愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

お寺参りをして1

 

今年の年頭に一年の目標をたて、家の中や周囲などの諸片付けを課題に挙げました。半年経ち、片付けは多少は進んだのですが、業者の方の力を借りなければならないこともあり、その業者さんの都合がなかなかつかなく、一番の問題が手についていません。今年後半にかたがつけがいいなと思っているところです。

 

またブログの記事は500になります。このブログを5年続けて250ほど記事を書いた時に、あと5年書くつもりである旨を述べたのですが、無事約10年近く書き続けることができました(正確には9月末で10年です)。今はまださまざまなテーマで書けそうな感じなので、あと5年近く(250の記事)はがんばれたらいいなと思っています。書こうと思っても書く気力、意欲がなくなればそのときは潔く更新をやめるつもりですが、当面は大丈夫そうです。これもひとえに読んでくださる方がいるおかげです。謹んで感謝申し上げます。そして時々でもいいので、これからも読んでいただけますとうれしいです。

 

さて前置きはここまでとして、今月お寺参りして御法話を聞く機会があったので、それに関して今日を含めこれから何週間かにわたって思ったことを書くつもりでいます。

 

他の宗派のお寺ごとや他の宗教の集まりに参加したことがないので比較はできないのですが、浄土真宗の説法師さん方は皆さんお話が上手です。お話のうまさに関してはプロだなと感じています。自由自在に仏教そして真宗の御教えに関することを話されます。しかしながら、話すときには少しばかり約束があるようです。それは0から話を作ってはいけないということでした。必ず真宗聖典にある御言葉を種に話をしなければならないようです。真宗聖典は大きく分けて2つに分かれると思います。親鸞聖人以後と以前です。親鸞聖人とそれ以後の門主方の御言葉はある種新約聖書のようなもので、龍樹菩薩以後法然上人までの七高僧方の御言葉は旧約聖書のような感じです。御法話では親鸞聖人と以後の門主方の言葉を取り上げることが多いのですが、親鸞聖人以前の高僧の方の御言葉を題材に話をされることもあります。どちらであっても、聖典に実際に載ってある御言葉を種に法話をしなければならないというルールがあるようです。0の話を作ってはならないけれども、1を10にも100にもふくらませるのはいいようです。説法師の方々は、ご自身の体験や門徒の方々から聞いた話、あるいは世相を切り口にさまざまに人の心を惹きつける話をされます。お寺に行くのを気詰まりなものだと感じている方がもしかしたらいるかも知れませんが、私が通っている真宗のお寺に関してはそういうことはなく、話はいつも楽しいです。そしてお寺に参ってすることといえば、お経をともに読むことはありますが、中心はご説法を聞くことだけです。

 

前回、前々回と真宗においては信心が大切であることに触れましたが、実際には説法の目的は安心を伝えることのようです。真宗の教義に詳しくなることや、お経や聖典の文句を覚えることや、何か行をすることは目的ではありません。先週書いたように、信仰が心に兆した印は心が明るくなったことですから、安心とはつまりは信仰が確かなものになったということの印です。真宗だけの話ではなく、自分が何らかの信仰心があるかどうかは、自分の心に問いかけてみればいいわけで、つまりは不安がないかどうかということです。他人にはわからなくても、自分なら自分が不安や疑問を抱えているかはわかるでしょう。ある種学問的な疑問のようなものが残っていたとしても、不安が取り除けていないということは、信仰心を抱けていないとまあ受け取っていいように思います。

 

私の見解としては、信仰心を得るというのは人生の出発点に立つということです。信仰心を得るまでの人生と得た後の人生は趣が変わってくるはずです。真宗では往相回向還相回向という言葉を用いますが、それに近いニュアンスの違いがあるように思います。たとえば、一本のろうそくから多くのろうそくは火と光を得ることができるように、信仰心を得た一人の人は信仰心のない何万人もの人に比べて、明らかに他者に信仰とはどういうものかを示すことができます。さらには信仰を得た人は単に自分だけのために生きる傾向は少ないように思います。湧き水がこんこんと清水をもたらしてくれるような感じです。

 

私は御法話を聞くくらいで、お寺の方とはまだ十分に親しい関わりをもっているわけではありません。少し距離はあるかもしれません。そんな私のようにお寺の端っこにいても、十分に良い影響を受けています。仏教に限ることではないのですが、何か惹かれるようなところがあれば、お寺なり教会なり神社の門を叩いてみるのもいいと思います。