愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

霊的文献を定期的に読むことに関して

 

私は霊的文献を定期的に読んでいます。仏教の聖典真宗聖典サイババの御講話、バガヴァッド・ギータなどが中心です。かなり前は聖書に関係する本も少し読んだことはあります。儒教を霊的文献と捉えるかどうかは人によりけりでしょうが、これも少しは読んだことがあります。読む量が増えれば、当然の結果として頭が一杯になります。あまり好ましくないことです。

 

本当に内容を深く理解していれば、多くの御教えは必要なく、わずかな御教えで十分です。たった一つの御教えでも人生を成就させるに足りるでしょう。私もこのことはわかっています。それなりの量を読んでいれば、自分の心に繰り返し訴えかけてくる御教えがあることに気づくものです。それを生活に取り入れて継続的に実践していけばそれでいいはずなのです。特定の宗派に属しているなら、その宗派が特に勧めることに従ってもいいでしょう。私は人が何を実践してもいいと思いますが、できるならばその意義を十分に理解した上での誠実な実践が好ましいと思っています。

 

私がこのブログで書いていることには、程度はいろいろですが、一応それなりに私の経験の裏付けがあります。つまり私は自らがわずかばかりでも実践したその体験にまつわることをここで書いています。このブログを始めて約10年が経とうとしていますが、その間500近くもの記事を書いてきましたが、しかしながら私が継続して実践していることはそれほどは多くありません。御名を唱えること、日々の瞑想、マントラを唱えること、奉仕、節制、義務への配慮、自己探求などです。これを見れば、私が正統な真宗門徒でないことがわかります。

 

実際に人に必要な御教えはどのくらいかといえば、先に書いたように一つで十分な人もいれば、私のようにいくつも生活に取り入れた方がいい人もいるでしょう。十分に理解していれば御教えは一つでいいにもかかわらず、今現在私がなぜいくつもの御教えに従っているかといえば、一日24時間(あるいは起きている時間)いつでも何らかの御教えに従っていたいからです。例えばマントラを毎日24時間唱えることは非常に困難ですが、ちょっと時間が空いた時に口にすることはできます。いわゆる奉仕も一週間に5時間、10時間くらいはできても毎日起きている間中することは困難です。ただ私はできる限りの時間を何らかの御教えの実践に充てたいと思っているので、いくつかの御教えを状況に合わせて交互に実践しています。24時間を可能な限り何らかの御教えで満たす時、自分が人生において何かを選択できる余地というものはほぼ何もありません。私はそういう状態を好んでいます。

 

例えば何か一つの御教えを意識的に行っている人がいるとします。それはすばらしいことです。しかし私が見てきた人の中には、「私はこの御教えを忠実に行っている」と、本人は気づいていないのかもしれませんが、エゴの感覚を漂わす人がいることを否応なしに感じることがありました。私はそういう状態を好まなかったので、そういうふうなことを考える余地がなくなるように、霊的文献に目を通し続けてきたというのが実情です。優れた霊的文献を読み続けていると、私は自分がいかに何もできていないかに気付かされるのです。さらに、自分が実践している御教えに関して偶然に深い気付きが得られることがあります。エゴに焦点を与えないように、私はこれからもしばらくは霊的文献を読み続けることでしょう。

 

読んだ量に対して、実際に生活に取り入れていることはごくわずかです。読んだことの大部分は忘れています。しかし24時間可能な限り何らかの御教えを実践できている現状にほどほどには満足しています。たくさん読むことが偉いわけではまったくありません。心に確かに刻み込まれている御教えだけがその人に本当に必要な御教えのすべてであることでしょう。私はたまたま定期的に霊的文献を読み続けていますが、これは必ずしもすべての人に勧められることではありません。本来は、霊的文献でさえも自分に必要なところだけ読んでいればいいのです。