河合隼雄氏3

 

前回、前々回に引き続き、河合隼雄氏の講演集『「日本人」という病』から題材をとって少し書いてみます。今日は第2章の性を生きるから、ロマンチック・ラブに関する引用をしたいと思います。

 

やはりエロスというのはすごい情熱ですから、ものすごい迫力を神に向けて神と合一するような方向にまで高めていくことはできないだろうかと考えて出てきたものが、西洋のロマンチック・ラブというものです。(静山社文庫p81)
西洋ではキリスト教が非常に大事なものであったのですが、自然科学がだんだん発達してきて、単純に神の存在を前提とした神との一体感というものが薄れてくる。そういう宗教体験が薄れてくるにつれ、ロマンチック・ラブの株が上がってきたというのです。これはなかなかおもしろい意見です。ずーっと前は、恋愛なんてそんなに至上のものではなかったわけです。至上のものは、やっぱり神の問題です。人と神の関係が一番大事だったわけです。(静山社文庫p116)

 

河合隼雄氏は上に引用したようなことを書かれています。ロマンチック・ラブは本来神と人間との間のものだったのが、その不可能性を前提とするようになり、それが人間同士の間の関係にもちこまれ、人間同士の合一に至上の価値が与えられるようになったとのことです。詳しいことに関心のある方は本を読まれて下さい。私は西洋の文化をほぼ知らない人間なので、河合氏がおっしゃられているのが適切な理解なのかは知りません。

 

人間が他者、多くの場合異性に惹かれる思いが強烈であることは私なりに理解しているつもりですが、日本人だからでしょうか私はロマンチック・ラブというものをあまり意識したことはありません。恋愛至上主義者でもありません。恋愛結婚の人より見合い結婚の人のほうがより幸せになるというデータもあります。(「選択の科学」という本でかつてそれを目にしました。)異性同士が多数派でしょうが二人の人間が惹かれるその状態をオブラートで包んで表現したものの一つというふうにロマンチック・ラブを受け取っています。

 

しかし引用した河合氏の言葉には興味を引く記述があります。「エロスというのはすごい情熱ですから、ものすごい迫力を神に向けて神と合一するような方向にまで高めていくことはできないだろうか」の部分です。西洋人の多くはそれは不可能ではないかという理解をしたようです。一方で、インドでは神との合一のことをヨーガといいますが、その最も簡単なものがバクティ・ヨーガだとされます。バクティとは神への愛のことで、神をひたすら愛することが最も簡単に神と合一する方法だということです。インドでは神を愛することが最も簡単な道だとされる一方、西洋ではそれは不可能だと受け取られるほど困難だとされたわけです。インドでいうところのバクティ(神への愛)にエロスの要素がどれだけ含まれているのかは定かではありませんが、愛は愛です。フロイトが性のエネルギーが創造のエネルギーだと述べたように、バクティを支えるエネルギーにそういう類のエネルギーが少しばかり混じっていても不思議ではありません。インドでは長年にわたる神への愛は最終的に純粋で普遍的な愛へと昇華されると受け止めている、ような気はしています。

 

神への愛とは神へ向かって歩むことであり、神へ向かって歩むことは人間社会(人間関係)から少しずつ離れていくことを意味します。一方で人間は本来社会的存在です。人間社会から離れることは多少なりとも不安を伴います。それを補うのが祈りということになります。
The words you utter, the deeds you do, the prayers you make must all be directed along the same path  - SriSathyaSaiBaba
(あなたが発する言葉、あなたが行う行為、あなたがなす祈りはすべて同じ道筋に沿って方向づけられているべきです。)
という言葉があります。私の見解では出発点は祈りです。真摯な態度で祈るとき、自らの心を満たす純粋な思いに気づくことができます。そしてそこから言葉が派生し、言葉と調和のある行為がなされます。人間とは結局のところ思いと言葉と行為の調和のことですが、神へ向かって歩むことを始めた人こそが祈りを習慣とすることができるのならば、神へ向かって歩み始めること、つまり神を愛することが人間としての生の始まりです。

 

このように河合氏が解説するところの西洋の愛(ロマンチック・ラブ)と私が現時点で理解している神への愛(バクティ)とはかなり様相を異にするものです。近現代日本は西洋以外の文化に目を閉ざしてきましたから、愛に関する視野が制限されているのは仕方ありません。愛に関してもインドから多くを学ぶことができることを日本人に知ってほしいという思いはあります。また西洋的な受け取りでもインド的な受け取りでもなく、愛が心にきざしたときまずそれに自ら誠実に向き合う態度はあっていいでしょう。私個人は日本人の伝統的な愛の受け取りはインドに近いような気はしています。