愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

お寺参りをして4

 

今日も先月お寺参りをしたときに聞いたこととそれについて思ったことを書きます。今日は蓮如上人のお話です。説法師さんがいうには、以下述べる話は伝説であって、事実に基づいた実話なのかあるいは蓮如上人のお人柄を伝えるために作られた作り話なのかわからないとのことでした。

 

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蓮如上人は毎日髭を自分で剃らずにお付きのものに剃らせていたようです。しかし蓮如上人は絶えず口に念仏を唱えていらっしゃるので、髭を剃るお付きのものは細心の注意を払っていたようです。今の時代のように電気カミソリはなくT字カミソリもありません。少しでも間違えれば顔を切ってしまいます。お付きのものは気が気でないので、ある日蓮如上人に「髭を剃る間くらいは念仏を唱えるのを控えていただけませんでしょうか?」とお願いしたようです。それに対して蓮如上人は「これは私が念仏を唱えているのではなく、阿弥陀様のお働きによって口が勝手に唱えておる。なのでどうしようもない。」とお答えなさったようです。そういわれればどうしようもないので、お付きのものは毎日毎日注意を払って蓮如上人の髭を剃り続けたようですが、蓮如上人の顔を傷つけないようにすれば、どうしてもたまに剃り残しがあります。この次第を伝えるために、真宗門徒が仏壇に掲げる蓮如上人の絵像には頬に髭の剃り残しが描かれているということです。
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以上のような話でした。この話を聞いて家に帰って、私も家の仏壇にある蓮如上人の絵像をじっくり見てみました。確かに頬に黒い模様がついています。昔の絵像はちょっとした線や形にも意味があるのだなと感心したものです。この髭の剃り残しは本願寺からいただいた絵像にはあるけれども、どこかの仏壇・仏具屋さんや業者さんが調達したものにはないこともあるとのことでした。

 

蓮如上人が口に念仏を唱えるのは他力によるものであって自分ではどうしようもないということを聞いて、門徒の方々は学ぶわけです。私はこの蓮如上人の伝説は霊的真理を伝えていると受け取っています。他力あるいは一般に完全な全託においては、自分の行為は自分がしているのではありません。これはかなり際どさのある真理でして、精神的に弱っている人の中には自分は操られていて自分が行為をしているわけではないと主張する人がいるようで、この病理として操られているということと、全託・他力とは異なるものでしょう。

 

往相回向還相回向という観点から見てみましょう。口に念仏を唱えるのは我が身が阿弥陀様のお働きに包まれていること、そしてそれは往生が確かなものであるという阿弥陀様からの回向(往相回向)の印なわけです。そして私の見方としては、口に念仏を唱えるだけでなく、ありとあらゆる行為が阿弥陀様のお働きの印であると受け取るのは阿弥陀様からの回向(還相回向)とでもいえるものです。蓮如上人もいっていた諸法無我(エゴなしで過ごすこと)に照らしていえば、エゴのない状態での行為はすべて阿弥陀様に委ねた結果としての行為であって、それは本人が自覚していようといまいと、信心をすでに得た人が他者にも信心を得させようとする行為になります。つまり阿弥陀様の手足となることです。おそらくですが、真宗の正統な教義としては、信心を得た人が一旦極楽に往生して、そして再びこの娑婆世界に戻ってくるのが還相回向なのでしょうが、私は私なりに今は理解しておきます。

 

一応回向という言葉について簡単に触れておきます。一般に他宗派では回向という言葉は自分の行った善行の功徳を仏様や先祖に捧げることをいいます。真宗ではまったく意味が異なっており、私が回向するのではなく阿弥陀様が私たちに回向してくださいます。阿弥陀様はすでにすべての人の往生を確かなものとしてくださっており、その願行功徳を私たちに与えてくださると考えます。これが絶対他力ということの意味です。私はこれはこれで一つの真理だと思っています。私が何かをなすといってもほとんど何もなすことはできないと私は日々感じていて、もし何かわずかばかりでも私にできることがあるのならば、それは超越者(阿弥陀様)のお働き(恩寵、祝福)以外の何ものでもないというのが私の信仰です。実際のところ、帰依者というものは行為の結果ではなく恩寵、祝福のみを求めるものでしょう。そして真宗においては往相回向は信仰をあらわし、還相回向は帰依をあらわしているともいえます。