愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

超越者との存在や意識の共有

 

先週「おそらく信心とは、信じる対象と存在そして意識を共有すること」だと書きました。今日は私が神仏(超越者)とどのように存在や意識を共有しているかを書きます。うまく表現できるかわかりませんが、私が超越者の存在と意識にどのように馴染んでいるかが伝わればと思います。

 

私は少年時代のごく若い頃から汎神論的な傾向が強くありました。汎神論とは簡単にいえば「一切すべてを神と同一視する立場 」のことです。しかしながら日本の神道にあるかもしれないアミニズムとは異なります。私は感覚器官で知覚する外界すべてにゆきわたる断固たるというか頑然たるというか否定しきれない一つの絶対実在(それが存在していること)を感じていました。私は運命に翻弄されて、自分が消えてなくなるちっぽけな存在だとはかなんだ時期でも、この世界そのものは私が死んだ後もずっと存在し続けるという思いがありました。その存在自体を超越者(の一部)だと受け取っていました。

 

年をとってさまざまな探求を行うと、次第に自分の内なる意識への理解が深まっていきました。目をつぶってそこにあるのは今も昔も意識ですが、その意識が多少なりとも浄化されてきて、例えばそれがあらゆる知識の源であると感じられたり、それが肉体と心を動かすエネルギーであるように感じられたり、それがハートから湧き上がる愛のように感じられたりするようになりました。人間が単なる肉体であるという前提からはたどり着けない、豊かな可能性として意識を受け取るようになりました。

 

インド哲学ではブラフマンをサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)と記述しています。外界に知覚する「存在」と内界を満たす「意識」が一つのものであるという理解が差し染めた時、私は平安、満足、至福の類を体験しました。信仰心が芽生えた印は心が明るくなったことだといわれます。信仰心とは決してせわしい心のことではありません。存在と意識が一つになって至福を感じたことは、私の信仰心の芽生えだったわけです。そしてこれが「おそらく信心とは、信じる対象と存在そして意識を共有すること」の私個人の理解です。

 

別の側面から補足します。
The Chaitanya that is present in the human body is called "conscience." The all pervasive Chaitanya is called "consciousness."  When the individual understands the principle of unity in diversity , the "conscience" gets transformed into "consciousness".(2003.01.01 Sathya Sai Baba)
(人間の肉体にあるチャイタニャは良心と呼ばれます。すべてにゆきわたっているチャイタニャは遍在意識(コンシャスネス)と呼ばれます。個人が多様性の内にある一体性(多様なものが実は一つであること)の原理・原則を理解する時、良心は遍在意識(コンシャスネス)へと変わります。)(※チャイタニャの詳しいことはわかりませんが、ここでは意識と受け取っておいていただきたいです)
若い頃の私は実は内なる良心に敏感な人間でした。そして不思議ですが、今は良心を意識することは日常生活であまりありません。風船の中の空気が外の空気と混ざってしまったように自分の内と外の境界が曖昧で、多分私はコンシャスネス遍在意識と共にあります。私の実感としては、良心よりもコンシャスネス遍在意識の方が存在に優しくなじみます。個人でい続けているというより、より大きなものとつながっている感覚です。

 

私は長年光明瞑想をしています。目をつぶって座っているときだけでなく、日常においても光を感じながら生活しているところがあります。光が神なら、私は神とともにいます。長年光明瞑想をし続けてきたがゆえの恩恵です。とても自然なものです。光明瞑想は信仰心をもたらしました。

 

一方真宗では次のように説きます。「最初しばらくは名号を唱えるのは努力かもしれないけど、そのうち自然に阿弥陀様の名前が口から出てくるようになる。その口をついて出てくる南無阿弥陀仏の名号は、阿弥陀様が私を内からも外からも包んで働きかけてくださっていることの印なのですよ。」私はこのことがよく理解できます。

 

あるいは私は愛する御名を御名の示す姿を思い浮かべながら繰り返し書くことをしています。そしてある程度の量を書いていると、時に誰がその御名を書いているのか気になることがあります。私の肉体(手)が動いて御名を書いているのは間違いないのですが、しかし本当のところは、その名前で示される方ご本人が自分の名前を書いているのではないかと思えるのです。つまり御名を書くことで、御名の対象と一つになる感覚が得られます。

 

このように、私が信仰心を育む上で、瞑想や御名が非常に役立ちました。