愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

リアルなものとしての神

 

インドにはリアリティ(現実、リアルなもの)をブラフマンと受け取る人がいるようです。私はこの受け取り方に基本的に賛成です。私は幼い頃から汎神論的でして、神は遍在で、すべては神であると受け取るのに抵抗はありませんでした。これまでの人生でリアルなものを感じ続けてきましたし、そのリアルさが私の汎神論的思考の基盤でした。

 

しかし一方で神について多くを語る人はこれまた多くいます。心に伝わってくることもあるのですが、話を聞いていてそれはあなたの考えに過ぎないのではないのかと思うこともよくありました。議論しても仕方ありません。その人の考え方もあるでしょうし、その人の背景には何百年何千年もの間の歴史的議論があるかもしれませんから。ただ人の考えたあるいは人が想像した神というのは、もしそれがただの思考であったり想像の産物であったりしたならば私にはあまり妥当な神に思えません。いわゆるマルクス主義者たちが宗教はアヘンだと呼んだに近いものです。マルクス主義者は想像的な宗教に対して物を対比させました。この物にはマルクス主義者たちが意識しているかどうかはわかりませんが、リアリティを含んでいます。たとえばキリスト教は神を想像的なものと受け止めているのでしょうか? あるいはリアルなものと受け止めているのでしょうか? 神を想像的なものと受け止めている場合とリアルなものと受け止めている場合とでは行動に違いが出てくるでしょう。世の中に非常に暴力的な宗教とそうでない宗教があるのは何が原因なのでしょうか? 自分たちの神だけが正しいという見解はどこから来ているのでしょうか?

 

西洋哲学ではリアルなものは語り得ないものであったと思います。人はリアルなものを目にするなりして想像を働かせます。その想像の領域において何らかの概念が形成されます。何かが語れるのは想像力のおかげです。私には神はなかなか語り得ない存在です。一旦想像されたものはリアルなものから離れていきます。

 

私はAll are One.(すべては1つ。)はマントラだと思っています。私もあなたもあれもこれも、私が知っているものも知らないものも何もかも含めたありとあらゆるすべてで1つです。もしこれが1つだと範囲を限って指し示すことができるならば、その境界の内と外があるわけですから、それは1つではありません。つまり1つであるということには境界がありません。1つであるとはinfinite(無限)を意味するのです。無限であるということは必ず語り得ない領域を含むということです。1つであるということはそこに語り得ない領域を含みます。想像を超えた領域があるということです。「私が語るものこそが神である」と主張するのは、つまり矛盾ではないかと私は思うのです。それよりもAll are One.の方がより真実を言い当てているように思います。

 

神=リアルなもの=語り得ない領域を含む=存在です。インドではブラフマンはサット・チット・アーナンダとされます。サットは存在です。私が今日語ったようなことです。チットは意識ですが、私たちに内在する純粋な意識のことでもあり、また多分先週私がこのブログで書いたようなことはブラフマン=神のチットの一側面ではないかと思います。たとえばマグカップがあります。それは存在していますからサットです。それにはマグカップという名があり名に沿った用途があります。それがチットです。そのマグカップを使ってスープなり飲み物をとればお腹が満たされるのでアーナンダ(至福)が得られます。それと同じように、存在(リアルなもの)としてのブラフマンがあり、そのチットとしての側面(先週私が書いたようなことを含みます)があり、それが組み合わされれば至福が得られます。

 

インド人たちの立ち位置に近く私はブラフマン=神をリアルなものと思っています。これを読んでいらっしゃる皆様はどうお考えでしょうか?