愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

蓮如上人

 私の家には仏壇があって、毎朝晩手を合わせて拝んでいます。仏教全般の聖典を読めばいいのでしょうが、一生かかっても読むのが難しいほどに聖典はたくさんあり、そうであるので、家の宗派が真宗であることもあって、ここしばらくは仏教といえば真宗聖典にしか目を通していません。真宗聖典といってもそれでも沢山の種類があるのですが、読書量の減った今となっては好みのものばかりしか読んでなくて、私の好みといえば蓮如上人になります。それもただの2冊です。1冊は『蓮如上人御一代記聞書』、もう1冊は『御文章』です。
 
 真宗ならば、浄土三部経親鸞聖人関係、七高僧関係、蓮如上人関係、その他があります。私はかつて他力というものを十分に理解していなかったので浄土真宗が嫌いでした。しかし妙好人の存在を知って俄然真宗に関心を持ちました。妙好人とは簡単にいえば奇特な信者のことですが、この妙好人を輩出した宗派は日本仏教においてはもしかしたら真宗だけかもしれません。ある教えが優れたものかどうかは信者を見ればいいといわれます。ある師が優れているかどうかは弟子を見ればいいといわれます。私は妙好人を知ることで、真宗理解のとっかかりができました。
 
 妙好人のことだけを学んでも多くが学べるのですが、自分で真宗を理解しようとした時、一通りのものに目を通したのですが、心をつかんだのは蓮如上人でした。なぜならば「簡単」だからです。蓮如上人といえば御文章であり、御文章を繰り返し読めばわかるのですが、蓮如上人は同じことを繰り返し繰り返し述べています。私の理解するところでは、それは「他力の信心」、「本願力」、「感謝報恩の念仏」です。
 
 蓮如上人によれば、肝心要は「他力の信心」です。他力の信心とは阿弥陀如来が与えてくださった信心ということです。自分で培った信心とは異なります。疑い深い現代人にしてみれば、信仰心というものはずいぶん難しいものに思えるかもしれませんが、真宗によればそれはポンと阿弥陀様が与えてくださるのです。一般に回向(えこう)といえば、自分が行を積んでその功徳を仏様に捧げることなのですが、真宗はそうではありません。仏様が人間に回向=与えてくださるのであって、信心もそうなのです。一般に人には生まれたときから信じる心は備わっていると聞くので、他力の信心は決して的はずれな考えではないと私は思っています。
 
 次に「本願力」です。48の願を立てこれらの願が叶わなければ仏にならないと誓った法蔵菩薩阿弥陀仏になられたのですが、つまり真宗の教義としては、48の願は真理であって機能しているわけです。48の願にはたとえば次のようなものがあります。「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」(第1願)「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、形色不同にして好醜あらば、正覚を取らじ」(第4願)読む機会があれば読んでみるといいですが、法蔵菩薩はさまざまな願を立てられていて、阿弥陀仏の御もとにあるものにはこれらの願が働いているとされます。たとえば餓鬼がいないのですから、日々食べるものがあることは本願の働きによるものです。衣服についても他の願で述べられており、日々着るものがあることも本願の働きによるものです。つまり私たちが日々見聞きし体験し生活を守っているのは如来の本願の働きであると蓮如上人はおっしゃっているのだと思います。他力の信心がそれを可能にしているのかもしれません。
 
 最後に「感謝報恩の念仏」です。私たちが見聞きし体験しているのがすべて如来の本願の働きであるならば、感謝の念があってしかるべきで、真宗においては念仏は感謝報恩の念仏であると蓮如上人はおっしゃっています。
 私の理解では、蓮如上人はこれらのことを繰り返し述べておられます。
 
 真宗の教義を離れても、私たちが日々平穏無事に生活できるのが神仏のおかげであると考えるのはとても自然なことであり、神仏の御名を唱えることに関しても、感謝報恩以外に意義はありますが、感謝の気持で御名を唱えることは宗教を生きる人万人に勧められていいことです。蓮如上人が教えてくださっていることには普遍性があります。
 
 蓮如上人の目には他力の信心を得ていないものがたくさんいたわけで、それが故に他力の信心について一生説いてきたわけですが、一見簡単なようで実は難しいことなのかもしれません。私もある面ではその困難さはわかるのですが、ある面では万人に生まれながらに備わっている信じる心を受け入れるに過ぎないとも思います。
 
 宗教や仏教を難しく考える人には、そんなことでいいのかと思うかもしれませんが、私はそれでいいような気がします。もちろん他宗派は他宗派でそれぞれ素晴らしい教えを説いているわけです。