愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

信仰心について-真宗を通して

 

今日は信仰心についてです。真宗の中心テーマは信心(信仰心)ですので、真宗というものを通して信仰心を考えてみたいと思います。真宗の御教えの要は阿弥陀様を信じておまかせすることだと思います。何百年にもわたってこのことを手を変え品を変え説き続けてきたといえます。本当に信じることができたなら信心は空気のように当たり前のものなのですが、未だ信じきれていない人にとっては「信じること」は非常に難しいものです。魚にとって水は当たり前ですが、人間にとって当たり前でないのに似ています。

 

この「信じる」ということをどう表現するか、阿弥陀様への信仰をどのように受け取っているか。様々な人が様々に語ってきました。有名なものに法然上人の一枚起請文があります。これは法然上人が晩年の念仏の領解を述べられたものです。「もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。…」要旨は簡単です。蓮如上人も言葉を様々に用いて述べています。例えば「信心というのは、仰せのままにお救いくださいと弥陀におまかせしたそのときに、ただちにお救いくださるすがたであり、それを南無阿弥陀仏というのである。」などとおっしゃっています。これが何の苦労もなくできればまったく問題はないわけです。これだけで解脱、悟りに等しい状態に至るわけです。しかしこの信心を得ることがなかなか難しいという現状は、私の見る限りあるように思います。

 

人は自分の納得できる言葉で肝要要の信心を表現しようとします。それは領解(りょうげ)といいます。自分はどのように領解(りょうかい)し受け取っているかということ、信仰告白のようなものです。真宗においてはこの領解がかなり重要なのではないかと少ない門徒経験から感じています。

 

実のところ人には信じる心が生まれながらに備わっています。赤ん坊は母親を信じています。私たちがレストランで食事をする際、料理人を信じています。一々毒が入っているのではないかと疑いません。ただの紙切れである紙幣で物が買えると信じています。道を歩いていて次に踏み出す一歩を大地が支えてくれると信じています。実際のところ信じることなしで生活は不可能です。しかしながら信じる対象が神仏になると困難を抱える人が少なからずいます。どうしてなのでしょうか?

 

何かを信じるとはどういうことなのか? おそらく信心とは、信じる対象と存在そして意識を共有すること、そしてそれを自覚していることだと私は思っています。赤ん坊は9ヶ月お母さんのお腹にいて、出産後もその時と近い感覚が母親に感じられるのでしょう。レストランの料理人は自分に似た人間で、同じ人間として親和の感覚があるのでしょう。感覚的に親近感が感じられるもの、あるいは違和感が感じられないものはいわれなくても信じれるということです。神仏をなかなか信じることができないというのは、神仏と意識を共有しそこなっているということではないか、そしてその存在をなかなか思い描くことができないということではないかと私は思っています。

 

以前このブログで取り上げたことがありますが、法然上人に次のような歌があります。
 月かげのいたらぬさとはなけれども

 ながむるひとのこころにぞすむ
 (月の光の届かぬところはないけれども、月は眺める人の心にこそ宿る)
月は満ちたり欠けたりしていますが、ほぼ毎晩夜空を照らしています。しかしながら月のことをまったく意識しないで何年も過ごしている人はおそらくいるでしょう。神仏はいつも私たちの存在と意識を照らしてくださっているのですが、それに長い間気づかない人が少なくないのと同じです。月はいつも夜空にあって月を愛する人はいつも月を眺めています。神仏を愛する人はいつも神仏を意識しているのと同じです。無信心者、無神論者には神仏は存在しませんが、神を愛する人、信じる人には神仏は確かに存在しています。

 

神仏と意識を共有することは、双方の意識が近い性質を持っている場合にのみ可能でしょう。神は愛だと思うならば、自らが愛の人である時両者は共鳴します。神は明晰であると信じるならば、少なくとも自らの心を常に落ち着いた状態に保つ必要があります。そうして両者は近しい関係になります。今の私はまったくそう思っていませんが、神が厳しい存在であると思っている人は、そういう神を信じるために厳格な人間であろうと心がけているかもしれません。神仏の性質に関しては聖職者がさまざまに語ってくれるでしょう。あるいは人によって神仏とはこういうものであるという思い込みもあるでしょう。聖職者の語ることや自らの思い込みが正しいかどうかはわかりませんが、私たちが神仏と意識、存在を共有している時に信仰心が確かなものになっていると私は思うのです。