金剛心

 

今日は金剛心について書きたいと思います。金剛とはダイヤモンドのことで、金剛心とはダイヤモンドのように硬い心のこととされます。私などは最初この言葉を聞いたとき何となく頑なな心のように思えましたが、しかし今日は安定した心という意味で金剛心について述べるつもりです。大辞泉では「金剛のように堅固不動な菩薩の心。真宗では、他力回向の真実信心をいう。」とあります。もともと仏教の言葉です。

 

The mind fixed in the awareness of the One is like a rock - stable and secured and unaffected by doubt.  - SriSathyaSaiBaba
(唯一者を意識している状態に定まっている心は岩のようです。安定していて安全が確保され、疑いに影響されません。 サティヤ・サイ・ババ
というツイートをツイッターで見かけました。私はこれを引用して、―「(この宇宙、世界の)すべては一つ」。最初は信念なのでしょうが、これこそが人の心を安定させ、揺らぐことのないものにする。いわゆる金剛心だと思います。― とツイートしました。唯一者に気づいている状態とすべてが一つであることを意識している状態は厳密には異なるでしょう。浄土真宗では阿弥陀様から与えられた信心を金剛心と呼びますが、これは阿弥陀様の働きかけが我が身に働いているのを自覚しているのを前提にしている、つまり阿弥陀様を意識しているわけです。他方私はよく知らないのですが、仏教の他の宗派では因縁によって世界のすべてが一つにつながっていることの自覚を説くようです。唯一者を自覚することとその具現であるこの世界のすべてが一つであることは観点は異なりますが、重なるところがあります。

 

私は「ソーハム(私アハムはそれソーである)」というマントラを唱えることがありますが、ソー(それ)とは超越者、唯一者、神のことです。また因果の原理、縁起(因縁生起)を受け入れています。それらの影響もあって、私はすべてが一つであることの意識が他の人より強いことでしょう。その分おそらく心が安定しているように思います。サティヤ・サイ・ババのツイートも私自身のツイートも私の体験の裏付けが少しはあります。これが私の金剛心の受け取りです。かつて思っていたような頑なな心ではなく、広い空が誰からも破壊されないように、広い心は何事によっても破壊されにくい、そういうところがあります。

 

「すべてが一つ」。これを単なる哲学にとどめず、生活において実践しなければなりませんが、具体的にはどうすればいいのでしょうか? 私は目の前の義務に誠実に取り組むことがそれに当たるのではないかと思っています。世界は一つ。世界の中で私たちは互いに支えながら生きているのですが、世界の課題は私という個人に義務という形で届いてきます。私がその義務に取り組むことが私が世界の課題に取り組む最も有効な方法であると思います。このことの根拠は特にないですが、長年の実感としてそんな気がしています。例えば子が病気になればまず第一に親が子のことを気にかけなくてはならないでしょう。他所の人に全部任せることはふつうしません。家事は基本的に家族で対応するものでしょう。それが一般的だと思います。自分のことはできるだけ自分でし、家族のことは家族でできるだけし、余裕ができてきたらできる範囲で社会に貢献し、社会が豊かになれば国全体がよくなります。最終的にそれは世界の平和につながっていきます。

 

サイババの言葉をさらに引用すれば、「神への愛、罪への恐れ、社会での道徳」の3つが大切だとされます。この内のどれか1つがあれば他の2つはくっついてくるといいます。唯一者を意識していること、意識が絶えずそこに向いていればそれは唯一者つまり神への愛です。罪とは一つであるところに多を見ることであるという見解があります。例えば誰か他の人に暴力を振るうのはその人を自分とは別の人と見ているからですが、それは罪であるとされます。罪を恐れるとは「すべてが一つ」であることを否定しないように努めることです。社会での道徳は、各自が義務を意識して生きることでもあると思うのです。

 

お釈迦様は神性は語れるものではないとして神について語ってきませんでしたが、実は神性には姿があると示しています。それは真理とダルマと非暴力の3つであると宣言しました。つまり仏教は神学ではなく、道徳論を強調しています。お釈迦様は不二一元を道徳的に語りました。真理は神に対応し、ダルマは義務に対応し、非暴力は罪を避けることに対応します。

 

すべてが一つであることは、最初は信念かもしれませんが、その内それが実感されだすときがいづれくると思います。それは不動の心、金剛心をもたらしますが、心が安定している時に、人は人生を適切に歩むことができます。すべてが一つであることは人によってさまざまに表現可能でしょうが、人が真に深いものに根ざしているならば、間違いは少なく、人生は有意義なものになることでしょう。