愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

超越者(神)は人間の思いに対応する

 

先週の記事の中で、「親=神はえこひいきをするのかといわれそうですが、あくまでも私の数十年間にわたる実感ですが、神には自分が神が求める通りに振る舞ってくださる傾向があるのではないかとそう思うわけです。当然それに応じたある種の振る舞いが普段から求められているのですが。」と書きました。このことに関して今日は少し補足をしたいと思います。

 

「神は私たちが求める通りに振る舞う」。いつもとは限らないでしょうが、こういうこともあるということです。たとえばタイティリヤウパニシャッドのブルグヴァリの中に次のような詩節があります。
「タットプレティシテーテュパーシーター プラティシターヴァーン バヴァティ
タンマハイテュパーシーター マハーン バヴァティ
タンマナイテュパーシーター マーナヴァーン バヴァティ
タンナマイテュパーシーター ナムヤンテースマイ カーマーハ
タド ブラメーテュパーシーター ブラフマヴァーン バヴァティ
タド ブランマナ パリマラ イテュパーシーター パルエーナ厶 厶リヤンテー ドヴィシャンタス サパトナーハ」
(それをすべての基礎として瞑想したとき、人は基礎のしっかりした存在になる。
それを偉大なものとして瞑想したとき、人は偉大になる。
それを心として瞑想したとき、満ち足りた心が授けられる。
それを敬意を受けるものとして瞑想したとき、彼のすべての欲望の対象は彼の前にひざまずく。
それを至高の主として瞑想したとき、人は優越性、最高の地位を獲得する。
それをヴェーダそのものとして瞑想したとき、人はヴェーダの知恵を与えられる。」
私の訳が適切かどうかは少し疑問がありますが、要するにこれらの詩節が述べているのは、「それ」を瞑想するとき、私たちはその瞑想する姿に対応したものとなるということです。瞑想というのは私たちの態度で、それに対して瞑想の対象は私たちをそれにふさわしいものにするということです。

 

ユダヤ人たちは救世主を待ち望んでいるといいます。さて、そのユダヤ人たちがサイババのところにやってきて、「あなたは私たちの救世主なのですか?」と尋ねたことがあるようです。それに対してサイババは「それはあなた方次第です。(あなた方が私を救世主とするならば私はあなた方の救世主となりましょうの意味)」というように答えたようです。(「ようです」というのは厳密にどういう言葉が発せられたか記憶しておらず、そういうニュアンスの言葉だったということです。私は多くのサイ文献を読んでいて、印象に残る話は記憶に残っていますが、それらすべての引用元まで記憶していません。厳密なことが知りたい方は大変な作業になりますが、ご自身でサイ文献に当たられるのがいいと思います。)つまりサイババユダヤ人たちがサイババを救世主として扱えばユダヤ人たちの救世主として振る舞うと述べたわけです。サイババは人の思いや願いに沿ってふさわしく振る舞っていて、勝手に人が求めない振る舞いをすることはなさそうだということです。

 

約5000年前のユガアヴァターであるクリシュナは、養母のヤショーダには子どもとして振る舞い、アルジュナには友として振る舞い、ゴピカたちには愛すべき存在として振る舞い、敵対者には敵対者として振る舞い、それぞれに対して最終的に至福を授けました。クリシュナは人の思いに対応して振る舞っていたわけです。それぞれの宗教においては、奇跡体験として神がある特定の姿を取って現れたとされる話があるでしょう。それぞれの宗教の信徒たちにはそれぞれ思い描く超越者の姿があって、超越者はその姿に対応して現れるとされます。宗教の領域だけでなく、量子力学においても観測されるものは観測者によって定まるとされています。

 

つまり超越者(神)が人間の思いに対応して現れるあるいは振る舞うというのは、特別滑稽な説ではないわけです。日本人にはあまり馴染みのない考えなのかもしれませんが、世界の各地においてはそのようなことはある程度受け入れられているのかもしれません。超越者(神)はあくまでも人間の心や気持ちに寄り添っているわけでして、このようなことを踏まえれば、超越者に対する親近感が増さないでしょうか? そして逆に超越者を非難したり無視したり敵対しない方がいいのかもしれないと思わないでしょうか? 私にとっては超越者はグル(霊的に導いてくださる方)であり、困ったときに助けてくださる方であり、目的地です。超越者は私のこのような思いに対応してすべてを取り計らってくださっていると思っています。何でも試してみなければなりません。私がここに書いたことが本当かどうか、各人が試してみれば結果はわかります。科学はexperiment(実験)で確認されますが、霊性・信仰の領域ではexperience(体験)が証拠となります。多分に個人的なことになります。気のせいかもしれない程度を超えて体験を重ねてみることをおすすめします。