラタ哲学ではブラフマンのみが存在する、アートマのみが存在するといわれていて、これは独我論、正確には独己論といえるものです。ブラフマンのみが存在する、アートマのみが存在するという説を私は受け入れています。

 

twitterで「Life is a single player game.」という言葉を見かけました。これも独我論でしょう。普通ゲームは2人以上ですることが多いのですが、実際のところ人生は、自らが行為し、自らの行為の結果によって環境がもたらされ、そしてそれに応じてまた行為するということの連続ですから、この点を強調すれば、自分にとっての人生は1人の人間によるゲームに他なりません。それは妥当な見解です。

 

また次のようなtweetも見かけました。「Nobody works harder than a man who knows no one has his back. Only himself and God.」(自分の背後を支えてくれるものは誰もいないと知っている人より働いている人はいません。彼と神だけです。)私は好き好んでそういう人生を積極的に選んできたわけではありませんが、健康に問題のある、ある意味社会的弱者であったので、富や地位をもつ人の周りに人が集まるようなことはまったくなく、基本的に自分に残されている力を頼って生きてきたと思います。誰よりも熱心に働いてきたかはわかりませんが、後ろ盾もなく自分の力を頼りに生きることは当然大変なことでした。可能な限り依存せずに生きるのです。もちろん完全に依存せずに生きることはできません。たとえば食べ物を自給しているわけではありません。衣服を自分で作っているわけではありません。遠出する際には公共交通機関を利用しています。私がいいたいのは、与えられた富や環境、人間関係の中で特に精神的依存がないように生きてきたということです。精神的依存がないようにとは、判断や思考において自立しようとしてきたということです。現代のようにメディアの影響や抑圧が強い時代において、これはかなり大変なことでした。それでも何とかこれまでやってきたと思います。もちろん危機的状況は何度もあり、神御自身しか頼りにならなかったことはあります。

 

そういう自分のこれまでの人生を振り返って思うのですが、もしかしたらお釈迦様が歩んだ人生というのもそういう人生だったのではないかと。お釈迦様は宮殿を離れて以後、自分の力を頼りに生きてきて、成道後のお弟子さんがいらっしゃる時期もそうだったのかもしれません。お釈迦様は心無い人に、自分に従って出家した者の人生を台無しにしていると非難されたことがあるようですが、人によってはお釈迦様とそのお弟子さん方は「怠けている」ように見えたのでしょう。しかし実際のところ、お釈迦様ほど働いていた人はいない、そう思うのです。

 

私はこれまで仏教のことを学んできましたが、それはそれでいいとして、お経ではなくお釈迦様の人生に直接学ぶとするならば、この「Nobody works harder than a man who knows no one has his back. Only himself and God.」という生き方こそがレッスンなのではないかと思うのです。それは仏教というよりも仏道(お釈迦様が歩んだ道)といえるでしょう。天上天下唯我独尊との宣言はお釈迦様が生まれた時の宣言とされていますが、それは後の世の記述で、しかしこの言葉の背後には自分の力と神だけを頼りに生きてきたお釈迦様の人生があるように思えてなりません。

 

このような生き方をしてきた果てに、この感覚される世のすべては私の存在(純粋意識)に包まれていて、つまりは人生を生きることのすべては「自己(self)への配慮」、「内的作業」に過ぎないというのが最近思い至った独我論いえ独己論になります。私にとっての仏教いえ仏道はそれでいいと割り切れる近くにまでやってこれました。仏教は心理学的だという識者は多くいますが、それも以上のような文脈によって理解が可能でしょう。