友なるもの

 かつても書いたことがあると思いますが、インドの主な神様は108あるいは1008もの数の名前をもっています。帰依者たちが崇める神様に見るさまざまな特質がうかがわれます。インド人はこのようなたくさんの名前を唱えることを習慣にし、それを通じて神についての概念を深めてきたのだと思います。

 私はかつて漠然と神様を思っていましたが、そのころは全知、全能、遍在くらいの特性しか想像しませんでした。ですので、初めて108の御名あるいは1008の御名の存在を知って、その一端に目を通したとき、驚くと同時に感動もしました。

 私が関心をもった御名はいくつもありますが、その一つに「オーム シュリ アサハーヤ サハーヤーヤ ナマハ」というものがあります。一つの文章のようですが、これ全体で一つの御名です。

 シュリ:敬称(日本語では様のような意味)あるいは吉祥、栄光
 サハ:共に、ア:(否定を表す辞)→アサハーヤで助けのいないもの、友のいないものという意味になります。
 サハーヤ:友、助け、寄る辺
 ナマハ:帰命する、お辞儀をする

 したがって、「オーム シュリ アサハーヤ サハーヤーヤ ナマハ」は「助けのいないものの助けであるお方に帰命いたします。」「寄る辺のないものの寄る辺であるお方に帰命いたします。」「友や仲間のいないものの友であるお方に帰命いたします。」という意味です。

 私はかつて深い孤独を味わったことがあり、また孤独を味わったことのある人、今孤独を味わっている人が世の中にたくさんいることを知っているので、この御名にはとても心が惹かれます。

 この世の中で誰も助けにならず、天涯孤独の境地であっても、いつもその人の友として神は寄り添っている、これは長い時間をかけてやっと理解することのできた私の実感であり、そして他の人にも、あなたは決して一人ぼっちではないよと宣言できる希望の御名でもあります。

 I'm here, why fear.(私がここにいるのになぜ恐れるのですか?)と私の師は言います。頭で神の遍在(つまり、自分の目の前にも、後ろにも、横にも、上にも、下にも、周りにも、内にもいるということ)を理解していても、本当にこの言葉の意味を体得するには少し時間がかかるかもしれません。私は恐れを抱くことは今滅多にないのですが、何かがあったときに一人閉じこもって思考に入り込むことがあります。しかし、もし神の遍在が毎時毎分意識されていたならば、一人でそう考え込まなくてもいいのです。

 またこのように目には見えなくてもすぐそばにいる神に気づいているならば、人間関係に苦しむことも減ります。インド人の友人は言ったものです。「神との関係さえ築くことができさえすれば、他の人との人間関係は自動的に調整される」と。私は以前に比べ人間関係に悩むこともずっと減りました。

 ですので、孤独を感じている人や人間関係に悩んでいる人がいれば、遠回りのような気がしても、神との関係、友情を築くようにしてみたらどうかと思うのです。